18-16 : 灰の大地
……。
……。
……。
リンゲルトの骨蛇の身体がボロボロと灰に代わり、燃え尽きた炭のように自重で潰れた。
ただの砂礫の山となったそれは、吹き抜けた風に吹き散らされて、大気の中へ溶けていった。
「……」
折れた長剣がエレンローズの右手からすり抜けて、カランカランと音を立てて床の上に跳ねた。
「……」
急に、身体の芯から、抗い難い睡魔のようなものが湧き出てきたように感じた。視界の外周部が暗くぼやけ、それが徐々に中心に向かって広がって、平衡感覚がなくなっていった。雲に包まれたような、水に沈むような浮遊感を覚えながら、意識が溶けていく。
……。
……。
……。
――ああ……疲れちゃった……。
――ずっと、硬い氷の中に、いたみたい……。
――すごく……寒いな……。
……。
……。
……。
――……? あ……。
……。
……。
……。
――……あったかい……。
……。
……。
……。
エレンローズが気を失っていたのはわずか数秒の間であったが、それはまるで、季節が一巡りするほど長い眠りに落ちていたようだった。
「……?」
一瞬の気絶から目を覚ましたとき、エレンローズは自分の今いる場所がどこなのか、判然としなかった。
目の前で大きな、とても大きな安堵の息が漏れる音が聞こえ、そこで初めて女騎士は自分が抱き抱えられているということを理解した。
「……新米くん……?」
エレンローズが、倒れた自分の身体を受け止めた相手の顔を確認するように呟いた。
「……よかった……エレンローズさん……よ゛か゛っ゛た゛ぁ゛……」
腕に抱えた女騎士の声を聞いた新米騎士の目から、堰を切ったように涙が溢れ、若い騎士は顔をくしゃくしゃにして声を震わせた。
「新米くん、無事だったみたいだね……」
「俺の、ことは……どうだって、いいんですよぉ……エレンさんが……エレンさんが、大怪我してるじゃないですかあ゛ぁ゛……!」
感極まった新米騎士が女騎士をその呼び名で呼び、堪らずその身を抱き寄せて、声を上げて泣いた。
「……はは……泣くなよ、新米くん……男だろ……? ……っ――」
感覚がなくなり、全く動かなくなった左腕を投げ出して、右腕を新米騎士の肩に回したエレンローズが、若い騎士の腕に顔を埋めながら小さな声で言った。
「っ――泣かないでよ、馬鹿……っ。もぉ……こっちにも、うつっちゃうじゃんか……っ」
今まで必死に押し殺してきたいろいろなものが、涙に変わって一気に溢れた。一度流れ始めたそれをエレンローズは止めることができず、また止めようとも思わなかった。
「きみが生きててくれて……ほんとに、よかったよぉ゛ぉ゛……」
涙なら、止まるまで流れ続ければいいと思った。情けない姿でも、今は見られてもかまわないと思えた。
そのすぐ横で、赤騎士が鬣を風に揺らせて立っていた。足下に転がる“渇きの教皇リンゲルト”の冠の破片を、粉々に踏み砕きながら。
***
足下の床が、グラグラと小さく揺れた。
召喚系統の上位魔法、“遡行召喚”の術式の核となっていたリンゲルト――宝玉の冠――が砕け散ったことで、50万の“鉄器の骸骨兵団”と移動砦が崩壊を始めたのだった。
「砦が崩れる……。逃げるよ、新米くん……歩ける?」
そう言いながら、傷を負った左足を庇いながら立ち上がろうとしたエレンローズだったが、ふらりと脚を取られて倒れかけたところを支えられたのは、自分自身の方だった。
「エレンさん、無理しないで……!」
「とっとと……はは、脚がフラフラする……」
ずっと張りつめていた緊張と、凍えたように固まっていた感情が解けて、脚に力が入らなくなったエレンローズが、困ったように苦笑いした。
「……」
左半身を新米騎士に支えられて辛うじて立っているエレンローズの正面に、鬣の赤騎士が無言で立ち塞がった。
「……」
「……貴方にも、無茶を、させました……貴方の部下を、何人も犠牲に……」
「……」
鬣の赤騎士は、ただ黙って首を横に振るだけだった。
「……」
物言わぬ真紅の騎士が、不器用そうにずいっと右腕を突き出す。その手には、1本の投擲槍が握られていた。
「……ありがとうございます」
エレンローズは、ただ一言だけそう言って投擲槍を受け取り、それを杖代わりに突いた。
その言葉への返答に、鬣の赤騎士が静かに1度だけ、首を深くゆっくりと縦に振った――「その言葉だけで十分だ」とでも言うように。
……。
……。
……。
「行こう……みんな」
移動砦がゆっくりと崩壊し、灰に還っていく。地上へと下る細い階段を、鬣の赤騎士が先導し、新米騎士の肩に支えられたエレンローズが、1歩1歩ゆっくりと下っていった。
その背中に、“運命剣リーム”を収めた鞘を携えて。
***
脱出して間もなく、背後で移動砦が倒壊し、それは崩落した衝撃に音も立てずにボロリと砕け、灰の山と化した。砂細工の城を崩すように、後には何の形状も残らなかった。
移動砦を曳いていた魔獣の骸骨も、己の自重で瓦解して、灰の塊の中に消えていった。高く詰みあがった灰の山がさらさらと流れて平らに均されていく様は、砂時計の中を落ちていく砂塵を眺めているようだった。
――。
――。
――。
“ネクロサスの墓所”の緩やかな丘陵地帯に、主を失った亡者たちの声にならない声が満ち溢れていた。
――。
――。
――。
それは、深い深い寝息のようなものだった。“鉄器の骸骨兵団”――“渇きの教皇リンゲルト”が、“帝国歴”と呼んだかつての大国の記録たち。上位術式“遡行召喚”によって現代に甦った戦士たちの記憶が、再び永い眠りの中に還っていく。
次々に崩れていく鉄器骸骨の灰で、広大な丘陵地帯が真っ白に覆われ、それは雪原と見紛うばかりとなっていった。
その灰の下で、明けの国騎士団の幾万もの銀の鎧が光っているのが見える。
灰で覆われた“ネクロサスの墓所”を歩いているのは、ただ崩れゆくばかりとなった亡者たちのみ。
その白い灰の下に眠るのは、“ネクロサス”と呼ばれた国の無数の記憶と、“明けの国”の騎士たちの骸。
そして、その地に己の意志で立っているのは、鬣の赤騎士と新米騎士、そして“右座の剣エレンローズ”だけであった。
「あんなに戦っていた跡が……何も、遺らないんだね……」
形を未だ留めている鉄器骸骨は、もはや数えるほどしかいなかった。無数の生と死と戦に満ちていた地が、今では静寂の中に横たわっている。
まるで、すべて夢の出来事のようだった。
……。
……。
……。
――ゆらっ。
灰の大地に立つ3人の騎士の姿を捉えた鉄器骸骨の残党が、夢遊病者のような足取りでゆらゆらと近づいてくるのが見えた。その数、数十体。
――ゆらっ。
彼方からこちらへ向けて歩いてくる鉄器骸骨たちは、1歩前に進むごとにその骨の身体を崩壊させていく。もはや灰に還るだけの定めのそれらを歩かせるのは、ただ戦士の記憶の再生、それだけだった。
「……」
そのかつての戦士たちに向け、手向けを送るように、鬣の赤騎士が投擲槍を投げる。
ズドンッ。
その投擲の衝撃に、鉄器骸骨たちは容易く砕け散り、突き立つ槍を墓標として、静かに眠っていった。
ズドンッ。
「……」
ズドンッ。
「……」
ズドンッ……――ゆらっ。
……。
……。
……。
「……?」
無言のまま正確な投擲を繰り返していた鬣の赤騎士の槍が、1本、外れた。
――ゆらっ。
それは、酷くみすぼらしい外套を羽織った、骸骨だった。
――ゆらっ。
「……」
鬣の赤騎士が狙いを定めて、もう1度槍を投擲する。
ズドンッ。
――ゆらっ。
また、狙いが外れた。
「……。……」
鬣の赤騎士が、ゆっくりと1歩前に出て、エレンローズと新米騎士を背中に庇った。
「……何?」
左半身を新米騎士に支えられ、右手に持った赤騎士の槍を杖代わりにしたエレンローズが、その背中に近づこうとする。
「エレンさん、ダメです、動いたら傷が……」
新米騎士が、今にもまた泣き出してしまいそうな声で、女騎士に寄り添った。新米騎士の手持ちの布と衣服の切れ端を巻き付けたエレンローズの傷口からはまだ血が流れ出ていて、あてがわれた布に赤い染みが広がっていく。
しかしエレンローズにとって、そんなことはどうでもよかった。
心臓の鼓動が、少しだけ、早まった。
……。
……。
……。
「何……? どうしたの……?」
……。
……。
……。
エレンローズが、鬣の赤騎士の後ろ姿に問いかける。
……。
……。
……。
……………………………ビシャッ。
……。
……。
……。
「……え……?」
女騎士の銀の髪が、真紅の騎士の返り血で、真っ赤に染まった。
2人の目の前で、ドサリと音を立てて、鬣の赤騎士が灰の大地に倒れた。
……。
……。
……。
「――“遡行召喚:……英雄歴”……」
……。
……。
……。
「……カカッ……」
……。
……。
……。
「カカカッ……」
……。
……。
……。
「……カカカッ……カカカカッ……カカカカカカカカカッ!!」
虚ろな顎を打ち鳴らして、“絶望”が、笑っていた。




