ヒューイの初恋 1
『都合よければ来い。悪くても来い』
そんなメッセージをメールで受け取って、トニー・ヴァレンタインはぐったりとした面持ちでソファに体を埋めた。
メッセージそのものは、シャーロック・ホームズの作品群でも名文として知られるそれであって、その原典を把握するのは容易いことではあった。だが、そこに秘められた送信者の意図を理解できるわけではない。
親指でひとしきりこめかみのあたりをぐいと押してから、トニーは再びそのメールを眺めてみる。まずはこのメッセージの元になったシャーロック・ホームズから連想してみることから始めよう。それが不毛であることは、考えまでもなかったが。
ここはベイカー街か。
否。ニュー・タウンの外れにある、小さなアパートだ。
知り合いに探偵はいるのか。
否。探偵なんてファンタジーの住人だと、トニーはそう信じている。
自分は医者か。
否。もしそうであれば、隙間風の吹くこんなアパートにひとりで暮らしてはいない。
なにかの事件に巻き込まれているのか。
これは…否定はしない。事件とは平穏な日常にも案外転がっているものだ。
ふむ……まあ、おおむねシャーロック・ホームズとの共通項はない。
ではどういうことか。
「また、いつもの気まぐれだな」
小さく呟いてみて、ソファから起き上がる。
安物のコートを一張羅のスーツに重ね、ダークグレーのシルクハットを頭にかぶると、最近手に入れたアンティークの杖を手に取った。これで外出準備の出来上がりだ。せっかくの休日、のんびりと映画でも見ながら過ごそうと思っていたのだが、これでそのスケジュールは確実に潰れるだろう。
嘆息を落とす気にもなれず肩をすくめると、トニーは杖を片手でくるくると回しながら部屋の扉を開けた。
◆◇◆
ニュー・タウンの近代的な高層ビル群は、古き良き街並みを残すオールド・タウンの人々にとってはいまだに馴染まない。トニーもまた同じ意見で、煉瓦造りの赤茶けたアパートが立ち並ぶオールド・タウンのほうが、ずっと過ごしやすいと感じてはいた。
そういった意味では、その店はとてもトニー向けの店ではある。
『ディオゲネス・クラブ』
そう記された看板は、高層ビルの合間にひっそりと建つ、小さな三階建ての木造建物に掲げられている。言うまでもなく、シャーロック・ホームズの兄が創立したというそれをモチーフにしている店だ。
来客を拒絶するかのような重い扉をぐっと開いて店内に入ると、様々なアンティークで彩られた、産業革命時の風情が漂い始める。店の主人が無類のシャーロキアンだということで、この店では原則としてほかの客との会話は厳禁だった。
店内には数名の先客がおり、思い思いに新聞を読み、紅茶を口に運び、またはなにをするでもなくぼんやりと天井を見つめていたりする。頑なにトニーと目を合わせようとしないのは、このクラブのルールを順守しているが故だろう。
トニーはそんな彼らに敬意を表し――たわけではなく、このクラブで他人に関わる必要がなかった――無言でバーカウンターの奥にいる店主に目配せをする。
会話はいらない。ただ、彼は静かにうなずいて、店の奥にある階段をあごで示した。失礼な接客ではあるだろうが、ここではそれが普通なのだ。トニーもまたシルクハットをとることはせず、そのまま階段を上る。
この『ディオゲネス・クラブ』において、静寂は石油にも勝る宝だ。古く見える店内も、防音素材を各所に用いて音が漏れることを防いでいる。
そんな中で唯一ほかのフロアから隔離されているのが、三階にあるVIPルームだった。ことこの部屋では、より万全の防音設備が整えられており、たとえ扉の前で絶叫しても部屋の中に響くことはない。
トニーがその扉を開いて中に入ると、小さな机がひとつ置かれている。見るからに骨董品だ。部屋の中にある調度品も、一階や二階のそれとは比較にならない。一見して高価だと知れるその机に、無造作に投げ出されているのは――
「行儀が悪いな、ヒューイ」
「こんな部屋に二時間も待たされていたんだ。多少姿勢が悪くなったとしても、それを責めるべきではないとわたしは思うがね」
屁理屈を言うなよ、とトニーが返したのは、アンティーク机に脚を投げ出して――しかも靴ごとだ。店主が知ったら卒倒するだろう――これまたアンティークのソファに体をだらしなく預ける男、ヒューイだ。
「まあ、座りたまえよ」
ヒューイは脚を机から降ろすと、そう勧めてくる。
中途半端に長いぼさぼさの黒髪に、あまり手入れをしていないあごひげは清潔感があるとは言えない。しかし、そんな顔立ちにシャツにジーンズというラフな格好ながらも、滲み出る余裕がひとつひとつの所作からは高貴さすら漂っていた。
だが、態度と性格は最悪だ。
「やあ、トニー。来てくれないかと思って、そろそろ遺言をしたためようかと準備をしていたところでね」
「そのわりには、横柄な態度を取っていたじゃないか」
「その件は伝えたままで受け取ってもらいたい。退屈だったのさ」
「退屈しのぎにぼくを呼んだのか」
この問いかけに、彼は「まさか」と笑って見せた。
「わたしはね、トニー。用件もなくきみにご足労願うことはないよ」
「どうだか。待ち合わせ場所も書かず、ただ来いと連絡されても困るんだ」
「そこだよ、トニー。よくわたしが『ディオゲネス・クラブ』にいると推察してくれた。まったく素晴らしい推理だ。感銘を隠せないね」
大げさに腕を開いて驚いて見せるが、それは演技だ。いちいち彼の一挙手一同を真に受けていたら、それだけで明日の朝日を拝むことになってしまう。
トニーは嘆息を落として向かいのソファに腰かけると、つぶやくように答えた。
「きみと待ち合わせをする場所は、『ディオゲネス・クラブ』か『クール・ジャパン・サロン』、それかリタのコーヒー・ショップくらいだ」
シャーロック・ホームズの文章を引用してまで呼び出したということは、結論はひとつだろう。
そう告げたトニーに対して、ヒューイはうなずく。
「まったく、素晴らしい。わたしのことをよく理解しているよ」
「長い付き合いだからな」
「五年を長い付き合いだというかどうかは議論の余地がありそうだ」
言いながらも、ヒューイは嬉しそうではあった。
とはいえ、これもいつものことだ。五年前に出会ったこの男とは、頻繁に顔を合わせる機会がある。彼の嗜好や行動パターンも、ある程度把握しているつもりではあった。
「それで、用件はなんだい。今日は休日だったはずだろう」
「休日に友人と会うのが、そんなに嫌なのかい」
「そうじゃない。まさか、退屈だからチェスでもしようか、などと言い出すんじゃなかろうね?」
そう切り返すと、ヒューイがおもむろにあごに手を置いて思案を始めた。それもいいな、というつぶやきが聞こえてきて、再び嘆息。まあ、それが望みならば付き合ってやろう――
「ああいや、本題を忘れるところだった。トニー、きみには他人の集中力を奪うという才能があるようだ」
おまえが言うな、という言葉は飲み込んで、トニーは首を傾げた。
いつもであれば、このままチェスなりカードなりに興じるところだ。そうならないということは、別に本当の用件があるということだろう。
「どんな用件だい、ヒューイ」
「なに、簡単なことさ。その前にまず、わたしのいまの状態について、きみに正確に把握してもらう必要がある」
「ほう……?」
もったいぶった言い回しは嫌いじゃないが、待たされるのは嫌いなんだ。
そう答えると、ヒューイは肩をすくめた。心に余裕がない証拠だよ、トニー。もう少し日々の生活を楽しんでみてはどうだい。そんなことを告げてから、ヒューイがぐいと体を乗り出してくる。
「実はね。わたしは恋をしているんだ」
思わぬ言葉に、トニーは思い切り眉根を寄せた。