6-5 : 気を利かせて
「……もしかして、私がこんなことをしなくても、どうにでもなったか……?」
反射的に身体が動いて、ローマリアを庇ったが、書物が直撃する前に、ローマリアなら転位してよけられたんじゃないか? 冷静にそう考え始めると、私は急にばつが悪くなった。
「さあ? どうですかしらね? ひとまず、わたしくしの盾になったことに関しては礼を言っておきますわ。……ところで、いい加減どいてくださらない?」
鐘楼の床の上で、私は踊り場にいたときと同じ姿勢のまま、ローマリアを押し倒していた。
「……すまん」
私はさっと立ち上がり、身を引いた。
ローマリアがゆっくりと立ち上がり、ローブについた埃をぽんぽんと払う。
「さて……服をお脱ぎなさい、ゴーダ」
ローマリアが私の目をじっと見ながら言った。その顔に嘲笑は浮かんでいない。
「傷の手当てをしましょう」
「……これも貸しか?」
そう口にしながら、私は口元を歪める。今度は私が冷笑を浮かべる側になっていた。
「傷をお見せなさい」
私の嫌みを無視して、ローマリアが真剣な顔で言った。
「……」
私は黙って上着を脱ぎ、床に腰を下ろし、ローマリアに傷を見せた。お前にそういう顔をされると、こっちの調子が狂う……。
「……これは、刀傷のように見えますけれど?」
私の前に屈み込み、出血している傷口にそっと指先で触れながら、ローマリアが尋ねる。
「先日ちょっとしたヘマをしてな」
私は肩を上げ、とぼけた振りをした。
「詳しいことは訊きませんわ。……じっとしておいでになって」
傷に触れているローマリアの指先が、淡く光り始めた。傷口が熱くなり、肩の周りが強ばる感覚があった。
「……お手柔らかに頼む。けっこう痛いぞ」
切れた血管が繋がり、傷口が急速に塞がっていくのが分かった。しかしそれには、激痛が伴った。私はなるべく表情を変えないようにしていたが、額に脂汗が浮かんでくるのが分かった。
「お黙りなさい。……治癒魔法は専門外ですの。傷がよくなるだけマシとお思いなさい」
私は口を噤んで、指先に集中しているローマリアの横顔を見ていた。
艶やかな黒髪が重力に倣って真っ直ぐに垂れて、私の腕を撫でるのがこそばゆい。細くて長い指先と、華奢な身体は、あのとき庇っていなければ、ぐしゃぐしゃに折れてしまっていたのではないかと錯覚してしまう。翡翠色をした左目の瞳は、1度それを目にしてしまうと、呪いをかけられたように視線が吸い込まれ、離せなくなる。
そして、眼帯と前髪で頑なに覆い隠されている右目。美しいローマリアの容姿を歪めているその眼帯のことを考えると、私は胃の辺りがムカムカとしてきて、血の巡りが止まり、体温が下がっていく気がした。
……そして私の身体は、250年前の古い記憶と、今まさに肌に触れているローマリアの、指先の冷たい感触とか入り交じって――。
「……震えていましてよ、ゴーダ?」
はっと私の意識が元に戻ると、ローマリアが左目で私を覗き込んでいた。傷の治療は既に終わり、ローマリアの指先は私の肌から離れていた。
「……お前の荒い治癒魔法が、堪えただけだ」
私はそう嘘をついて、急いで血の染みの付いた上着を羽織り、その場を誤魔化した。
「あら、それはごめんあそばせ」
ローマリアの顔に嘲笑が戻ったのを見て、ほっとしている自分がいることに、私は気づく。
「さあて、それでは傷もよくなったことですし、2つ目の命令を聞いていただきましょうか?」
立ち上がったローマリアが、鐘楼に据えられたテーブルに向かって歩き始めた。
「病み上がりだ。力仕事は勘弁してくれよ」
その場に立ち上がって、私はローマリアの後ろ姿に向かっていう。
傷は完全に治ったようだった。痛みもなければ、強ばりもない。肩も上がるし、指先に痺れのようなものもない。
“専門外”とはいいつつも、それでも失敗しないのは、さすがはかつて尊敬していた師だと、私は認めざるを得なかった。
「ふふっ。散々にこき使ってやろうと思っていたのですけれど、この手で治療した相手にそれをやらせるのは、さすがに気が咎めますわね」
そういいながら、ローマリアは私が今日この場所に初めてきたときと同じように、椅子に腰掛けた。
「2つ目の命令ですわ、ゴーダ。わたくしのお茶の相手をなさい。気を利かせて、ですわ」
ローマリアがぱんと手を叩くと、テーブルの上にあった空のティーポットの柄が瞬時に変化して、その注ぎ口から湯気が立ち上り始める。ティーポットを瞬間転位させ、入れ替えたのだ。
私は観念して、ローマリアの向かいの椅子に腰掛けた。
「気を利かせて、とは?」
私は目の前にある、私がここに来たときからずっとそこに伏せられたまま置かれていたティーカップをひっくり返しながら尋ねた。
「それをわたくしに訊いている時点で、気が利いているとは言えませんわね」
ローマリアが、私の真向かいで左目と口元をニヤリと歪める。
「……ああ、分かった」
私は溜め息をつきながら、テーブルの中央に右手をかざした。手の平に魔力を集め、術式を頭の中に思い描く。
テーブルに魔力の波紋が波打ち始め、光が灯り、それが次第に強くなっていく。
召還魔法。私は異界(現代日本)から、“それを”テーブルの上に召還した。
「これでどうだ?」
私は右手を引っ込めながら、ローマリアの顔色を窺う。
「……ええ、貴方にしては上出来ですわ。よろしいのではなくて?」
テーブルの上には、師弟関係にあった時期に、ローマリアが好んで私に召還をせがんでいた、オレンジタルトが置かれてあった。
私はそこから、命令通り“気を利かせて”、オレンジタルトを切り分けて皿によそい、ティーカップに茶を注いで、ローマリアの前に並べた。
「ふふっ。四大主“魔剣のゴーダ”のこんな姿、他では見られませんわね」
タルトをよそった皿と、茶の入ったティーカップを見つめながら、ローマリアがクスクスと笑った。
ローマリアがフォークでタルトを1口大に切り、口に運ぶ。左目を閉じてゆっくりと咀嚼して、フォークからティーカップに持ち替えて、茶を口にする。
「嗚呼、美味しい……とても懐かしい味がしますわ」
「それはどうも」
ローマリアが満足そうにしているのを見てから、私も自分の分のタルトと茶に口をつけた。
それから、タルトと茶がなくなるまで、私とローマリアはただ無言で向かい合っていた。
***
「ご馳走になりましたわ。なかなかに気が利いていましたわよ、ゴーダ」
ローマリアがクスクスと笑いながら、手をパンと小さく叩く。するとテーブルの上から空になった皿とティーカップとティーポットが消失し、卓の上が綺麗に片づいた。
「約束だ。次の命令を聞いたら、指輪を渡してもらうぞ」
私は静かな声で釘をさした。
「ええ、契約は当然守りますわ」
「それで? 次のお望みは何だ?」
私が3つ目の命令の内容を尋ねると、ローマリアは左目を閉じて俯いた。何を命令しようかと、考えを巡らせている。しばらくしてから、左目が半分ほど開かれた。その瞼の下で、翡翠色の目が左右に泳いでいるのが見える。
何か、口にするのを躊躇っているように見えた。高慢なローマリアにしては珍しいことである。
「……」
ローマリアが口を開きかけ、そして何も言わずに閉じた。
「……何だ? 一応は契約だ。命令には従おう。命に拘わることでない限りな」
「……そうですか」
私の言葉を聞いたローマリアが、ふっと口元を緩めた。
「それでは、ゴーダ。最後の命令ですわ」
ローマリアは私から視線を逸らしたままで、指先で黒髪の柔らかな毛先をくるくるといじっている。
「ええと、その――」
そしてローマリアが、ふうと小さく息を吐き、私の目を見て口を開いた。
「――髪を、梳いてくださらない?」
……それは“命令”ではなく“頼みごと”になっているぞと思ったが、さすがにこのタイミングでそれを口にすると、本気で殺されそうだったので、私は何も言わなかった。