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警察が全ての捜査を終えて、帰っていったのは夜になってからだった。
「メシ、どうする?」
信夫が康子に問いかけた。
事件であわただしかったこともあって、ほとんど一日中食べていないことに気がついた。
「何か作ろうか?」
「疲れてるだろ。コンビニで弁当でも買ってくるよ」
そう言って信夫は立ち上がり、ソファに座り込んでいる菫のほうに目を向けた。「菫、食べられるか?」
「……私……いらない」
「少しでも食べたほうがいいわ」康子も声をかける。
「……いらない」
俯いたままで菫は言った。
「とりあえず行って来る」
そう言って信夫は出て行った。
菫はジッと動かなかった。いつも無邪気に明るい菫の初めて見る姿だった。
無理もない。
菫にとってはこの家のなかで唯一血のつながりのあるのが咲江だったのだ。
きっと菫は今、咲江との過去を思い出しながら、今の状況と戦っているのだ。
今は無理に声をかけないほうがいいだろう。
康子は菫の隣に座ると、菫の手をそっと握った。一瞬、少し驚いたように視線を上げたが、菫は何も言わずにまた視線を落とした。
15分ほどして信夫が帰ってきた。
「ただいま」という信夫の小さな声でも、何の音もない今の家のなかでは、やけに響くような気がしてくる。
信夫は手に持っていたキーケースと、コンビニの白いビニール袋をテーブルの上に置いた。袋の中にはサンドイッチやおにぎりがいくつも入っていた。
既に弁当は売り切れだったと信夫は言った。だが、この状況を考えれば、むしろ弁当よりも良かったかもしれない。
康子はサンドイッチを一つ取り出すと菫の前に差し出した。
「食べないと体がまいっちゃうわよ」
そう言って菫の手のなかに押し込んだ。
菫は何も答えなかった。それでも素直に差し出されたサンドイッチを少しだけ口にした。
軽く食事を済ませた後、今夜はこのまま眠ることにした。
信夫の顔も疲労感が現れている。朝からずっと運転して帰ってきて、その後は警察の捜査につき合わされていたのだから当然だ。
2階の部屋は綺麗に片付けられていた。
康子が暮らしていた時の家具はそれなりに残されていたが、ぬいぐるみも本もCDも、康子のものは全て片付けられていた。
7年も帰っていなかったのだから当然のことだ。
康子は押入れに入っていた布団を出して寝る支度をした。
カーテンの隙間から暗い闇が見える。
窓に結露が出来ていることに気がついた。部屋のなかもそう暖かいわけではないが、外はそれ以上に寒いということだろう。
康子は部屋を出ると1階の台所へと向った。そして、少しだけ水道の蛇口を捻った。
水滴が細くシンクに流れ落ちていく。
これだけ出ていれば今夜は凍ることはないだろう。
ふと、咲江のことを考えていた。
咲江もここで暮らすようになって7年だ。きっと冬の寒さへの対応は知っていたことだろう。
もし、咲江が昨夜、殺されていなければ水道は凍っていなかったのだろう。
寒さに身を震わせながら2階の部屋へと向う。
階段を上がりながら、何かがひっかかっている気がしていた。
* * *
嫌な眠りだった。
疲労のせいかすぐに眠ることは出来たが、まるで疲れは取れなかった。眠りは浅く、夜中に何度も目が覚めては妙な不安感に襲われた。
7時過ぎに起きて一階に降りていくと、既に新堀喜一が訪ねてきていた。
喜一はこの地区の長老といっていい存在で、既に80歳を過ぎている。今はその息子の太一が区長を務めていた。
昨日はずっと警官たちが捜査をしていたため、今日になって事情を訊きにやってきたらしかった。
信夫はたどたどしくも、昨日の事件のことを喜一に説明していた。
お茶を持っていくと、喜一は康子の顔を見て――
「康子ちゃんか、久しぶりだなぁ」
としみじみと言った。そして――「本当は太一が来るべきなんだろうけど、太一は今日、仕事でな。またあらためて来させるからな」
それからすぐに喜一は帰っていった。
きっとこの地区の人たちには、喜一から事件のことが伝わることになるのだろう。
それも仕方ないことだ。
8時を過ぎても菫は部屋から出てこなかった。
朝、康子が部屋を覗いた時には返事があったから、眠っているわけではないらしい。きっとまだ昨日のことを受け止められずにいるのだろう。
9時を過ぎた頃――
「ちょっと役場まで行ってくる。お母さんのこと伝えてこないといけないから」
そう行って信夫は出かけていった。
何をしていいのかわからず、康子は居間で一人、ぼんやりと時間が過ぎるのを待つしかなかった。
何かモヤモヤしたものが心のなかに渦巻いている。
今朝も、昨夜のうちに降った雪で、昨日やってきたパトカーのタイヤの跡はほとんど消えている。犯人の足跡もこうして消されてしまったのだろうか。
そもそも犯人の目的は何だったのだろう? 寝室も居間も荒らされた様子はなかったようだ。泥棒による犯行とは思えない。
では、はじめから咲江を殺すことが目的だったのだろうか。だが、咲江を殺して特するような人間などいるのだろうか。それとも誰かに恨まれていたのだろうか。
まるで想像がつかなかった。
ただ、何か自分の記憶のなかに事件に関わるものがひっかかっているような気がしている。
(考えても仕方ないわ)
康子は考えを断ち切るように頭を振った。
事件がなければ、今頃は法事で一日を過ごしていたことだろう。
(法事?)
そうだ。今日は法事の予定だった。
その瞬間、一つの考えが頭のなかを過ぎった。
法事の場所を聞いた時、信夫は少し考えてから答えた。なぜ、あの時、信夫は少し考えたのだろう?
信夫の車が帰ってきたのが窓から見えた。
ふと視線を時計に向ける。既に10時を過ぎていた。
やがて玄関のドアが開く音が聞こえた。
そして――
「ただいま」
信夫の小さな声。
それを聞いた瞬間、何かが心のなかで音を立てた。