17-21 : “第3概念”の使徒
「……死に損、なったか……痛つ……」
目が醒めていることが、何かの冗談のように感じた。螺旋階段から虚空へと跳び、“三つ瞳の魔女ローマリア”の右腕を道連れに死ぬ覚悟を固めていた隻眼の騎士は、塔の中心部に伸び出た巨大な踊り場に身体を打ち付け、生き延びていた。
「……。……駄目か。脚が折れてやがる……。野郎ども……かっこつかねぇが、魔女に一泡吹かせてやったぞ……」
踊り場の上に大の字で仰向けになって脱力した隻眼の騎士が、遙か頭上の天窓に向かって独り言を漏らした。それは“星海の物見台”で命を落とした戦士たちへの、手向けの言葉だった。
コツッ、コツッ。
隻眼の騎士の耳に、何者かが螺旋階段を上ってくる足音が聞こえた。足下をゆっくりと踏みしめるように歩くその足音に、隻眼の騎士は労いと賞賛の言葉を贈る。
「大した奴だよ、お前は……。“シェルミア様の1番弟子”なんて呼び方は、もうなしだな……お前はもう、誰の弟子とかそういうのじゃねぇ。四大主に打ち勝った、1人の戦士だよ……ロラン」
――コツッ……。
螺旋階段の上で歩を止めたロランが、何度目かの視線を階下へと向けた。
天窓から差し込む陽光が、丸く縁取られた明かりを落とし、その中心に、“三つ瞳の魔女ローマリア”の亡骸が横たわっていた。
隻眼の騎士に切り落とされた右腕から紫色の血を流し、左手と両足はバラバラの方向にだらりと伸び、首の骨が折れて不自然な方向を向いた顔の口元からは、破裂した内臓から上ってきた血が筋を引いている。
その冷たくなった身体の上には、シェルミアの魔導器“封魔盾フリィカ”が、墓標のようにめり込んでいた。
先ほどと変わらないその光景を確かめて、ロランが再び、螺旋階段を上り始める。
――姉様……僕、姉様との約束、守ったよ。
コツッ、コツッ。
――四大主を……“三つ瞳の魔女”を、殺したよ、姉様……。
コツッ、コツッ。
――これで、シェルミアは解放されるよ、姉様……。
コツッ、コツッ。
――後は……王都に戻って、あいつを……アランゲイルを殺せば、全部終わるから……。
コツッ、コツッ。
――姉様を悲しませる奴も、姉様を傷つける奴も、いなくなるから……。
コツッ、コツッ。
――だから、姉様……またいつもみたいに、僕をからかってね? 僕の作った料理を、美味しそうに食べてね? 焼き菓子も、作るから。
コツッ、コツッ。
――ずっと一緒だよ、エレン……。
コツッ……。
……。
……。
……。
……むくり。
……。
……。
……。
背後に、階下に、間違えようのない、気配があった。
「……何で……?」
立ち止まったロランが、振り返りもせず、誰かを呪うように呟いた。
「……何で……何で……お前はそうやって……!」
“怖い顔”をしたロランが、階下を振り返って、冷たい怒りに満ちた目で、“それ”を睨みつけた。
「一体何度、僕らを馬鹿にしたら気が済むんだよ……魔女……!」
ロランが睨みつけた先、陽光のスポットライトの中心に、穏やかな表情を浮かべたローマリアが、立っていた。
***
明けの国、混成部隊、残存兵力……騎士40人、魔法使い12人。
わずかそれだけとなった人間たちの視線が向けられる中、“三つ瞳の魔女ローマリア”は、しかし嘲りに満ちた声ひとつ、歪んだ嘲笑ひとつ浮かべず、ただうっすらと瞼を閉じて、優しい顔をしていた。
その首はわずかに俯けられていて、穏やかに半目を閉じているローマリアの顔には髪がかかり、目元が隠れている。
ロランが、隻眼の騎士が、人間たちがじっと見やる中、ローマリアの静かな頬に、涙がポロポロと流れていった。
無垢な少女のように無音の涙を流し続けるローマリアが、涙を拭こうと、手を伸ばし、“両手で目を覆った”。
「……腕……! いつの間に……?!」
切り落としたはずの魔女の右腕が元に戻っていることに、隻眼の騎士がはっと息を呑んだが、ローマリアはそれをまるで意に介さなかった。陽光の光に照らし出された魔女は、怖い夢を見て傷ついた子供のように、目元を手のひらで覆い隠して、声も出さずに泣き続けていた。
そして――。
「――」
ローマリアの口元が、かすかに動いた。
「――α」
わずかに開かれた唇から、小さな声が聞こえる。
「――ρα」
澄み切った小さな声が、サラサラと零れた。
「――ρα、ρα、ρααα」
その連続する声は、やがて旋律を伴って――。
「――ρααα、ρα、ραα……ηυμ……」
それは、儚くか弱い、歌となった。
……。
それは、もう戻らない過去を懐かしむ歌だった。
……。
それは、遠くへ行ってしまった大切な人を想う歌だった。
……。
それは、自らの過ちを後悔する悲しい歌だった。
……。
それは、忘れられない親愛と、消えない恨みの歌だった。
……。
それは、世界の理から逸脱した存在の奏でる、歌だった。
……。
すなわちそれは、世界を侵す、歌である。
……。
……。
……。




