24-2 : 牢破り
灯りの灯ったままのランタンが獄吏の手から離れて宙を舞い、独房の闇を淡く照らし出しながら床を転げ回る乾いた音がした。
「!? 痛えぇっ!!」
鎖に拘束された囚人の動ける範囲は、半径で1歩分もない。気の遠くなるような忍耐を重ね、獄吏がその領域内で隙を晒した瞬間、シェルミアはそこに飛びかかり、醜い男を押し倒していた。
両手と両足に繋がれた鎖が飛びついた拍子に伸びきって、シェルミアの四肢の自由を奪う。獄吏を転倒させその上にのし掛かることには成功したが、その状況で彼女が自分の意思で動かせるのは、首から上の部分だけだった。
「こ、この……っ!」
慌てた獄吏が、粘ついた口をニチャニチャと言わせながら、反抗したシェルミアを押しのけようとする。
「だあいあさい!」
シェルミアの舌足らずな声がして、ブツリと肉の切れる音がした。
「いっ、痛ぇえ!!」
再びの痛みに、獄吏が悲鳴を上げる。遠くに転がったランタンの淡い光を頼りに痛みのする方へと目を向けると、首から上しか動かせないシェルミアの口に咥えられた歪な形のナイフのような物体が、獄吏のぶよぶよと小太りした首の脂肪に食い込んでいるのが見えた。
「な、何でこんなもん持ってんだ、おめぇ!?」
「うるはい!」
歯を剥き出しにして歪なナイフを咥えたまま、シェルミアが語気荒く叫んだ。頬が触れ合うほどになっている獄吏の耳元で聞こえるフーッ、フーッという息遣いは、まるで凶暴な野犬の唸り声のようだった。
状況に頭が着いていかず混乱している獄吏の視界に、薄汚れた床に転がった鉄の皿が映る。いつのことだったか、残飯のような食事を盛ったまま獄吏が独房の中に置き忘れていったその鉄皿は、今は歪に変形し、一部が扇状に欠けていた。所々にこびり付いている赤黒い模様は、乾いて固まった血の跡だった。
「え? え……? さ、皿を噛み切って?! ひぃっ!」
長い時間をかけてデコボコに噛み切られ、鎖を使って研がれた歪なナイフの切れ味は貧弱だった。それが無理やりに首の皮へと押しつけられてブツリブツリと肉に食い込む痛みは尋常なものではなく、獄吏は怯えた家畜のような醜い声で鳴いた。
「痛ぇ! 痛ぇよぉっ!!」
「あぎを、あずいらあい!」
歯を食い縛ったままのシェルミアが、間近から獄吏の目を睨み付けて叫ぶ。
「あっ、あっ……!」
醜い顔を引き攣らせて、獄吏がパクパクと小刻みに口を震わせた。
「……あずえっ!!」
獄吏の首に更に食い込んだ金属の先端が、ブツリと肉をねじ切り、血管に触れる。
「ひっ……ひいぃぃっ!!」
痛みと恐怖に耐えきれなくなった獄吏が、何かの発作を起こしたように震える手を腰に伸ばし、そこに吊されていた鍵を取り出した。そしてその鍵をシェルミアの手枷の鍵穴に差し込むのを何度も失敗した末に、錠の外れるガチャリという音が闇に響いた。
まず、左腕の枷が外れた。その瞬間、押し倒した獄吏の上に身体を重ねていたシェルミアが、咥えていた歪なナイフを吐き捨てて、自由になったその手で床に転がっていた焼きごてを掴んだ。
「っ……他も……っ、外しなさい……!」
表情を凍り付かせた獄吏が、子供のように両腕を自分の胸元に寄せ、身を庇う仕草を取る。その態度から、この男が酷く小心者であることが窺い知れた。
「そ、そんなことしたら……! オ、オイラ、怒られっちまうよぉ……!」
焼きごてに魔導器の光が宿り、次いでジリジリと鉄の灼ける音がし出す。眼球の目の前に掲げられた赤熱した烙印の熱が、獄吏の肌を引き攣らせた。
「このまま目を灼き潰されるか……枷を外すか……3つ数える内に選びなさい……!」
「ひぃぃっ! ひいぃぃいいぃぃっ!!!」
「1つ……! 2つ……! 3つ……!――」
「ぎゃあぁぁあぁぁ! やだあぁぁああぁぁ!! いやだあぁぁ゛ぁああ゛ぁあ゛ぁあっ!!!」
怯えきった悲愴な泣き声を上げて、ただただ目の前の恐怖から逃れたいという短絡した思考に任せて、獄吏が泣きじゃくりながら残る3つのシェルミアの枷を外していった。
「っ……はぁっ……はぁっ……!」
四肢の自由を取り戻したシェルミアが、ずっと押し殺していた息を吐き出し、獄吏の上に馬乗りになったままへたり込んだ。左手を添えて胸元に寄せている右手首は、嵌められていた手枷の摩擦で皮膚が擦り切れて赤く爛れていて、それが酷く痛んでいる様子だった。
シェルミアの力の抜けた左手から、焼きごてがカランと音を立てて落下し、それが押し倒されている獄吏の顔のすぐ横に転がった。ジリジリと灼ける鉄の熱が空気を伝って、獄吏の頬を撫でる。
「ひっ……! あ、熱っ……!」
獄吏の声にはっと我に返ったシェルミアが、厳しい目で獄吏を覗き込む。
「どうなっていますか……!」
「……え?……え……?」
シェルミアの迫力に完全に気圧された獄吏は、狼狽えた声を漏らすばかりだった。
「あれから、どうなりましたか……!? 今、何が起きているのですか?!」
表情を強ばらせたシェルミアが、組み伏した獄吏の肩を揺さぶった。
「あっ、あっ……! わ、分かんねぇよ。オイラ、難しいこと分かんねえんだよ……! 何日か前に、数え切れねぇ兵隊が街の外に出てった……! ほ、“ほうふく”だとか、“かいほう”だとか、“くちく”だとか誰かが言ってたけどよぉ、オイラはただ仕事してりゃいいって……!」
「馬鹿な……っ!」
獄吏の断片的な言葉から全てを察したシェルミアの顔が、仄暗い闇の中でも分かるほどにさっと青ざめて、今にも泣き崩れてしまいそうな悲愴な表情が浮かんだ。しかしそれは一瞬のことでしかなく、獄吏が瞬きをした次には、歯を食い縛って怒りの表情を浮かべた“元”騎士団長の顔がそこにはあった。
「父上……兄上……! 何を、何を考えて……っ!」
ふらりと立ち上がったシェルミアが、おぼつかない足取りで独房の出入り口へ向かって歩き出す。
「そんなことをして…… 一体、何になるというのですか……!」
傷つき疲弊した身体を引きずり、地上に向かって歩き出したシェルミアの背後に、ぬっと醜い影がよぎった。
「キ、キヒ……!」
冷えた焼きごてを両手で掴んで、シェルミアの背後で獄吏が腕を振り上げる。
……。
……。
……。
――ガシャリ。
シェルミアは背中を振り返ることもせず、ただ悲しそうな表情を浮かべ、後ろ手に独房の格子扉を閉めた。
「あっ……え……え……?!」
獄吏の困惑した声が、ランタンに照らされた薄暗い牢の中を泳ぐ。
「……あなたは、もっと……人の痛みを、知りなさい……!」
そしてガチャリと、地下牢の鍵が閉ざされる冷たい音がして、檻の遙か外の通路上に鍵束が落ち、カシャリと小さくそれが鳴いた。
「ま、待って……! オイラを、お、置いてかないで――」
ペタリ、ペタリとシェルミアが裸足の足で階段を上っていく音が、遠ざかり、小さくなっていく。そしてその音が聞こえなくなると同時に、ランタンの灯がふっと消え、無音と無明の闇が全てを呑み込んだ。
「――ひいぃっ……怖ぇよぉ……怖ぇよぉぉぉ……」
獄吏の醜い家畜のような悲鳴は、淀んだ空気を震わせて、いつまでも止まなかった。




