24-6 : “不毛の門”
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ガツン。と、剣先が乾いた大地に突き立つ音がして以来、そこには風の吹き抜ける音と、凪いだ沈黙だけがあった。
――1日と、半日後。
――“明けの国”北北西。山脈地帯。
――“不毛の門”。
そそり立つ断崖絶壁に挟まれた、太古の河によって穿たれた道。その中でも一際幅の狭くなった地形に、シェルミアはたった1人で陣取っていた。
何の変化もなく続く荒涼とした渓谷の、たった1箇所。他と変わらぬ乾いた砂と風の通り道。しかしその場所にだけは、魔族と人間によって与えられた、目には見えない意味があった。
シェルミアの構え立つその場所は、人間が肩を並べて10人も通れないほどに狭まった枯れた大河の亀裂だった。そしてその地点は、図らずも地図上で“明けの国”と“宵の国”と名の付けられた境界線のほぼ直上を通っていた。
ここより先は、“宵の国”。この身の背中は、“明けの国”。
境界線に剣を突き立て、背に大盾を背負ったシェルミアは、ただ無言のまま微動だにせず、じっと前を見つめ続けている。
時が止まったかのような情景の中で、山脈から吹き降りてくる風に靡くシェルミアの1本に結われた金色の髪だけが、景色に変化を与えていた。
……。
……。
……。
背後の岩陰で、ここまでシェルミアを運んできた早馬の立てる、ブルルという鼻息の音が聞こえた。
……。
ただその場に立っているだけでいた早馬が、まるで全力で何里も疾り続けた直後とでもいうように、フーフーと荒い呼吸音を漏らし始める。乾いた砂を蹄で乱暴に蹴り上げる、ザリッザリッという音が止まらなくなっていた。
……。
そして、シェルミアの背後で早馬がとうとう堪えきれなくなり、怯えるような鳴き声で嘶いて、主を置いて、遠く背後に走り去っていった。
……。
慌てふためくように調子の乱れた蹄の音が渓谷の中に反響し、徐々にそれが遠ざかり、やがて再び、風と沈黙の音だけが“不毛の門”を満たす。
……。
「……」
地に突き立てたエレンローズの長剣の柄に両手を乗せて、シェルミアがすぅっと大きく息を吸い込み、目を閉じた。
……。
……。
……。
そしてシェルミアが、静かに目を開ける。
……。
……。
……。
「……来る……」
……。
……。
……。
金色の髪を撫でたその風は、一際冷たく、渇いていた。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
「……おぉ、おぉ……何ともまぁ……此度はよほど、小娘どもと縁があるとみえる……」
……。
……。
……。
「……カカカッ」
……。
……。
……。
“明星のシェルミア”。“渇きの教皇リンゲルト”。――対峙。
***
「……“宵の国”が北の四大主、リンゲルト卿とお見受けします」
乾いた大地に長剣を突き立てた姿のまま、凜とした風格でシェルミアが言った。
「ふむ……いかにも、“渇きの教皇リンゲルト”とは、儂のことよ」
肉も血も朽ち果てた乾いた白骨の顎に、真っ白な骨の指を沿わせて、リンゲルトが感心した声で言った。
“宵の国”北方の要所、“ネクロサスの墓所”からやって来たリンゲルトは、わずか数名の白骨化した従者を連れて、それらが肩に担ぎ上げた輿の上に据えられた座に掛けていた。
教皇は装飾の施された朽ちかけの鉄の肩当てと胸当てを纏い、そこから伸びる紫色の外套で骨の身体を覆っている。その頭部には、細く引き絞られた鋼で形作られた、天に向かって鋭利な棘を生やす冠を頂いていた。
それが戦装束であることは、見間違えようがない。
「カカッ、我が名を知っておるとは、結構結構……。はて、しかし悪いが、儂は主の名を知らぬぞ、小娘や……」
そう言う北の四大主の声音は、どこか面白がるようにカタカタと揺れていた。
「シェルミア、と申します」
戦装束を纏ったリンゲルトを前に、シェルミアは眉一つ動かさず応えた。
「ほぉ……聞かぬ名よな」
「元より、御身の耳にかかるほどの名ではありません」
「その出で立ち……貴公、騎士の出か?」
「かつてはそう呼ばれていたこともありましたが……この身は祖国より罪人と断された身……騎士などでは、ありません」
「カカッ、これは面白いことを言う」
虚ろな顎をカチカチと打ち鳴らして、リンゲルトが笑って見せた。
「ならば、シェルミアとやら……その罪人がここにおる理由は何か?」
「リンゲルト卿。貴方とこうして、話をする為に」
「……カカカッ、カカッ。酔狂なものよ……何故に儂が、罪人の戯言など聞かねばならん」
シェルミアの言葉を、リンゲルトはそう笑い飛ばした。
「……」
笑う教皇を前に、シェルミアはただじっと真剣な目を向け続けている。
「……ふむ」
その様子に、リンゲルトはいつの間にか口を閉じ、骨の手を顎にやり、品定めをするように虚ろな眼窩でシェルミアを見た。
「よかろう……貴様の痴れ言、聞こうではないか」
リンゲルトが、シェルミアを促すように、手のひらを向ける。表情のない白骨の頭部が傾き、コキリと骨の鳴る音が聞こえた。
一陣の乾いた風が吹き抜けて、リンゲルトの外套とシェルミアの金色の髪を踊らせ、“不毛の門”を過ぎ去っていった。
「……この場から、お引き取り願います、リンゲルト卿」
シェルミアの発したその言葉に、リンゲルトは何も応えず、ただ腰掛けた座の上で顎に手をやるばかりだった。
コキリ。と、教皇の首の骨が鳴る。
「これよりは、人間領“明けの国”。我らが王の許しなく、“宵の国”の地よりここを越えることは罷り成りません。どうか、お引き取りを」
……。
……。
……。
「……カカッ……」
……。
「……カッカッカッカッ!」
沈黙を破って、“渇きの教皇リンゲルト”が、全身の骨をカタカタと震わせて笑い声を上げた。
「カッカッカッカッ! 何を言うかと思えば、ただの世迷い言どころか儂にこのまま帰れときよった! これは傑作よ、カカカカッ!」
リンゲルトはそのまま、身を捩って笑い続けた。そして散々に笑い散らした後、ピタリと渇いた顎を閉じて――。
「――この儂に進言するなど、図に乗るな……人間ごときが」
暗い地の底から立ち上る得体の知れない冷気のように、教皇の低い声が響いた。
「進言などでは、ありません」
一切の淀みなく切り返したシェルミアが、すっと目を閉じた。そして次にその目が開かれたとき、そこには険しく鋭い碧の眼光があった。
「これは、警告です。ここより先は、通しません――即刻、引き返しなさい」
……。
……。
……。
「……吠えたな、小娘」
その窪んだ眼窩と顎の底に、無数に沈殿した暗い虚ろがゆらりと揺れて、“渇きの教皇リンゲルト”が、“明星のシェルミア”に向けて手を伸ばした。
「おぉ、おぉ……この孔だけの朽ちた耳に、貴様の心臓の音が聞こえるぞ……がらんどうのこの両の目に、貴様の碧い瞳の揺らぎが見える……おぉ……この老骨が、こんなにも渇きに疼いておる……」
錆びた鉄の冠を頂く髑髏の表面に陰が踊り、リンゲルトの表情のない筈の顔が、悪夢のように笑っていた。
「生者よ……人の子よ……その赤い血で、我らの渇きを、癒やしておくれ……」
空に伸ばされた教皇の手が、シェルミアを握りつぶすように、ぐっと虚を掴んだ。




