19-11 : 抜け殻の器
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――“明けの国”西方。“宵の国”東方国境線へと続く、深い森。
およそ20頭の赤毛をした大型家畜、ヒイロカジナたちが、鉄の車輪と鋼の車軸を備えた頑強な貨車を、ガラゴロと音を立てて牽いていた。その単調な車輪の転がる音が、最も闇の濃くなる時刻の夜の空気に吸い込まれていく。
その何重にも補強を施された貨車の上には、巨大な石棺が積まれていた。石棺の表面は、根を張った苔によって無数に浸食されていて、そこに彫り込まれていた筈の文様と絵図は多くが朽ち、かつての情報をそこから読み取ることを困難にしていた。
貨車の周囲には、“特務騎馬隊”の真紅の装甲鎧を纏った騎馬と、それに跨がる紅の騎士たちとが隊列を作り、ヒイロカジナの歩調に合わせてゆっくりと併走を続けている。
その隊列の中にあって、貨車に乗せられた石棺に手が触れるほどの距離にまで接近したまま移動を続ける騎馬の姿があった。事実、その騎馬に跨がる人影は、石棺の冷たい石の表面に手を添えたまま、片時もそこから離れようとはしないのだった。
「ユミーリア……ユミーリア……」
閉ざされた石棺にしきりに独り言を呟き続けながら、“明けの国”の宰相ボルキノフが、愛おしそうに苔生したその表面を撫で回す。
「紫血の香りが、濃くなってきたね……。あの王の子の執念は、大した物だ……」
ボルキノフが騎馬の手綱を引き、貨車の側面に更に接近する。鉄の車輪が小石を砕き、枯れ木をへし折る鈍い音がすぐ後ろに聞こえた。一度騎馬が悪路に足を取られれば、車輪に巻き込まれてただでは済まない危険な位置である。
しかし宰相はそんなことには一向に意識を向けようとせず、うっとりとした表情を浮かべて、石棺に頬ずりしているのだった。
「興味深い人物だ……ああ、とても、興味深い……」
……。
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「……アランゲイルを、手助けしておやり、ユミーリア……愛しい子……。あの王の子が行き着く先を、見届けてみるとしよう……」
……。
……。
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「……“明星”の光に灼かれた“凡夫”が、どこまで堕ちていくのかを……」
***
冷たい夜風が甲冑の隙間を通り抜け、皮膚の上を撫でていく。
――生暖かい風だ……。
大地の吐き出す水分と、そこに内包された微かな熱が闇夜の冷気に引き締められ、薄ぼんやりとした夜霧に変わり、草葉の先が露に濡れる。
――実に、不快だ……。
野に眠る獣たちの骨の髄まで凍えさせるような、不気味なほどの冷気の只中で、“王子アランゲイル”は全身の火照りにうっすらと汗を浮かばせていた。
――ああ、熱い……まるで真夏の夜の浅い眠りの中にいるようだ……。
周囲に、魔族兵の気配を感じた。遙か後方から、ニールヴェルトの高揚した高笑いと、無数の血の香りが漂い流れてきていた。
争いと死が蔓延するその中心を歩きながら、兄はそれら全てを意識の果てへ追いやりながら、ただひたすら前へ前へと足を運んでいく。
――冷え切った夜風も、引き締まった夜露も、私のこの火照りを冷ますには、温すぎる……。
アランゲイルが、身体の熱を逃がそうと、甲冑の首元に指をやる。目的とする場所に近づくにつれ、身体の芯に灯った火照りが強さを増していく。
その熱の源は、戦場の高揚でも、虐殺の熱狂でもなければ、怒りの発揚でも憎しみの励起でもなかった。
それは、妹に全てを奪われていった兄の中に残った最後の器、そこに放り込まれた魂が、ゆらゆらと焚き上げられる消えない炎の熱だった。
――ああ、骨が焦げ、臓腑が焼き付いてしまいそうだ……。
そして、“烈血のニールヴェルト”に背中を任せて以来、決して緩めることなく進められてきたその足取りが、少しずつ少しずつ、停止に向かって動作を緩やかにし始める。
――大人たちは、幼く何も知らなかった私から、様々な物をゆっくりと奪っていった……“奪われていく”ということを、私が理解することさえできぬ内に……。
それまで20歩進んでいた時間をかけて、10歩分の足が前に出される。
――知識を……武芸を……。
10歩が5歩になり、5歩が3歩になっていった。
――寛容さを……誇りを……自尊心を……。
3歩が2歩になり、2歩が1歩になる。
――家族との繋がりを……居場所を……心の休まる場所を。
……。
……。
……。
――妹を。シェルミアという妹を心から愛していた、アランゲイルという名の兄の人格を……。
……。
……。
……。
――そしてここに残っているのは、ただの、抜け殻だ……。貴様等に祭り上げられた“明星”の光に全てを掻き消され、影さえ残らなかった、虚しい抜け殻……。
……。
……。
……。
――シェルミア……父上……あなたたちには、この虚無を理解することなど、できはしないでしょう……。
……。
……。
……。
――理解など……されてたまるものか……。
……。
……。
……。
――怨む理由など、とうに忘れた……。
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……。
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――何を望んでいたかなど、もう思い出せもしない……。
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……。
……。
――ただ私は、立ち止まるわけにはいかぬのだ……。
……。
……。
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――たとえそれが、魔に等しい者の囁きであったとしても、“抜け殻”でさえなくなってしまう訳には、いかなかったのだよ……。
……。
……。
……。
「さあ……準備は、整った……」
そして、歩みを止めた兄の前に、静まりかえった集会施設の扉があった。




