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高速から国道へ、そして、さらに町道へ。
民家はどんどんまばらになり、そして、雪一面となった田園が広がっている。さらに進めば進むほどに、車の通行もほとんどないことを示すように降り積もった雪がそのまま残っている。
ハンドルを握る信夫は疲れをほぐそうとするように、時折、首を左右に肩を上下に動かしている。
途中、サービスエリアで軽く食事を取っただけで、それ以外はずっと運転しっぱなしなのだから疲れるのも当然だ。
菫は相変わらず後部座席で横になっている。食後、少し起きて話をしていたが、すぐにまた眠くなってきたようだ。
エアコンのスイッチが入っていても、窓ガラスが少し曇りだしている。それだけ外が寒いということだ。
昼を過ぎても、まだ雪がパラパラと舞っている。
ワゴンは新雪にタイヤの跡を残しながら進んでいった。
その道の外れに懐かしの我が家が見えた。道が細くなり、除雪された雪が道の両脇に小さな山になっている。今年の冬の雪の多さがよくわかる。
すでに2時を回っていた。
雪を踏みしめながら庭のなかに車を進めていく。
庭も家も、裏の林も、全てに浅く雪が降り積もっていた。子供の頃は町にも学校にも遠いこの家が嫌で仕方なかった。だが、今、こうして見ると懐かしさがこみ上げてくる。
その光景を眺めながら、康子は圭一郎が死んだ日のことを思い出していた。あの日もちょうどこんな日だった。
家の横の駐車場にワゴンを止めると、信夫はエンジンを止めてドアを開けた。
康子もそれに続いて外に出る。
冷たい風が頬に当たる 裏の林を抜けてくる風の音が聞こえてくる。
庭にはクッキリと今、自分たちが帰ってきたタイヤの跡だけが残されている。
「ここ、どこ?」
流れ込む冷たい空気に反応して、菫が目を開けて寝ぼけたような声を出した。
「着いたよ」
「そう……着いたんだ。あぁ、喉渇いた」
「早く降りて」
そう言いながら康子はドアを閉めた。
久しぶりに見る我が家の横に小さなプレハブが建っていることに気がついた。
「どうしたの? これ」
「去年、建てたんだ」
一瞬だけ立ち止まって信夫は答えた。
「どうして?」
康子は訊いた。
今、家には信夫と咲江の二人が暮らしているだけだ。昔、康子や菫がいた頃にでも部屋は十分に足りていた。なぜわざわざプレハブを建てたのかがわからなかった。
「お母さんが……便利だろうって」
曖昧に答えながら信夫はドアを開けて家のなかへと入っていった。
続いて康子が家のなかに入る。薄暗い家のなかは外よりもどこか空気が冷たいような気がした。
信夫は黙ったまま靴を脱いで居間のほうへと向っていく。康子はすぐに家に上がっていいものかどうかを迷っていた。
少し遅れて菫がドアを開けて入ってきた。
「ただいまぁ」
菫の声が静寂を破るように家のなかに響く。だが、その声に反応するものは何もなかった。
「おかあさあん、いないのぉ?」
もう一度、菫が家の奥に向って声をあげた。
康子は緊張しながら、咲江が姿を現すのを待った。だが、まるで人の気配がしない。
菫はブーツを脱ぐと、そのままキッチンのほうに向っていく。
いつまでも咲江が出てくるのを待っているのも不自然な気がして、康子は仕方なくブーツを脱いだ。勝手知ったる我が家のはずが、もう自分の家ではないような気がして、康子はどこにいればいいのか躊躇いながら、とりあえず居間に行くことにした。
今、火がついたばかりのファンヒーターが音を立てて暖気を吐き出している。
既に信夫はソファに座って新聞を読みはじめていた。コートは無造作にソファの背にかけられ、またキーケースがテーブルの上に置かれている。
康子もコートを脱いで、信夫の向かいに座って窓から外を眺める。青空は見えるが、山際から吹かれて飛んできた細かな雪が舞っている。
「ねえ、水、出ないよ」
振り返ると、菫が困ったように信夫に訴えている。
「……凍ったか」
信夫は新聞をテーブルの上に置くと、表情を固くして台所へと歩いていった。
「お母さんは?」
康子が声をかけると、菫は首を振った。
「どこ行っちゃったんだろう?」
「小山田さんの家かもしれないな」
水道をいじりながら信夫が言った。「菫……ちょっと見てきてくれないか?」
「小山田さんの家?」
菫が露骨に嫌な声を出す。隣の小山田の家までは200メートルほど離れている。距離よりも雪道が問題だった。今の菫の服装では、とてもあの雪道を歩いていくことは出来ないだろう。
「あたし、行って来るよ」
康子が言った。
咲江と顔を合わせることには抵抗があるが、会わないで済むものではない。
「菫も一緒に行ってきたらどうだ?」
「えぇ? お姉ちゃんだけで大丈夫でしょ。それより水道、どうすんの? 早く電話してよ。私、着替えてくるから」
そう言って菫は居間を出ると階段を上がっていく。
「私一人で大丈夫よ」
康子は再びコートを着こんで外に出た。
さっき通ってきた車の轍に沿って道を歩いていく。他に雪がないところがないからだ。それでも時にはふらついて雪のなかに足をつっこむこともあった。
たった200メートルだが、その間でも指先が冷えてくる。少し痛みすら感じてきた頃に小山田家に着いた。
小山田しのぶは、康子の顔を見てやたら「懐かしいわね」を連呼した。その思いは康子も同じだった。しのぶの娘の裕美子は康子の2歳年上で、子供の頃はよく遊びにきたものだ。
咲江が訪ねてきていないかと聞くと、今日はまだ顔を見ていないとしのぶは答えた。七尾家は国道からはずれた一本道の町外れにあるため、どこに行くにしても隣の小山田家の前を通らないわけにはいかないはずだ。
康子はとりあえず家に戻ることにした。
再び雪道を歩く。
ふと、雪に足をとられて転びそうになるのをグッとこらえた。そして、そのまま足を止めて前方の道を眺めた。さっき帰ってきた時のタイヤの轍、そして、自分が今歩いてきた足跡が見える。それ以外に人が通った形跡は見当たらない。
雪は舞っているが、この程度ならばすぐに足跡を消してしまうというほどではない。それはつまり咲江が家から出ていないことを意味していた。
では、いったい咲江はどこにいったのだろう? 家のなかのどこかにいるんだろうか?
家に帰った時、信夫は電話をかけている最中だった。その脇にジーンズとセーターに着替えた菫の姿があった。
居間はすでに暖かな空気で満ちていて、冷たい肌が一気に緩んでいくのが感じられる。
どうしたのという顔で傍にいる菫の顔を見ると――
「水道屋さんに電話してるの」と、菫が答えた。
「お母さん、いなかったよ」
「いない?」
「今日は見てないって」
「ふぅん、じゃあ、家にいるってこと?」
菫はそう言うと、再び「おかあさん」と呼びながら居間を出て歩き回る。
信夫が受話器を置いて振り返った。
「あとで見に来てくれるそうだ」
そう信夫が言い終わらないうち――
菫の甲高い悲鳴が家中に響き渡った。
一階奥の客間のほうだ。
急いで康子が客間へと向う。
客間の扉は開いていた。
部屋の真ん中に膝をついて、口を押えている菫の姿があった。
その視線が押入れのほうに向いている。
そこに咲江の姿があった。灰色のジャージの上に黒いダウンジャケットを羽織っている。
その肌は生気を失い、うつろに開いた目は何も捉えてはいない。
それは7年ぶりに会った咲江の死に顔だった。