18-18 : 報せ
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――“宵の国”北方、“ネクロサスの墓所”。
――“右座の剣エレンローズ”戦線離脱直後。
「……何、だ……?」
最後に残していた術式巻物を使い切り、女騎士を彼方へ転位させ、もう思い残すことはないと死を覚悟したはずだった新米騎士が、戸惑いの声を漏らしていた。
目の前で、激しい剣戟の音が鳴り響く。
『カカカカカッ』
それを面白がるように笑う、“渇きの教皇リンゲルト”の声が、無数の鉄器骸骨の口から零れ出ていた。
『カカカカッ、愉快愉快。人間よ、貴様、何をした? カカカッ』
真紅の閃きが、“墓所”に煌めく。
『我が“英雄歴”の一撃を受け、なぜまだ立ちよる? 紅い騎士よ……』
1度は斃れた筈の鬣の赤騎士が、そこにいた。
その戦士は背中に投擲槍の束を担ぎ、両手に槍を持ち、姿勢を低くして四つん這いになって、野生の獣のように首をキョロキョロと動かして周囲の気配を探っていた。
『面妖な生者じゃ……』
標的を新米騎士から鬣の赤騎士に移した鉄器骸骨たちが、獣を狩るように一斉に飛びかかった。
グニャリ。
四つん這いになっていた鬣の赤騎士の四肢が、不自然な方向へねじ曲がる。それは人間の間接構造を無視した運動軌道を取って、本来は死角である筈の角度にまで槍の攻撃範囲を拡張させ、襲いかかってきた鉄器骸骨たちをすべて打ち砕いた。
「……フシュウゥゥゥゥゥ……」
真紅の兜の継ぎ目から血煙混じりの吐息を吐き出し、鬣の赤騎士が威嚇する。
そこにはただ、違和感だけがあった。
『奇っ怪な真似をしよる……ならば……』
“鉄器の骸骨兵団”を器として斉唱されるリンゲルトのその言葉を合図に、50万の鉄器骸骨が再び灰に還る。
「――“遡行召喚:英雄歴”……もう1度、この勇士の記録で以て、貴様に死を与えよう……」
全てが幻だったかのように、“ネクロサスの墓所”を埋め尽くす亡者の群れが消え失せ、ボロ切れの外套を羽織った1体の骸骨だけがそこに立つ。
「……シュウゥゥゥ……」
鬣の赤騎士がおよそ人間離れした四足歩行の動作で、亡者の勇士の姿を借りたリンゲルトの間合いに入らないぎりぎりの位置をうろつき、攻撃の機を伺う。
「カカッ。獣になりきりよるか。見せ物としては下の下であるが、愉しめぬわけではない……カカッ」
――ゆらり。
リンゲルトが、身体を揺らす。
……。
「……グルルル……」
鬣の赤騎士が、唸り声を上げる。
……。
……。
……。
「……ガブルルァ!!」
――。
「しかし……もう見飽いたぞ、狂人めが……」
勝負は目にも止まらぬ疾さで交差し、一瞬の後に再び静止した。
灰の粒子がリンゲルトの手元に集合し、密度を高めたそれが三つ叉槍の形状を成し、突き上げられたその先端に鬣の赤騎士が串刺しになっていた。
「……グル……ブッ……」
腹部を貫かれた鬣の赤騎士が、尚も獣の唸り声を上げる。
「しぶとい奴よな……カカッ」
愉悦の笑いを零しながら、リンゲルトが三つ叉槍をぐいと持ち上げた。その動作に連動するように、灰で練られた槍は形状を変え、無数の刃となったその先端が、鬣の赤騎士の腹を内部から切り裂いた。
宙吊りに突き上げられた赤騎士の全身から鮮血が噴き出し、リンゲルトに血の雨を降らせる。
「カカカカッ……これを啜る一時のみぞ、儂のこの渇きが紛れるのは……カカッ」
“渇きの教皇”が虚ろに続く口を開け、降り注ぐ血の雨を旨そうに飲んだ。
「カカカカカッ! カカカッ……カカッ……ッ……」
全身の骨を震わせて笑い続けていたリンゲルトが、ピタリと動きを止めた。
「……これは……」
リンゲルトの低い声が、怒りに震える亡者の声が、不気味に空気を震わせる。
「……貴様……貴様ら……よもや……」
――ボロリ。
串刺しにされ、切り刻まれた鬣の赤騎士の兜が外れ、灰に埋もれた大地に落ちる。
その兜の下に、顔はなかった。
そこには頭部もなければ、首もなかった。
「……ギシャアァァァッ!!」
人ではない者の叫びが上がり、滴る血の筋が無数の腕となって、鬣の赤騎士の背中の上でウネウネと踊った。それらは赤騎士の背に担がれた投擲槍の束に絡みつき、十数本もの槍が同時に構えられ、リンゲルトに向けて突き放たれた。
――ビタッ。
リンゲルトまで紙一重というところで、全ての槍がびたりと止まる。
「……人間どもよ……」
リンゲルトが、ぽつりと呟いた。
「貴様ら……冒涜しおったな……」
教皇の拳が、固く握り締められた。
「あれを、穢しおったな……! あれを御せると、思い上がりよったな……!」
北の四大主の虚ろな眼窩に、怒りの火が灯った。
「赦されぬ……赦されぬ……!」
……。
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「……ああ……滅びよ……人間ども……」
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「否――この儂の手で、滅ぼしてくれようぞ……!」
その異形の血を渇いた灰に固められ、鬣の赤騎士が砕け散り、砂塵となって消えていった。
……。
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……。
新米騎士が、焦燥した顔つきで踵を返し、走り出した。“ネクロサスの墓所”の広大な地を、“明けの国”の方角へ向けて、真っ直ぐに。
「報せないと……誰でもいい……誰かに、早く……!」
……。
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「何処へゆく……小僧……」
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新米騎士の視界が真っ暗になり、それきり全てが停止した。
それが“死”であると理解する者は、渇望に灼かれる亡者たちだけである。
***
――“宵の国”、中心部。“淵王城”。
――玉座の間。
冷たい月光が、玉座を仰ぎ見る石床を照らしていた。
“大回廊の4人の侍女”たちの出払った玉座の間で、その王の座にのみ、果てなく昏い陰が落ちていた。
やがて雲一つない夜空から差し込む月光が、何かの陰で遮られ、深淵の暗がりが辺りを満たす。
何も聞こえず、何も見えない玉座の間は、“何も存在しないこと”と同義と化す。
その虚無に等しい昏い闇の中で、2つの金色の眼がゆっくりと開き、ぼぉっと浮かび上がった。
「……リンゲルト……」
“淵王リザリア”が、少女の姿をした何かが、感情のない声で、ゆっくりと闇の中に呟いた。
「……余の言葉に、背くか……」
淵王の瞳が静かに閉じられ、再び光のない世界が広がった。
“光の消えた闇”は、“光のない闇”よりも、更に昏かった。
***
――“宵の国”、北東地域。古い街道。
騎馬に跨がり、風のように駆け抜けていく者がいた。
使われなくなって久しい街道沿いには深い森が浸食し、その中には何が潜んでいるのか見当もつかない。
陽は大きく傾き、夕暮れに差し掛かっている。
決して安全とはいえないその道を、しかしその騎馬は単騎で走り抜けていた。
騎馬は軍用に訓練された種で、大きな体格に逞しい筋肉の形が浮かび上がり、頑強な骨を持っていることが一目で分かる。街道を踏みしめる蹄の音は小気味よく、最も速く、最も長く走るための術を心得ていることが窺い知れた。
騎馬の目には高い知性の光があり、己を駆る主への信頼と忠義の深さが見て取れた。
何よりその毛並みの美しさが、いかにその騎馬が大切に世話され、強く育てられてきたかを物語っていた。
それは宵闇の中に溶けてしまいそうな、艶やかで深い、漆黒の毛並みだった。
そしてその騎馬を駆る者もまた、闇と同化する黒い姿をしていた。
漆のような黒塗りの鎧。その所々に浮かび上がる、金色の紋様。腰には珍しい形状をした、一振りの剣――。
手綱をしっかりと握り締めながら、その騎手は兜の下でギリリと強く歯噛みした。
「……リンゲルト……! 血迷ったか……!」
暗黒騎士、“魔剣のゴーダ”その人が、固い声で呟いた。
懐の巻物にもう1度だけ目をやって、小さく舌打ちしたゴーダがそれを放り捨てる。暗黒騎士が姿勢を低くし黒馬を蹴ると、人馬一体となったそれは更に速度を上げていった。
暗い藪の中に落ちた術式巻物“神速の伝令者”には、あの新米騎士の震える筆跡で、“明けの国”に迫る陰が記されていた。
……。
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――北の四大主“渇きの教皇リンゲルト”、“明けの国”へ向け、反転攻勢。
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明けと宵の狭間、黄昏時が、迫り来る。
――第2部「戦役」編、終――




