18-10 : 氷解
「――貫け! 風よ!」
突風の塊が轟音を放ち、まるで巨大な剣で一掃するかのように、エレンローズの周囲の敵を打ち砕いた。
エレンローズの致命傷となるはずだった、死角からの鉄器骸骨の一撃。その未来は“運命剣リーム”によって棄却され、それに替わって選び取られた“現在”に――あの新米騎士の姿があった。
――何で……?
雄々しい騎馬に跨がる新米騎士が、すぅっと大きく胸に息を吸い込んだ。
「……エレンローズ教官っ!!」
――どうやって……?
「やっと……やっと、追いつきましたっ!!」
――どうして……?
そして、新米騎士が一際力強く、たった一言、戦士の声音で戦場に叫んだ。
「自分も――お供いたしますっ!!」
息切れの音さえ漏らさぬ紅の騎士たち“特務騎馬隊”の沈黙と、記憶のみで蠢く“鉄器の骸骨兵団”の亡者そのものの息遣いに満ち満ちていたエレンローズの世界に、新米騎士の声が、人間らしい人間の声が届く。
訳もなく、意味もなく、心臓がドクリと脈を打ち、全身がぞわりと熱く痺れた。冷え切っていた手のひらに体温が宿り、石のように平坦だった灰色の瞳に色彩が戻る。
思わず流れ落ちる寸前まで目許に込み上げてきた涙の理由も考えられないほど、エレンローズの胸は打ち震えていた。
そこにあるのは、氷の意志を溶かした、新米騎士が憧れたその人、エレンローズの本来の姿だった。
戦場での再会も束の間、突風によって払われた空隙を再び埋め尽くさんと、鉄器骸骨たちがエレンローズと“特務騎馬隊”、そして新米騎士の下へと雪崩込む。
「! 新米くんっ……!!」
後輩の騎士が“鉄器の骸骨兵団”に呑まれゆく光景を前に、氷の意志の溶けたエレンローズが思わず悲壮な声を上げた。
「――舐めるなあぁぁぁっ! 骸骨どもおぉぉぉっ!!」
押し寄せる無数の敵を前にした新米騎士のその顔は、エレンローズが知らない顔だった。
「おおおぉぉぉぉっ!!!」
新米騎士が、右手に持った真新しい剣で鉄器骸骨の長槍をいなし、近づく骸骨兵の背骨をかち割る。その剣筋は未熟の域を出ない力任せの太刀筋だったが、それでもそれは、肩にたすき掛けにした革帯から術式巻物を取り出すまでの時間稼ぎには十分だった。
術式巻物を巻き止める紐が解け、新米騎士が横に突き出した左手の動きに合わせ、1度切りの術式の込められた巻物が、バサリと空中に広がった。
「砕け散れ! “穿つ烈風”!!」
鼓膜が身体の内側から圧迫され、耳鳴りがした。突然の違和感に、エレンローズが剣を持ったまま手首で耳を押さえ込む。
ズルッ、と、足下で何かが滑る音が聞こえ、騎馬がブルルと不安げに鼻を鳴らした。
ズルッ。今度はそれは音ではなく、エレンローズに振動として伝わった。
それは、騎馬の蹄が地面を滑る音――見えない力に引き寄せられていく振動だった。
ズルッ、ズルッ。群がる無数の鉄器骸骨たちが、エレンローズたちの騎馬と同じく、地面の上を引きずられていく。その引力の中心には、あの新米騎士の姿があった。
新米騎士の行使した術式“穿つ烈風”が、術者の周囲に巨大な負圧を発生させ、その中心へと大気を引きずり込んでいく。その強大な大気のうねりが、周囲の物体を根こそぎ吸い寄せているのだった。
“穿つ烈風”の核へ引きずり込まれてゆく大気が凝縮され、密度を増し、轟音を上げ、嵐の塊へと成長していく。
そして――。
――ドォンッ。
瞬間、砲撃が間近に着弾したかのような爆音と、身体の芯を揺さぶる振動があった。
それはまさに、大気で錬られた砲弾そのものだった。人の背丈ほどの領域に限界まで押し込まれた大気の塊が、あらゆるものを穿つ見えない砲弾となって、新米騎士を中心とした前後左右の八方位に向けて射出される。
その衝撃によって、群がる骸骨兵団たちの鉄鎧は脆くなっていた箇所から破裂し、鉄剣は破断し、鉄槍はねじ曲がった。鉄器に身を固めていた骸骨たちの骨格は、まるでカラカラに乾いた枯れ葉を握りつぶすかのように、容易く粉々に砕け散っていった。
それはまさに、文字通りの“粉砕”であった。
大気の砲弾が突き抜けた後には、鉄器骸骨たちの破片が散乱する長大な道が穿たれていた。
大気の術式の威力を前に、戦場に一瞬、しんと静寂が降りた。
「や……やった……見たか、こんちくしょう……っ」
その静寂の中心で、生死の境に立つ緊張感と敵をなぎ倒した高揚感に、新米騎士は息を荒らげて肩を上下させていた。
……カタッ。
術式“穿つ烈風”の余りの破壊力に呆然となっている新米騎士の背後で、半身を粉砕された1体の鉄器骸骨が片足で立ち上がった。そしてその先端の砕け折れた鉄剣が振り上げられ――。
バチリっ、と、稲妻の弾ける音と、雷を纏った剣の一閃が疾った。
そして一拍の間を置いて、両断された鉄器骸骨の背骨が雷撃に焼き弾かれるパンッという軽快な音がして、再びの静寂が降りた。
「……無茶、し過ぎだよ、きみ……」
新米騎士の駆る騎馬の真横に早馬を寄せ、“右座の剣エレンローズ”が、そこにいた。
「教官ほどでは、ありません」
手を伸ばせば届く距離にまで馬を寄せているエレンローズの横顔を見つめながら、新米騎士が言った。その声は、もう震えてはいない。
「何でこんな、前線より前にいるの……?」
エレンローズが小さな声で尋ねる。こちらにじっと向けられている新米騎士の目を、その女騎士は見返すことができないでいた。
「先ほど言った通りです。エレンローズ教官にお供する為、勝手ながら志願しました」
「きみ、死んでたかもしれないのに、どうやって……?」
「これのお陰です。同期から……友人から譲り受けた、術式巻物を使って」
「そうまでして、どうしてこんな所まで来たの……?」
「教官を、お一人で行かせることに、我慢ができませんでした」
「きみの同期を、見殺しにしたようなものなのに……こんな教官、見殺しにしてくれて、よかったのに……」
新米騎士が、語気を強めた。
「あいつを死なせたのは、俺たちです。覚悟のなかった、迷ってしまった、俺たちのせいです。教官のせいでは、ありません。だから自分は――」
エレンローズが見やった新米騎士の顔は、覚悟を固めた戦士の顔、強い意志を宿した男の顔だった。
――ああ……。
「だから自分は、もうこれ以上、何もせずに誰かを見殺しにするなんてことは……教官まで死なせるなんてことは、嫌なんですよ……! そんなこと絶対に、できないんですよ……!」
――男の子ってみんな、そういう顔になるときがあるんだね……。
エレンローズの固く結ばれていた口許から、ほんのわずかだけ、力が抜けた。
……。
……。
……。
「……もう、引き返せないわよ?」
新米騎士の顔を真正面から見つめて、エレンローズが愚問と分かっていながらも、新米騎士に問うた。
「元より、その覚悟で参りました」
新米騎士が、じっとエレンローズの目を見返しながら即答する。
「俺の戦場は……俺の死に場所は、貴女とともにあります、エレンローズ教官」
新米騎士のその言葉を聞いたエレンローズが、“穿つ烈風”によって開かれた道を騎馬で行きながら、その後ろに続く新米騎士に向けて、背中越しに口を開く。
「……馬鹿ね。私は死ぬつもりなんてないわよ。きみを死なせるつもりもね」
そして、“右座の剣エレンローズ”が双剣を構え、鉄器骸骨の進軍によって徐々に狭まっていく道を、騎馬で駆け出す。その背中に、仲間の騎馬の確かな蹄の音を聞きながら。
「あと、いい加減“教官”はやめてよね。むず痒いったらないわ!」
穿たれた道の先、2人の騎士の眼に、“渇きの教皇リンゲルト”の姿が、はっきりと見えた。




