18-17 : 虚ろ
ドクン、ドクン。
心臓が、鼓動の仕方を忘れたように、ぎこちなく脈を打っていた。
――なに……?
ドクン、ドクン。
――なんなの……これ……?
ドクン、ドクン。
――なんなのよ……どうして……?
「カカカカカカッ! カカカカカカカカカカッ!!」
ボロ切れのような外套を羽織った、骸骨の笑い声。それは、聞き間違えようはずのない、悪夢のようなあの笑い声だった。
――……あ、れ……? なんで……私……
「カカカカカカカカッ!!! やってくれおる……やってくれおるのう、小娘ぇぇ……」
――なんで、私……こんなところで、座り込んでるの……?
エレンローズが、不思議そうに足下を見やった。そこにはへたりと膝を突き、赤騎士の槍に力なくしがみついている自分の身体があった。
「我が“帝国歴”を切り越え、この儂に一太刀ならず二太刀も浴びせるとは、全く大したものよ……カカカッ! 全く、愉快なものよ!!」
ボロ切れの骸骨が――新たな骨の身体を得た“渇きの教皇リンゲルト”が――愉悦に満ちた笑い声を上げなら、1歩また1歩とエレンローズたちの下へと近づいてくる。
「おお、それこそ……それこそ、我が渇きを潤す一滴に、相応しい……」
ゆらり、ゆらりと身体を揺らして、リンゲルトが着実に歩み寄ってくる。その骨の足が灰の大地を踏みしめる、ザクリザクリという音が聞こえる。
その光景をぼんやりと眺めているエレンローズは、先ほどと全く同じ姿勢のまま、灰に覆われた地面にへたり込んでいた。
しきりに笑いながら近づいてくるリンゲルトの灰を踏む足音が、次第に大きくなっていく。
……ザクリ……ザクリ……。
今まで自分がどうやって2本の足で立っていたのか、エレンローズは思い出せなかった。
ザクリ、ザクリ。
その手でどのようにして剣を握っていたのか、忘れてしまっていた。
ザクリッ。ザクリッ。
どうして今まで戦うことができていたのか、どうすれば前に進めるのか、全く、分からなくなっていた。
「エレンさんに……っ、エレンさんに、手を出すなあぁぁぁっ!!」
近づいてくるボロ切れ姿のリンゲルトに、新米騎士ががむしゃらに剣を振った。
「ふむ……」
へたり込んだエレンローズの方を向いたまま、リンゲルトが虫でも摘むように親指と人差し指を顔の横に伸ばす。振り下ろされた剣を止め、新米騎士が幾ら全身を使って暴れてもその刃を微動だにさせずにいるには、それでさえ余りある仕草だった。
「この“英雄歴”は、かつて戦神の1人に数えられた真の勇士の記録……羽虫が触れるなど、無礼千万、愚の極み……」
リンゲルトの指に摘まれ、ピクリとも動かなくなった剣をただ呆然と見やりながら、新米騎士が顔を真っ青にさせた。
「せめて己の無力を知れ、小僧……」
そう言ってリンゲルトは摘んでいた指を離したが、“英雄歴”によって再生されたかつての勇士の気迫に当てられた新米騎士の身体は、金縛りにあったように固まって動かなくなっていた。
……ザクリッ。
新米騎士をその場に棒立ちにさせたまま、リンゲルトが脱力して座り込んでいるエレンローズの顔を覗き込む。額が触れるほどに間近で見る教皇の眼窩は、どこまでも果てなく、底の抜けた虚ろで溢れていた。
……。
「……実に、甘美な一滴じゃ……小娘――」
エレンローズの灰色の瞳をその虚ろで覗き込みながら、“渇きの教皇リンゲルト”が、何かに満たされたように声を震わせた。
「――貴様の、“絶望”は……カカッ」
リンゲルトの渇いた指の骨が、女騎士の首元を這う。
「あ……あ……」
もう、声の出し方も、分からなかった。
……。
……。
……。
「我が名は、リンゲルト……“渇きの教皇リンゲルト”……」
……。
……。
……。
「“宵の国”の要の護り、北の四大主にして、“ネクロサス”と呼ばれた古き国の、記憶なり……」
……。
……。
……。
「かつての大国臣民が思い描きし皇の姿にして、何者でもない、器を持たぬ虚ろなり……」
……。
……。
……。
「我は、幾百万、幾千万の“渇望”そのもの……“意志を持った歴史”なり……」
……。
……。
……。
「ゆえに、我が渇きは永久に満たされぬ……」
……。
……。
……。
「ゆえに、我は何度でも求めよう……」
……。
……。
……。
「ゆえに、我は何度でも甦ろう……」
……。
……。
……。
「ゆえに、我は何度でも再生しよう……この地に眠る、歴史の断層を……」
……。
……。
……。
「何度でも」
「「何度でも」」
「「「何度でも」」」
『 何 度 で も 』
……。
……。
……。
“遡行召喚:帝国歴”。50万の鉄器骸骨を自らの器として、灰の大地を再び埋め尽くした“渇きの教皇リンゲルト”が――“意志を持った歴史”が――ネクロサスの民たちの渇望が生み出した、虚構の皇が――立つこともできなくなったエレンローズたちを取り囲み、虚ろな言葉を、何度も何度も囁いた。
……。
……。
……。
――神様……。
……。
……。
……。
――こんなの……あんまりだよ……。
……。
……。
……。
『抜けい、小娘……』
50万の虚ろな眼窩が、絶望の陰に呑まれたエレンローズに言い迫る。
『抜けい、“運命剣リーム”を……』
赤騎士の槍にしがみついている女騎士の身体が、ガクガクと震えた。
『その剣を以て、示してみせよ……貴様の選ぶ“未来”と、我らが積み上げたる“歴史”……運命を拓くに能うものが、どちらであるかを……』
……。
『 さ あ 』
『 さ あ !』
『 さ あ !!』
50万体の鉄器骸骨が、リンゲルトの肉声を一斉に唱和した。
……。
……。
……。
「……い……や……」
エレンローズが小刻みに首を横に振り、小さな乾いた声を漏らした。
「……いや……いやぁ……やだよぉぉ……!」
その絶対の力を宿した剣を抜くことが、どうしてもできなかった。
“運命剣リーム”に触れることが、恐ろしくて仕方なかった。
神の万華鏡の前に立つことが、怖くてどうしようもなかった。
未来を知ってしまうことがそれほど絶望に満ちているなんて、考えたこともなかった。
「できないよ……私にはもう……未来を選ぶことなんて……できないよぉぉ……っ」
エレンローズが、“運命剣リーム”を抜くことを、拒絶した。
それは、未来を選択する意志を放棄することだった。
それは、運命が既に決してしまったと認めることだった。
それは、完全な、敗北だった。
『ならば……ここで死ぬがよい……人間よ……』
50万の鉄器骸骨たちが一斉にそう口にして、ゆっくりと、ゆっくりと迫り寄ってくる。
女騎士はもう、前を見ることもできなくなっていた。
……。
……。
……。
「……立って、下さい……」
敗北を認めてしまったことで、身体中の震えが止まらなくなった女騎士の傍らで、新米騎士が言った。その声にもまた、敗北と恐怖の感情が滲んでいた。
「立って下さい……エレンさん……」
脇に腕が回され、傷を負った左脚を労るようにしながら、新米騎士がエレンローズを立ち上がらせて、力をなくしたその身体を支えた。
「新米くん……っ」
エレンローズは蒼白な顔をして、今にも泣き崩れそうだった。
絶望に呑まれた女騎士の顔を覗き込みながら、新米騎士が独白するように口を開く。
「貴女は……俺の、憧れの人でした……。貴女がいてくれたお陰で、俺は前に進むことができました……誇れる自分を、見失わずに済みました……」
そうしている間にも、“鉄器の骸骨兵団”は、包囲の輪を狭めていく。
「俺が今この場で生きているのは、貴女がいてくれたからです……」
……。
「エレンローズさん……最期に御一緒できて、俺は――」
……。
……。
……。
亡者の声に掻き消され、その言葉は聞き取れなかった。
……。
……。
……。
トンッ、と、そっと肩が押された。
突き飛ばされて離れていくその一瞬の時間の中で、エレンローズは新米騎士の強がった最期の笑い顔を見た。
そしてエレンローズは、自分の胸元で一巻きの術式巻物が淡く光っているのを目にした。
――術式遺物“瞬間転位”……。
……。
……。
……。
***
……。
……。
……。
次の瞬間、女騎士の眼前には、見知らぬ土地の静寂が広がっていた。
……。
……。
……。
「……っ」
……。
……。
……。
「……っめ……なさっ……」
……。
……。
……。
「……ごめん、なさい……」
……。
……。
……。
「……ごめんなさい……ごめんなさいっ……ごめんなさい゛ぃ゛ぃ゛……っ……」
……。
……。
……。
…………………………………ポキリ。
……。
……。
……。
……心の折れる、音がした。
……。
……。
……。
――北の四大主“渇きの教皇リンゲルト”、“明けの国騎士団”最大戦力10万人、“鉄器の骸骨兵団”50万を率いて、撃滅。
――“明けの国騎士団”参謀本陣、3万の兵を後退させ、敗走。
――明けの国騎士団“右座の剣エレンローズ”、術式遺物“瞬間転位”により、戦線離脱。“運命剣リーム”を所持するも、外的・心的損傷甚だしく、戦闘継続不可能。
……。
……。
……。
北方戦役、終結。




