19-5 : 共食い
「――でぇ? これからどぉしますかねぇ? 殿下ぁ?」
傾きかけた太陽の光を背に受けて、遠眼鏡を覗き込みながら、男が言った。
男は肩に大弓の弦を回し、腰の後ろに太矢を詰めた矢筒を提げている。背中には大振りの斧槍が担がれ、腰の横から吊り下げた鞘の中にはざっくりと3本の掻き傷の付いたショートソードが収められていた。
宵の国南方の護り、“仕え主”――南の四大主“真の蝕みのカース”の体内に巣くう寄生虫、“カースの宿仔”によって文様のような傷が刻まれた“カースのショートソード”の柄を無意識に撫でるその男の名は、“烈血のニールヴェルト”。“明けの国騎士団総隊長”にして、“王子アランゲイル”の近衞兵長である。
「“どうする”とは、どういう意味だ?」
ニールヴェルトの背後から、アランゲイルの声が尋ねた。“宵の国”南方国境線に広がる“暴蝕の森”、その死地を越え、魔族の領地を踏むに至った王子の銀甲冑には無数の擦り傷がつき、血と泥の跡が染み込んだそれは、うっすらと黒く変色していた。
その王子の周囲には、同じく“暴蝕の森”を生き延びた銀の騎士総勢25名と、“特務騎馬隊”紅の騎士2名が並び立っている。
「いえねぇ、ここから見るにぃ、ありゃぁどう見てもただの集落ですからねぇ……。それにぃ、俺たちの進路の邪魔にもなってませんしぃ。むしろ迂回するだけ無駄足だぁ。“そういう意味ですよぉ”」
遠眼鏡を下ろしたニールヴェルトが、肩越しに振り返り、好奇の混じった目で、アランゲイルの顔を試すように覗き込んだ。
「ふん……何を言うかと思えば、そんなことか……」
ニールヴェルトの視線には常軌を逸した何かの気配が窺えたが、アランゲイルがそれに怯むことはなかった。王子は顎を上げて、総隊長の鋭い視線を見下ろすようにして冷たく見返す。
「近衞兵長ニールヴェルト……貴様の主として命じよう……。総隊長ニールヴェルト……貴様の指揮官として指示しよう……」
アランゲイルが手を前に掲げ、そして淀みのない声で命じ、指示する。
「……殺せ。“敵兵”であるかどうかという以前に、魔族は皆、我らの“敵”だ。捕虜とする必要もない。索敵と殲滅……必要なのはそれだけだ。貴様の得意分野だろう?」
総隊長の傾いた顔がにんまりと歪み、悪趣味な道化のように嗤った。
その異様な気配に当てられた銀の騎士たちの間にも、歪な闘気が立ち上り始める。
「……ゆけ、“烈血のニールヴェルト”」
そう命じられた騎士が、王子の正面に向かい立ち、丁寧な言葉遣いと所作で深々と一礼する。
「……仰せのままに……我が主よ……」
そして、その頭が再び上を向いたとき――
「……ひははっ」
――そこには、“狂騎士”の顔があった。
***
……。
――うん? どうかしたのかい?
……。
――ああ、悲しんでいるのだね……。
……。
――そうだね、その通りだ……お前の大切な“お友達”が、何人も何人も、いなくなってしまったね……。
……。
――南に出かけた“お友達”は、困っている人を見捨てておけない、仲間思いのヒトたちだったね。
……。
――西へ向かった“お友達”は、見えないところで手助けをしてくれる、とても親切なヒトたちだったね。
……。
――北を目指した“お友達”は、時々厳しかったけれど、誰よりも仲間を気にかけている、1番頼りになるヒトたちだったね。
……。
……。
……。
――泣くのはおよし。
……。
――何も、悲しむことなんてないのだよ……。
……。
――南に出かけた“お友達”は、たった“2人”になってしまったけれど……。
……。
――いなくなってしまった“お友達”は、また、増やせばいいのだから……。
……。
――だから、さあ、顔をお上げ……。
……。
……。
……。
――……ユミーリア……。
……。
……。
……。
***
……。
……。
……。
ぱちぱちと、火に焼べる薪の爆ぜる音がして、夕闇の中に火の粉が舞った。
燃え上がる篝火が、その前に腰を下ろす人間たちの目を照らし出して、2つの像に分かれたそれが、各々の瞳の中でゆらゆらと揺れている。
「あぁ……愉しかったなぁ……」
その声を合図にするように、篝火を囲む二十余名の男たちの肩が小刻みに震え出す。
「やっぱり……“狩り”はいいなぁ……。自分より弱い奴を追い立てるのはぁ、心が躍る……。“自分より強い奴”に追い詰められた奴らの、あの目と顔を覗き込む瞬間がぁ、最高にゾクゾクするなぁ……」
ニールヴェルトの独り言に呼応するように、肩を震わせていた騎士たちが声を堪えきれなくなり、1人2人と、忍び笑いを漏らし始める。
真っ赤な夕陽の弱い光と篝火に照らし出される集落の家々の陰影は欠けていて、火を囲む人間たち以外に住人の気配はなかった。
ちらつく炎が、物陰の中にぐにゃりと横たわっている影の形を浮き上がらせていたが、その存在を気にかける者はいない。
地面の所々に広がっている黒い染みのようなものは、光のいたずらで生じたものではなく、何かの液体が溜まった痕跡だった。
「これでぇ……潰した集落は4つ目かぁ……何匹殺したかなぁ? ……あーぁ、そういえば愉しすぎて、いちいち数えてなかったなぁ……くくく……」
30人足らずの魔族が集まって形成された集落を襲撃し、“敵”のいなくなったその跡地に張った野営陣地の只中で、“烈血のニールヴェルト”を筆頭とした“明けの国騎士団”の騎士たちは、そうやって“狩り”の余韻に浸っているのだった。
「……。食事中だ……そういう話は控えてもらおうか、ニールヴェルト」
猟奇的な忍び笑いを漏らしている一団を横目に見ながら、アランゲイルが干し肉と野菜を煮込んだスープに口をつけている。
「あぁ……これは失礼いたしました、殿下ぁ。せっかくのお食事がぁ、不味くなっちまったでしょぉ」
首を傾けてそう呟くニールヴェルトの目は、しかし面白がるように半月形に嗤うばかりだった。
「ふん……何、うるさかっただけだ……。……味などとうに、分からなくなっている」
そう言いながらアランゲイルは、ただ機械的に皿に盛られたスープを掬い取り、無感情にそれを口に頬張り、ただ己の肉体の糧となる物を取り込む為だけに咀嚼し、飲み込んでいた。ただその一連の動作を、義務的に、儀式的に繰り返していた。
王子が漏らしたその言葉を聞くと、隣に腰掛けていたニールヴェルトは手をついて姿勢を低くし、アランゲイルに近づいて、その顔を下から見上げるようにして歪に嗤った。
「ひははっ……殿下ぁ……それは、よくない傾向ですよぉ。それはぁ、あんたの頭ン中でぇ、渦が巻いてる証拠だぁ……」
狂騎士の不気味な光の宿った視線が、王子の脳内を覗き込むように鋭く刺さる。
「あんたの脳みその中でぇ、“良心”とぉ、“憎しみ”とぉ、“愉悦”がぁ、共食いをしてる証しだぁ」
そう言いながら面白がるように見上げてくるニールヴェルトを冷たく見返して、アランゲイルが鼻で笑った。
「……その“共食い”とやらで、食い散らかした皿の上に“愉悦”だけが残ったのが、貴様というわけか?」
「さぁ? どぉなんでしょぉねぇ? ひははっ……」
ニールヴェルトが、自分の分の皿に手をかけ、ゴクゴクと喉を鳴らしてスープを一息に飲み干し、そこに浸かっていた硬いままの干し肉と青臭い野菜を噛み潰して腹の中に押し込んだ。
「――まぁ、少なくとも俺にはぁ、“この飯が不味い”ってことは、分かりますよぉ。ひはははっ」
……。
――共食い、か。次に私に味覚が戻ったとき、食い荒らされたテーブルの上に残っているのは、“何”なのだろうか。
……。
そのことに思いを巡らせている間、脳裏に妹の姿が浮かんでいたことを、兄の意識は終始否定し続けて、それが記憶に留まることは最後までなかった。




