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信夫は逮捕され、県警本部へと連行されていった。
連れて行かれる信夫に康子は何も言ってあげることが出来なかった。それは菫も同じだったようだ。涙をこらえるようにきつく奥歯を噛み締めるような表情をしたまま、ただ拳を握り締めて信夫を見送っていた。
自分を守るために信夫は罪を犯したのだ。そう思うとあまりにも切なかった。
静まりかえった家のなか、康子は力なくソファに座り、信夫が話していたことを思い出していた。
咲江は、康子と剛との結婚を画策していた。
もちろんそれは康子の持つ財産を自分の自由にするためだ。そのために圭一郎の法事を口実にして康子を連れ帰ろうと考えていた。もしも、康子が拒否すれば自分が乗り込むつもりで、咲江も信夫に着いてきたのだ。
だが、その咲江の行動が、信夫の殺意を駆り立てた。
このままでは咲江に康子の人生を狂わされてしまう。そう信夫は考えて、康子のアパートを出るとすぐに車で待っていた咲江を絞め殺した。そして、翌日になって咲江をトランクスペースに入れたままに家に帰り、康子や菫の目を盗んで客間の押入れに押し込めた。
押入れに押し込んだのは、ずっと身体を丸めた状態でトランクスペースに入れてあった咲江の体が死後硬直で固くなっていたからだ。
(トランクに……)
車内に乗り込んだ時のことを思い出していた。
あの時、トランクスペースに見えた汚れた毛布のなかに咲江は隠されていた。まさか菫も自ら座るすぐ背後に咲江が死んでいるとは思わなかったことだろう。
ふと、信夫が言った言葉が思い出された。
「娘たちを守りたかったんです」
その言葉がどこかひっかかっていた。
(娘たち?)
咲江が狙っていたのは康子の持つ財産だ。菫のことは咲江も可愛がっていたはずだ。なぜ『娘たち』などという言い方をしたのだろう。
考えてみると、いくつかわからないことがある。
事件の夜、咲江は菫に何の連絡もしなかったのだろうか? 咲江は菫とは頻繁に連絡を取っていたようだ。だからこそ菫は圭一郎の法事の話を知ったのだ。もし、東京まで来ていたのだとすれば、菫に連絡を取っていたとしても不思議ではない。
康子は亡くなっていた咲江の服装を思い出していた。
ジャージ姿にダウンジャケット。
いつもジャージ姿でどこにでも出かける咲江のことだから、あまり気にも止めなかったが、東京まで来るのにあんな服装で出かけるだろうか。
もしかしたら、咲江はどこかくつろげる場所で着替えたのではないだろうか。
(だとしたら……どこで?)
あの夜、ホテルに泊まったのは信夫一人のはずだ。それは警察によって裏づけが取れていると仙道が言っていた。そもそも、信夫がホテルに行く前には咲江は殺されている。
そう考えて、康子は小さくあっと声を出した。
信夫が訪ねてきた夜、信夫は部屋に入ってきた時、いつもの癖でキーケースをテーブルの上に置いていた。それはあの時、車にエンジンがかかっていなかったことを示している。もし、咲江が車に残っていたとすれば、エンジンをかけっぱなしにしていたに違いないからだ。
――とすれば、あの時、咲江はどこにいたのだろう。
信夫は咲江がラーメン屋に行ったことを知らなかった。つまり別の場所に行くことになっていたということだ。
あの時、咲江は一人でラーメンを食べ、それから菫のアパートに向ったとは考えられないだろうか。
その後、信夫も菫の部屋に行き、そこで咲江を殺害したとしたら……
(菫は知っていた?)
そうだとすれば、菫が昨日に限って後部座席に寝ていたのも理由がつく。咲江の遺体があることを康子に気づかせないためだ。
だが、何のため? 菫が信夫に協力するような理由が見つからない。
(あの婚姻届……)
康子が圭一郎から譲られた財産は咲江にとって魅力的なものだったろう。だが、弁護士の伯父の存在は咲江にとって脅威だったはずだ。それなのに監禁してまで剛と結婚させようとしただろうか。
むしろ、無理やり結婚させてまで手元に置いておきたかったのは――
「お姉ちゃん」
その声に康子は振り返った。そこに菫の姿があった。
「お父さんのこと、助けよう。お姉ちゃんも協力してくれるよね?」
菫は言った。
「助ける?」
「お父さんはお姉ちゃんのことを助けようとしたんだよ。お母さんがやろうとしていたことを考えれば、お父さんのやったのは正当防衛って言ってもいいんじゃないかな。腕の良い弁護士さん、私、知ってるんだ。お父さんを助けよう」
「どうして?」
「どうしてって?」
「お父さんは……菫のお母さんを殺したんだよ」
その問いかけに菫は一瞬、康子の顔を見つめたまま黙り込んだ。その目はまるで、康子の心のなかを読もうとするかのように、ジッと康子を捕えている。
しばらくして――
「あの人はシロアリだよ。家のなかに入りこんで全てを食い尽くす。お父さんはそのシロアリを駆除しただけ。私にとって大切なのは、あの人よりもお父さんやお姉ちゃんなんだ」
「あの人?」
その言葉に康子は驚いていた。菫はさらに続けた。
「あの人は私を育ててくれた。でも、それだけ。私の本当のお母さんはあの人に殺されたんだ」
菫の目から涙が一筋、頬をつたっていく。
「殺された?」
「お母さんには保険金がかけられていたんだ。あの人は保険金目当てにお母さんを殺したんだよ」
「それって自分の妹を殺したってこと?」
「妹でも血はつながってないの。あの人もお母さんも養女だったから」
「どうして殺されたと思うの? 何か――」
「証拠なんてないよ。でも、私にはわかる。お母さんはあの人のことを嫌ってた。だからあの人を保険金の受け取りになんてするはずがないんだ。あの人はお母さんが知らないうちに保険金をかけて、お母さんを殺したんだ」
「そのこと……お父さんは?」
「知ってたよ。高校を卒業するときにお父さんには話したんだ。お父さんが味方してくれたから上京させてもらえた。でも、それだけじゃあの人から逃げることは出来ない。峯君のこと覚えてるかな。私のカレシ。私、ついあの人にも彼のこと話したんだ。そしたらあの人、こっそりと彼に会いに行った。そして、娘と付き合いたいなら金を払えって脅したの。あの人にとって私は金づるなんだよ。あの人が生きてる限り、私は自由になれない。それどころか、いつか私も殺されることになったかもしれない。お父さんはあの人を殺すことで私のことも助けてくれたんだ」
菫は流れ落ちる涙を拭おうともせず、真っ直ぐに康子の顔を見つめながら言った。
言葉が出なかった。
「お姉ちゃん、お父さんを助けよう」
菫はもう一度言った。
その瞳の奥に強さが見えた。
了