ヒューイの初恋 4
「ミラーだ」
失意のヒューイの背中を押しながら『ディオゲネス・クラブ』に戻ると、トニーは開口一番にそう告げた。記憶の中にある人ならざる者についての情報を引きずり出しながら、続ける。
「人間の意識の一部を支配して、もっとも理想的な容姿を映し出す。六七年に魔術士のアルフレド・ミラーが存在の仮説を立て、当人がその仮説を実証している。別名を『夢幻の恋煩い』という」
「なるほど……わたしが恋をしていたのは、魔物というわけか」
嘆息を落としたヒューイは、珍しく心底落ち込んでいるようだった。
よほど本気であったのだろうと、いまさらながらに彼の想いの深さを知って、トニーは首を横に振った。これでは、なにを言おうと慰めにもなるまい。
しばらくウイスキーを黙然と喉に流し込んでいたヒューイだったが、ふと思い至ったように顔を上げて、問いかけてくる。
「トニー。アイリーン……ではなく、その」
「ミラーのことかい」
「そうとも、そうとも。そのミラーとやらを、きみは当然退治するのだろうね」
そして、彼はこうも続けた。
もしも退治するのなら、わたしに手を下させてほしい。魔物との戦い方は、きみとの付き合いの中で心得ているつもりだ。
言い出すと思っていたことだったので、トニーは驚くことはしない。実際、ヒューイはよき相棒だった。魔物退治で彼の手を借りない、などということはあり得ないのだから。
だが、とトニーは答える。
「まず誤解をしているようだ、ヒューイ」
「誤解というと?」
「退治はしない。その必要がないんだ」
ミラーに人間を傷つけることはできない。彼ら彼女らはそもそも実態を持たない霧のような存在で、物質的な影響力は皆無に等しかった。実質的には、ほぼ無害な存在だ。
ただ、ミラーは好奇心が旺盛で人間に興味を示し、自らの存在を他者に認識させることで人々の生活に溶け込もうとすることがある。アイリーンも、おそらくその類にあたるだろう。
文通などという人間臭いことをしているあたりからも、そう推測はできる。
「おそらく? きみにしては無責任にもとれる意見だと、わたしは思うがね」
「ミラーは人間に認識してもらわなければ、そもそも実存を維持できない脆弱な魔術生命体だ。アルフレド・ミラー自身が研究を重ねて生み出した、人工的な存在なんだよ」
「ほう?」
「きみは、きみに愛想を振りまく女性をハエのようだと罵った。ある意味では、ミラーというのはそれらの頂点にいるものだろうね。なにしろ、相手によって姿かたちまで自在に変えて、取り入ろうとするのだから。化粧で化ける女性よりも、はるかに性質が悪い」
とはいえ、退治するような危険性もなく、ただ存在しているだけに過ぎないミラーを狩るつもりはない。脆弱な存在であるがゆえに退治の方法はとても簡単ではあったが。
「まあ、子供たちの笑顔があのアイリーン・ミラーによってもたらされているのだろうから、それを奪うのは忍びないというのも、理由として付け加えておこう」
「なるほど。懸命だ、トニー」
しかし、とヒューイは続けた。
「結局のところ、わたしの初恋は霧散したというわけだ。実に愉快じゃあないか。やはり愛や恋というのは、わたしとは無縁の代物らしい」
「そう気を落とすなよ、ヒューイ。今日は奢ろう――」
「気晴らしにカジノでも行くかい、トニー。それとも、美女と戯れるほうがお好みかな」
一瞬絶句して、うめく。
ああ……美女と戯れたいのはきみのほうだろう、ヒューイ。
初恋破れた彼に同情してしまった自分のことをほんの少しだけ嫌悪しつつ、そんなことを告げると、トニーは杖を片手に立ち上がる。どうせ言うことを聞かないのだから、ついて行ってやることにしよう。
「ぼくはカジノがいい」
「素晴らしい。では、ナイトクラブにしよう」
相変わらずこちらの話を聞かないヒューイだったが、それがいつもの調子を取り戻したなによりの証明でもある。それに不本意ながらも安堵して、トニーは苦笑した。まったく、彼にはいつも振り回されてばかりだ。
「ところで、トニー」
「なんだい」
「きみはさっき、ミラーには人間を傷つけることはできないと言ったね」
ああ、言った。事実、これまでにミラーによって殺されたり、あるいは傷を負ったりという事例は報告されていない。あくまでも彼ら彼女らは「影」であり「鏡」なのだ。人間の内面にある願望を投影するに過ぎない。
「ふむ。だがね、傷つけないというのは、あれは訂正したほうがいい」
「きみがそう言うんだ。なにか根拠があるんだろうね」
「あるとも。事実、わたしは心が傷ついた。初恋の終わりを体験したことでね」
まったく、砕け散るかのような衝撃だったともさ。
そんなこと大仰な手振りで語るヒューイに、トニーもまた納得した。
たしかに、精神的な傷を負わせるということはあるのかもしれない。それによって再起不能になることだって、場合によってはあり得る。こと、このヒューイはすぐに立ち直って見せたわけだが。
「アイリーン・ミラーの件、ひとつ興味がある」
と、ヒューイ。すでにVIPルームを出る扉のノブに手をかけていたが、そこで思い立ったのだろう。問いかけてきた彼の瞳には、好奇の光が宿っていた。
「ミラーを退治する方法について、もちろん教えてくれるのだろう、トニー」
ああ、と一瞬だけ間をおいて、トニーは笑みを浮かべた。
ただひとつ、とても簡単な呪文を唱えればいいのさ。
ミラーとはつまり、真実の愛を知らないかわいそうな存在なんだ。だから、その言葉を与えてやるだけで、ミラーは満足する。
満足させてしまえば、あとは思いのままさ。
人間の女性も、同じことだろう? まあ、きみは一度も口にしたことのない言葉なのかもしれないが。なんだったら、きみも誰か相手を見つけて、唱えてみるといい。
なにか素敵なことが起こるかもしれない。魔術でもなんでもない、けれど魔法のような言葉なんだよ、ヒューイ。
そう、とても簡単な言葉だ。
「ありのままのきみを愛す、とね」
ヒューイの初恋:完
次話:大都会の魔女