6-6 : 翡翠
ローマリアが、椅子に腰掛け、背中を私の方に向けている。
私はローマリアの真後ろに立って、右手に櫛を持っていた。
……うむ、自分でもこの状況がよく分からなくなってきた。
「……本当にこんなことでいいのか?」
私は念のため、ローマリアに確認する。
「……無粋ですわね……。次にそういうことを口にしたら、呪い殺して差し上げますわ」
これは割と本気で言っているな……ローマリアの逆鱗に触れかけた私は、“そういうこと”を言うのをやめた。
というよりも、長い黒髪に隠れた耳が赤くなっているのを見てしまったら、もう“そういうこと”は言うに言えなかった。
ローマリアの髪を、手に乗せる。細く肌理の細かいその髪の毛は、ただ手に乗せているだけなのに指先から流れ落ちていく。例えようのない、独特の感触だった。
その触れた毛先から、ローマリアの肩に力が入っているのが伝わってきてしまい、私は気が散って全く集中できないでいた。
仕方ないだろ……こんなこと生まれてこの方、やったことがないのだから……。
私はぎこちない手の動きで、ローマリアの髪に櫛を延ばした。
毛先から10センチほどの位置に櫛を入れ、真っ直ぐな髪の毛をなぞるように梳いていく。ローマリアの黒髪は櫛の目を水のように無抵抗に流れていき、毛先まで梳き切ったのが分からないほどだった。
「……大丈夫か?」
他人の髪の梳き方など心得ていない私は、神経質気味にローマリアに尋ねた。
「……ええ、大丈夫ですわ。ゆっくり、優しく梳いてくださいまし」
私は徐々に櫛を入れる位置を上にずらしていきながら、丁寧に何度もローマリアの髪を梳いた。
そしてローマリアの頭頂部に櫛を入れかけたところで、私はふと気づいて、手を止めた。心臓の鼓動が、1段階速くなるのを感じた。
「……外せ」
私は声が震えてしまわないかと気に病みながら、口を開く。
「……なんです?」
ローマリアが、わずかに首を回して、尋ねてきた。
「……眼帯を、外せ。止め紐が邪魔で、櫛が入らん」
ローマリアの艶のある髪の束の中に、黒髪よりも薄い黒色をした眼帯の止め紐が覗いていた。
「……分かりましたわ」
ローマリアが、右目に手を延ばし、止め紐を緩め、眼帯を外した。私に髪を梳かせるために俯いた姿勢でいるローマリアが、どんな表情をしているのか、背後に立つ私の側からは全く見えなかった。
邪魔だった右目の眼帯の止め紐がなくなったことで、私はローマリアの後ろ髪をすべて梳き終えた。
残るは――。
私は椅子を回り込んで、ローマリアの前面に移動する。
「……前髪も、梳くのだろう?」
俯いた姿勢のままでいるローマリアに、私は語りかけた。
「……はい、お願いしますわ」
そして、ローマリアが顔を上げる。
眼帯を外した右目にも、左目と同じ、翡翠色の瞳があった。ただ、左目の瞳のように吸い込まれそうなほどの澄んだ深みはなく、宝石に適さず捨てられた原石のように、その右の瞳は濁りきっていた。
250年前、ローマリアを四大主とならしめ、“三つ目の魔女”の異名を頂かせるに至った右目である。
私は、250年振りに目にするその右目をじっと見つめながら、ローマリアの前髪に櫛を入れ始める。
また、胃の辺りがムカムカしてくるのを感じた。櫛を持つ手に力が入り、ローマリアの髪が櫛に引っかかってしまう。
そして、私は気づいてしまう。ローマリアの右目の瞳の、不自然な揺れ方に。
「……ローマリア」
私は声をかけながら、ローマリアの頬に手を当て、ローマリアの左目を手の平で覆い隠した。
「……ゴーダ?」
左目を私に塞がれたローマリアが、私の方を仰ぎ見る。右目の瞳は、先ほどよりも尚増して、上下左右にふらふらと小刻みに揺れ動いていた。
「お前……その右目……見えてないのか?」
濁りきり、焦点の定まっていない右の瞳が、所在なげにふらつき続けている。
「嗚呼、そんなことですか……。ええ、“あれ”から少しずつ暗くなっていって、今はもう、何も見えませんわ。100年ほど前のことでしたかしら。まあ、ふだん眼帯をしていれば、見えようが見えまいが、関係ないのですけれど」
「……そんなわけあるか……」
“そんなこと”だと……? “関係ない”だと……? そんなわけがあるか……私は……“俺”は……お前がそんな風になっていくのが……お前がそんな風になってしまったのが、見ていられない……。その右目に、自分の意志で身を委ねてしまったお前の成れの果ての姿なんて、俺は見たくなかったんだ……。
「(お前はもう少し、自分の身体を大事にしろ……)」
喉がからからに渇いて、私は声にならない声を出す。
「? 何か仰いました?」
当然、そんな声はローマリアには聞こえない。ローマリアの声も、酷い耳鳴りにかき消されて、私の耳まで届かない。
「……? ゴーダ? また震えていますわよ……?」
ローマリアが、左目を覆い隠している私の手に自分の手を重ねてきたが、頭の中で思考が渦巻いている私には、その感触が分からなかった。
250年前の記憶が、フラッシュバックしてくる。ここを出て行くときに捨てたはずの、かつての私の感情が、ゴボゴボと噴き出してくる。
……怖い。手の震えが止まらない。
ローマリア、何でお前はこんなところにたった1人でいられる? ローマリア、何でお前はそんな力を欲しがった? ローマリア、俺をこの世界に召還したお前は……俺が憧れた、最高の師匠だったのに……それ以上の人だったのに……何でお前は、そんなところに堕ちてしまったんだ……?
……怖い。身体が冷たい。
……怖い。息をするのが苦しい。
……怖い。頭が狂いそうだ。
……怖い。恐い。こわい。こわいこわいコワイコワイコワヰ……。
「ゴーダ!」
ローマリアのその声が、ようやく耳に届き、私は思考の迷路から抜けだした。
「……大丈夫ですか?」
私は、ローマリアの左目に覆い被せていた手をどけ、持っていた櫛をテーブルの上に置いた。
「……すまん、昔のことを思い出して、混乱していた……。梳き終わったぞ。これで満足か?」
ローマリアの声がようやく聞こえたことで、私の古い記憶と感情は、再び250年という時の重石の下に還っていった。
「……ええ、満足ですわ、とても」
ローマリアが、右目に眼帯をつけなおしながら、満たされた様子で言った。
「嗚呼、こんなに愉しかったのは、いつ振りですかしら」
そしてローマリアは立ち上がり、握られた右手を私に突きだしてきた。
「契約は果たされましたわ。約束通り、魔導器“偽装の指輪”は貴方に差し上げますわ」
ローマリアが右手を開き、そこから指輪が、私の手の平に零れ落ちる。
「……確かに受け取った」
それだけいうと、私とローマリアは、何も言わずにしばらく目を合わせている。
「……お帰りになりまして?」
最初に口を開いたのは、ローマリアだった。
「ああ、用は済んだ。引き揚げるとしよう」
「そうですか。またいらしても構いませんのよ、ゴーダ?」
……ローマリアのその言葉に、私は一瞬沈黙して、そして――。
「いや……もうここには来ないだろう……2度とな」
それだけ言って、私はローマリアに背を向けて、塔へと通じる転位昇降機のレバーを起動させる。
転位昇降機の陣の中に入ったところで、私はローマリアの方に向き直って、一言だけ口にした。
「貴様はもう、かつての私の師匠でも、かつての私の憧れた人でもない。ただの堕ちた、外法者だからな」
私のその言葉を聞いて、ローマリアが表情をぐにゃりと歪め、嘲笑に満ちた笑みを浮かべた。そしてローブの裾を上げて、余所余所しい儀礼の動作をとり、愉快げに口を開く。
「アはっ……ええ、わたくしは四大主“三つ瞳の魔女ローマリア”。かつての貴方の師“翡翠のローマリア”は、もうここにはおりませんわ」
そう。その通り。私が憧れた“翡翠のローマリア”は、もういない……。今のお前は“三つ瞳の魔女ローマリア”。“魔剣のゴーダ”と嫌みばかりを言い合っている、四大主の1人。ただそれだけだ。それでいいじゃないか……。
次の瞬間、私は星海の物見台のかつての研究室に転位し、鐘楼に残った魔女の姿は、跡形もなかった。
***
「さて、偽装の指輪は手に入れた。これで問題なく目的を果たせる」
星海の物見台を後にして、私は一路、イヅの城塞への帰路に就く。
「……潜入するぞ。明けの国の王都へ……」
***
――……。
ローマリアが1人、鐘楼の椅子に腰掛けて、月を見上げている。
静寂と静止しかない空間に、転位昇降機を上って、1体の人形が現れた。
「きれいきれぇい」
人形は頭に乗せた盆に、ティーセット一式を乗せていた。ローマリアが転位魔法で下げた茶器を、洗って持ってきたのである。
「ふふっ。御苦労様ですわ」
トコトコと足下に歩いてくる人形を、ローマリアが笑顔で出迎える。
「おかたづけ、おかたづけぇ」
人形が器用に、今はもう誰も座っていないローマリアの向かいの椅子によじ登り、茶器をテーブルの上に戻していく。
ティーポットをテーブルの中心に。ティーカップとその受け皿をローマリアの前に。
そして、もう1組のティーカップを、埃が積もらないようひっくり返して、誰も座っていない椅子の側に。
“人形は、ずっとそこがその茶器の定位置だったとでも言うように、当たり前のようにそこに茶器を返した”。
「ふふっ。いい子ですわ」
そしてローマリアは、一仕事終えた人形を抱え上げ、ぎゅっと抱きしめた。
「わぁい」
ローマリアの胸の中で、人形がきゃっきゃと声を上げてはしゃいだ。
「……でももう、そのカップが使われることはないのでしょうね」
ローマリアが独り、クスクスと悲しげな嘲笑を浮かべた。
人形を抱きしめたまま、ローマリアが巨大な白い月を仰ぎ見る。
……。
月を見つめるローマリアの、その右目の眼帯の下で、グチャリ・ギュルンと肉の捻れる音がする。
ローマリアの目の前で、白い月が赤黒く染まる。そして波立つ水面に映し出された像のように、ぐにゃりと歪み、回転を始める。
静謐は不吉な沈黙となり、沈黙は狂気を孕み、狂気が暗い顎を開く。
「ふふっ……アは……。嗚呼……今宵の月は、とても綺麗でしたわ……」




