22-1 : 何にもなれなかった者
冷たく細い雨が、名前も分からない背の高い樹の枝葉を濡らし、草と土の匂いが一面に満ちていた。時折、思い出したように強まる雨粒に打たれて、頭上の葉がパラパラと音を立てる。
深い茂みの中にできた1本の獣道は、水を吸い込んだ泥で泥濘んでいて、そこを通った存在の足跡がくっきりと残っていた。
その泥濘んだ獣道には、等間隔に杖を突いたような窪みと人間の右足の足跡、そしてその横に左脚を引きずってできた蛇の這い跡のような模様がどこまでも続いていた。
「……」
その足跡の先頭に、1人の人間の騎士がいた。銀の鎧は跳ねた泥で薄汚れ、杖代わりにしている真紅の投擲槍はこびりついた灰で煤けている。
そしてその騎士の銀色の髪は、斃れた味方の返り血が雨に流れてドロドロにくすんでいた。濁った灰色の目は、どこに焦点があっているのかも定かではなかった。
背中に背負う“運命剣リーム”の古く威厳のある装飾とその重みも、戦意と誇りと心の折れたエレンローズにとっては、もう何の価値も意味もないものだった。
「……」
“宵の国”北方、“ネクロサスの墓所”。その要所の守護者、北の四大主“渇きの教皇リンゲルト”に挑んだ“右座の剣エレンローズ”は、“意志を持った歴史”の前に完全な敗北を喫した。
50万の骸骨兵団。かつて“ネクロサス”と呼ばれた地そのものに蓄積され具現化した“歴史”という大きすぎる敵。そしてその歴史たちの渇望が生み出した、虚ろなる不滅の皇、リンゲルト――その余りに強大な存在に打ちのめされたエレンローズに不可逆のとどめを刺したのは、他でもない自分自身だった。
あの灰に覆い尽くされた大地で、リンゲルトに追い詰められたエレンローズには、まだ戦い得る力が、未来を選択する魔導器“運命剣リーム”があった。まだ可能性は、十分過ぎるほど残されていた。
しかし、“渇きの教皇リンゲルト”に「それを抜け」とまで言わせても尚、エレンローズはその剣を抜かなかった。
抜けなかった。
抜くことを、拒絶した。
“運命剣”が映し出す可能性の万華鏡のどこにも、望む未来はありはしないと、諦めてしまった。
そして、生き残った。
生き残ってしまった。
“死なせない”と誓い、“生き延びて”と約束した、あの新米騎士をたった1人戦場に置き去りにして、何もしないまま、今ここにこうして生き残っていた。
自ら敗北を認め、それ以上行動することを放棄し、そうしたことへの当然の報いをすら受けることなく、たった1人、エレンローズは見知らぬ土地に逃げ延びたのだ。
「……」
リンゲルトの骨の槍によって神経と筋を断ち切られ全く使い物にならなくなった左腕を垂らし、痛む左脚を引きずってまで、エレンローズはどこへ向かって歩き続けているのか。それは当の本人にさえ、知りようもなかった。
戦うべき相手は消え、護るべき仲間も死に絶えた。誇るべき信念も失い、自分自身を信じることもできなくなっていた。
ただ理由もなく、ただただ歩き続けた。そうすること自体が、何ものへも繋がらない虚無的な目的と化していた。
その行為はただ、“立ち止まっていない”というだけのことでしかなく、エレンローズはただゆっくりと、何かに追われるようにひたすら歩き続けていた。
「……」
立ち止まることが、恐ろしくて仕方なかった。
「……ごめんなさい……」
1度立ち止まってしまったら、もう2度、立ち上がれない気がした。
「……」
ゆえに、杖代わりに地面に突いた真紅の投擲槍がズルリと滑り、泥の上に倒れ込んだエレンローズは、その言葉を繰り返すことしかできなかった。
「……ごめんなさい゛……ごめん、なさい゛ぃ゛ぃ゛……っ」
涙で霞んだ視界に、左肩の傷に巻き付けられた新米騎士の衣服の切れ端が映り込み、それを直視することもできない女騎士は、ただ堅く目を閉じて、泣き腫れて震える声を漏らすばかりだった。
***
「……」
そのまま泥のように溶け落ちて、雨に薄められて消えてしまえればどれだけ楽だろうと願ったが、エレンローズの肉体は生への執着を棄ててはくれなかった。
獣道の泥の中に横たわったまま雨に打たれ続ける内に、体温が下がり“死”を予感した肉体は、エレンローズの意思を置き去りにして再び自身の身体を立ち上がらせていた。
杖にしていた投擲槍もどこかへ転がり失せ、痛む左脚を押してどうやって歩いたのかも覚えないまま、次に気がついたときには、エレンローズは大木の虚の中に背中を預けてぐったりと脱力していた。
「……」
表情筋が麻痺したような無表情を一切変化させることもせず、大木の虚の外に降り続ける雨粒をぼんやりと濁った瞳に映しながら四肢を投げ出しているエレンローズの姿は、誰も知らない場所へ捨て去られた綻びだらけの人形のようだった。
腹の奥でのたうち回る不快感は空腹から来るものだったが、食欲など皆無だった。何とはなしに麦粉を焼き固めた兵糧を一欠片だけ口に含んでみたが、どれだけ時間をかけて咀嚼しても喉を通らず、やがてどうでもよくなり吐き出してしまった。
頭の中で渦が巻いていて、目を閉じて幾ら待ち続けても眠りはやってこなかった。それどころか、わずかでも気を抜けば“ネクロサスの墓所”の記憶が強烈に目の前に蘇り、そのたびに呼吸の仕方が分からなくなった。
それからどれだけの時間が経ったのだろう。気づいたときには雨は止んでいて、虚の外には月光の青く冷たい光が漂っていた。梟が深い考え事をするように、ホォホォと静かに鳴く声が聞こえた。
「……なんで……」
拷問のように続く何もない時間の中にその身を横たえて、エレンローズがぽつりと独りごちる。
「……なんで、私……生きてるの……?」
濁った瞳をぼんやりと夜の世界に向けながら、女騎士が疑問を口にする。
それは、あの死に満ちた戦場から生還したことへの疑問というよりも、そこに至るまでの半生と、今目の前で流れていく時間に対する問いかけだった。
こんなに冷たく、暗く引き延ばされた時の堆積の中を、何を糧にここまで走ってきたのか、まるで分からなくなっていた。記憶の中の自分が為してきたこと全てが、どうでもいいことにしか思えなかった。淀んだ意識越しに感じる茫漠とした時間の流れが、恐ろしく残酷なものに映った。
そんな答えも救いも何もない一瞬一瞬が、苦しくて、悲しくて、虚しくて、堪らなかった。
「(……あれ……?)」
身体の芯から指の先まで、酷い倦怠感に覆い尽くされていた。目に見えない何かから逃れるように、無目的に歩き続けた末に“それ”に追いつかれ、全身を絡め取られていくのをエレンローズははっきりと感じていた。
「(……どうやったら……私の身体……動くんだっけ……?)」
身体中の至る所から根が生えでもしたかのように、脚1本、指先1本動かなかった。身体を動かそうと意識を集中させると、あるところでそれがピタリと何かに遮られるような感覚があって、どれだけ「動け」と念じても、透明なガラスを間に噛ませたように、そこから先の領域に何も伝えることができなかった。
「(……別に……動かなくても……いっか……)」
大木の虚の中に身体をもたせかけたまま、眠ることもできずぼんやりと眺め続けていた夜の世界に、やがて夜明けの兆しが現れ始める。刻一刻と変化していく世界の中で、エレンローズの時間だけがぴたりと止まっているようだった。
エレンローズは、疲れ果てていた。
立ち上がる為の目的を、見失っていた。
生きることが辛くて、辛くて、何もかもから、逃げ出したかった。
頭の中に“自害”という言葉が何度も何度も浮かんでは消え、そのたびにエレンローズは意識を止めて、生きたいとも望まず、死にたいとも願わない、どちらでもない宙ぶらりんの虚無の中に身を横たえていた。
ふと気がつくと、先ほどまで夜明けの前触れが覗いていたはずの世界に、再び深い夜が満ちていた。ホォホォと梟の静かな鳴き声が聞こえる。そして瞬きをしたかと思うと、陽の強い光が外界と虚の陰との間にくっきりと明暗の境界を作っていた。
いつからそこに動かなくなった身を横たえているのか、もう何も分からなくなっていた。エレンローズの眼は、一睡もせず外界の移り変わりを映し続けていたが、呆けたようになっている女騎士の意識にその記録が留められることはなく、時は本のページを読み飛ばすようにあっという間に流れていった。
そして何日目かの昼間。その日は最初の日と同じ、どんよりと曇った空から細く冷たい雨が降る、薄暗い日だった。
大木の中でぼんやりとしているエレンローズの曇った瞳を、大きな体躯の狼に似た魔物が、虚の外からぎらついた目でじっと覗き込んでいた。
狼に似た魔物は、ここ数日獲物にありついていない様子で、やつれて腹を空かせているのが一目で分かった。
――ああ……あんたが、私の“死”か……。
……。
……。
……。
――いいよ……食べなよ……私なんか、きっと不味いだろうけど……。
……。
……。
……。
――起きてるのも、眠ろうとするのも……生きるのも、自分で自分を殺そうとするのも、もうどうでもよくなっちゃった……。
……。
……。
……。
――だから、どうぞ……?
……。
……。
……。
飢えた魔物の唸り声が、1歩1歩近づいてくるのが聞こえた。
……。
……。
……。
――シェルミア様みたいに、強くもなれなかったし……ロランみたいに、優しくもなれなかった……。
……。
……。
……。
魔物の生ぬるい鼻息が顔にかかったが、エレンローズは表情ひとつ変えなかった。ぴくりとも身体を動かさず、その頬に一筋の涙が伝い流れた以外に、抜け殻となった女騎士がまだ生きていることを示すものは何もなかった。
……。
……。
……。
――何にも、なれなかったや……私……。
……。
……。
……。
魔物の牙が喉元に今にも突き立とうとした瞬間、不自然に風の捻れるゴウッという音がした。
つむじ風に巻き上げられた魔物が、悲鳴を上げるよりも先に真空の亀裂に引きずり込まれ、バラバラになった臓物と紫色の血が辺り一面に飛び散った。
……。
……。
……。
「……よぉ……探したぜぇ、エレンローズぅ……」
飢えた魔物よりもぎらついた不気味な光をその眼に宿して、にんまりと嗤う“烈血のニールヴェルト”が、虚の中を覗き込んでいた。




