ヒューイの初恋 2
「ひどい顔をするじゃあないか」
心なしか傷ついたような表情を作るヒューイに、トニーはふと我に返る。なんだったか。いま、この無精ひげの中年男はなんと言ったのだ?
「初恋だよ、トニー。三十年以上も生きてきて、初めての恋だ」
「よく言う」
ヒューイは、こう見えてとても女性に人気がある。顔立ちは整っているほうだろうし、ひげやぼさぼさの髪も、見方によっては野性的らしい――トニーには理解できなかったが。なにより、彼には莫大な資産がある。それこそ、一般人代表であるトニーが人生を十回は遊んで暮らしても余るほどの。
そんなヒューイだからこそ、浮き名は飽きるほど耳にしていた。ニュー・タウンで脚光を浴びる美人女優や、某企業の令嬢。大統領の娘に手を出して謀殺されかけたのはわずか一か月前の話だし、とあるアイドルグループの全メンバーと寝たとして、そのグループのファンから猛烈な殺意を買ったこともあった。
そんな彼が、初恋?
「きみはてっきり、日々恋に生きていると思っていた」
「たしかに」
と、彼は前置きを置いて、続けた。
「わたしは女に困ったことはない。なにしろ、わたしはモテるからな」
「そうだな」
否定はせずに、うなずく。別に納得したわけではないが、事実ではある。大変気に食わない事実ではあったが。
「アソコが腐るくらい、女と寝ているだろう」
「肉や果物ってのは、腐ってからがうまいのさ」
皮肉に対して皮肉で切り返してきた彼は、そのまま首を振って見せる。
「ただ、彼女たちは取るに足らない。女優だろうと大統領の娘だろうと、アイドルだろうと同じことだ。汚物にたかるハエとなにが違う?」
自身の外面だけを見て寄ってくる女性たちに対する痛烈な皮肉だろう。
「わたしは神に誓って、彼女たちに愛の言葉をささやいたことなどない。それはハエのようにたかる彼女たちに対する、唯一の礼儀だと思っている」
「それは、大層なことだ」
恋をしたことがないというのも、ある意味では本当なのかもしれないと思い至って、トニーは腕を組んだ。じゃあ、その初恋の相手というのはどんな女性なのだろうか。
「もちろん、紹介してくれるんだろう?」
「残念だ、トニー。初恋という言葉の意味を理解してほしかった」
そう言うと、彼はおもむろに何枚かの紙を差し出してくる。いずれも便箋だ。かぐわしい香りがするのは、香水かなにかだろうか。
そこにしたためられているのは、丁寧な書体で記された、なんということもない日常だ。字の美しさは心の美しさを表すと言うが、その理論が正しいならば、この差出人はさぞかし澄んだ心を持っていることだろう。
「そう思うだろう、トニー。わたしもそう思う」
「どういうことだい、ヒューイ」
「文通だよ。こういうことには鈍いんだな、きみは」
「このご時世に、文通?」
いまや電子メールの世の中である。いや、電子メールですら次第に過去の遺物になりつつあり、ソーシャルネットワークを介した情報のやり取りが主流になっている昨今で、文通などというアナログな方法でやり取りをするとは。
まして、このヒューイがそんなに遠回しなことをするというのは、はっきり言って意外ではあった。
「彼女とは三か月前に初めて手紙をやり取りしたんだ、トニー。ある新聞の文通コミュニティがきっかけでね」
「ほう……?」
「会ったことはない。ただ、素晴らしい女性だ。教師をしていて、子供たちの教育に対して高い志を持っている。彼女自身は自分を不細工だと卑下しているようだけれど、強い信念を持つ女性は、容姿に関係なく美しいと思う。何度かやり取りをしているうちに、わたし自身の心に芽吹いた感情に気付いたのさ。彼女とぜひ実際に会って、話をしてみたいとね」
「会えばいいじゃないか。文通をしているなら、住所が記載されているはずだ。探すことは簡単だろう?」
「それが、そう簡単にはいかない」
この新聞の文通コミュニティは、出会い系のサイトや恋人紹介サービスとはまるで違う。一度新聞社を通してやりとりをすることになるため、文通者当人には住所や連絡先は知らされないということらしい。
なるほど、と納得しかけて、トニーは首を傾げた。
「そうかもしれないが、きみなら新聞社に圧力をかけることもできるだろう」
「トニー。初恋の芽吹きを根こそぎなかったことにするような野暮は、この場合すべきではないとは思わないか?」
「だったら、あきらめて文通をしていればいいじゃないか。ぼくにはどうすることもできんよ」
それはどうだろうね。
ヒューイが少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて、そう告げてくる。なにか悪いことを考えているとき、彼はこんな表情をするのだ。それを知っていたから、トニーはわずかに身構えた。
「どうしろって?」
「きみは優秀な魔術士だろう。うまいこと、この手紙から住所を探り当ててはくれないか」
「魔術士を探偵と一緒にしてもらっては困る」
「怪物退治ばかりだと、飽きるだろう?」
「それがぼくの専門なんだ」
だいたい、と続ける。
「魔術に頼るというのは、きみの言う野暮なことじゃあないのかい?」
「それはそれだよ、トニー。友人の力に頼ることは、けして罪にはならない。金にものを言わせるやり方とは違うのさ」
「……」
いまいち納得はできなかったが、それが彼なりの美学なのだろう。
まったくもって面倒でしかないにせよ、ヒューイの初恋の相手とやらには興味があった。まあ、文章ではどうとでも書ける。実際にどんな女性なのか見てみるのも悪くはないだろう。
「分かったよ。ただ、ここの支払いはきみ持ちだぞ」
「もちろんだとも。さすがは我が心の友だ」
都合のいいことを言うヒューイを無視して、トニーは指先で便箋に記されている文字をなぞり始める。
アイリーン。
それが、彼女の名前だった。