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祖父、圭一郎の七回忌を日曜日に行うと信夫から連絡があったのは一週間前のことだ。
近所の人たちも呼ぶので、康子にも帰ってきて欲しいとのことだ。
突然の連絡に康子は戸惑った。
家を出たあと、何度か伯父を通じて圭一郎の遺産の一部を信夫宛に送ることがあった。その都度、信夫から礼状が届くことはあったが、それ以外に連絡が来たのは初めてのことだった。
そもそも七回忌といえば一年前にやるべきはずだ。それをなぜ一年も過ぎてからやろうと言い出したのかも疑問だった。
何よりも咲江がいるあの家に帰ることには今でも抵抗がある。だが、圭一郎の法事となれば帰らないわけにはいかないだろう。
真人に相談すると――
「咲江さんは警察や弁護士というような職業の人間が苦手なようだ。康子と私の関係を知っているから、きっと変なことは出来ないだろう。定期的に金を渡してることにも、それなりに納得しているようだ。もし、何かあったら私に連絡しなさい。すぐに駆けつけるから」
それを聞いて少し安心した。
2年前、菫が東京の大学に通うために上京した。咲江は反対したらしいが、菫はそれを押し切って家を飛び出した。咲江にとっては血のつながりのある菫のことを手放したくはなかったのだろうが、その反面、だからこそ無理に押えつけることも出来なかったのだろう。
菫は康子の住むアパートのすぐ近くに部屋を借りた。菫は康子が突然東京に戻った本当の理由を今でも知らない。そのためか今でもずっと康子のことを慕ってくれている。大学に入学してすぐに恋人が出来て、今度、康子にも紹介すると話していたが、この秋に別れてしまったらしい。
菫のところには上京してからも咲江からよく連絡があるようだ。そのため菫には縁のない圭一郎の法事へも参加することに決めたようだ。
週末が近づくにつれ、康子は少し憂鬱になっていった。
金曜の夜9時。
明日の帰省のため、康子はいつもより早く仕事を終わらせて吉祥寺のアパートに帰っていた。
夕食を済ませ、テレビを観ながらくつろいでいると、ドアのチャイムが鳴った。康子は急いで玄関に向った。
ドアを開けると、そこに立っていたのは父の信夫だった。
「久しぶりだな。元気だったか?」
静かな口調で信夫は言った。
グレーの作業着の上に黒いジャンパーを着ている。まるで仕事帰りにそのままやって来たかのような姿だ。
開いたドアから冷たい風が吹き込んでくる。
「お父さん……どうして?」
突然の信夫の訪問に康子は驚いていた。
「いや……明日、帰って来てくれるかなって……気になって」
「まさか迎えに来たの?」
「うん」信夫は小さく頷いた。
「車で?」
「うん」
「一人?」
「うん」
「とりあえず入って」
「いや……急に……悪いから……」
おどおどした態度で信夫は言った。
「いいから入って」
康子がさらに大きくドアを開いて、信夫を促すと――
「お邪魔します」
丁寧に一言断ってから信夫は靴を脱いだ。
こういうところは昔から変わらない。決断力や男らしさなどというものはまったくない人だったが、礼儀正しさだけは人一倍だった。誰とすれ違っても挨拶だけは欠かさない人だった。
キッチンを通って部屋に入ると、信夫はカーペットの上にちょこんと正座をした。そして、ポケットから黒いキーケースを出してテーブルの上に置いた。
昔から変らない信夫の癖だ。ポケットの中に物を入れているのが嫌なのか、いつもキーケースを目の前のテーブルに置きたがる。これで無くすことがないのだから、それのほうが不思議に思う。
その信夫の姿は、娘の部屋だというのに、どこか緊張しているように見えた。
康子はコーヒーをいれると信夫の前に出した。
「ありがとう」
そう言って信夫はすぐに手を出した。そして、すぐに飲もうとするわけでなく、両手でそっとテーブルの上に置かれたカップを包む。冷えた手を温めようとしているようだ。
「ビックリしたよ。急に来るなんて」
康子はテーブルを挟んで信夫と向かい合った。
「すまない」
信夫はまた頭を下げる。
「別にいいけどさ……今日、お母さんは?」
「家にいるよ」
「法事は明後日だったよね?」
「ああ」
「どこでやるの? どこか借りるの?」
「ああ……」
と信夫は少し考えてから「立花屋さんの宴会場を借りようと思ってる」
立花屋は町にある唯一の料理屋で、2階が宴会場になっている。さまざまな冠婚葬祭で使われることが多かった。
「お父さん、食事は済ませたの? すぐそこに美味しいラーメン屋さんがあるんだよ。この時間ならまだやってると思うけど」
「いや……メシは食べてきたから」
無理にすすめるつもりはなかった。昔から信夫が夜中に間食しないのは知っている。やはり相変わらず食は細いようだ。その痩せた体からも想像できる。
信夫は落ち着かなさそうに、少し体を揺すりながらキョロキョロと部屋を見回している。娘の部屋にいるということが落ち着かないようだ。思えば康子が家にいた頃でも、信夫が自分の部屋に入ってきたことはなかった。
「菫にはもう会ったの? 菫はお父さんが迎えに来たこと知ってるの?」
「……いや」
信夫は小さく首を振った。
「明日、菫も帰るんでしょ?」
「ああ。朝に迎えにいけば大丈夫だろう」
小さく頷きながら、信夫はコーヒーを飲んだ。
昔から口数の少ない人だった。そういう人だからこそ、咲江と一緒にいられるのかもしれない。
「ちゃんと伝えておかないと、朝、あの子起きないわよ」
「そうか?」
「今夜、菫のところにも行くの?」
「いや」信夫は首を振った。
「それじゃ、あとで私のほうからメールしとくよ」
「うん、頼む」
信夫はコーヒーを飲み干して立ち上がった。「じゃあ、また明日迎えにくる」
「お父さん、今夜はどうするの?」
「ホテルを予約してあるんだ」
そう言って玄関に向う。少し丸まった背中が昔よりも小さくなったようにも見えた。
信夫は靴を履くと、一度振り返って――
「朝、7時に迎えに来るから」
そして、出て行った。
康子は部屋に戻って時計を眺めた。
9時半になろうとしていた。
* * *
翌朝、7時ちょうどに再び玄関のチャイムが鳴った。
すぐにそれが信夫だということはわかった。
昔から時間を守る人だった。きっと少し前にには部屋の前に着いていて、7時になるのを待っていたに違いない。
康子は急いでドアを開けて、信夫に中で待ってくれるように言った。相変わらず「おじゃまします」と律儀に断ってから信夫が中へと入ってくる。
信夫は昨夜と同じようにカーペットの上にちょこんと正座すると、いつものようにポケットのなかからキーケースを出してテーブルの上に置いた。
康子は急いで支度すると、すぐにバッグを一つ持って信夫と共に部屋を出た。
風が冷たかった。
昨日から寒気が日本列島を覆い、東京でも一部雪が降ったところがあるとニュースで伝えられている。
アパートの前に停められたワゴンの後部座席には、既に菫が乗り込んで待っていた。いつも車に乗るときは、酔うからという理由で助手席に座りたがる菫だったが、今日はまだ眠いせいか後部座席で横になっている。
菫は上京してからめっきりオシャレに目覚め、今日も黒いミニのワンピースの上に白いコートを纏っている。いつもジャージ姿で出歩く母親の咲江とは大違いだ。菫に云わせると、母親の姿をむしろ反面教師としているのだそうだ。
信夫が運転するワゴンは、アパートを出るとまっすぐに帰路についた。
車が出るとすぐに――
「着いたら起こしてね」
そう言って菫は目を閉じた。
後ろのトランクスペースに汚れた毛布がまるまっているのが目に入り、夜釣りに行くのが信夫の唯一の趣味だったことを思い出していた。
携帯電話を開いて時間を確認する。
7時半を少し過ぎたところだった。きっと家に帰り着く頃には昼を過ぎていることだろう。
「康子も寝てていいぞ」
信夫が助手席の康子に声をかける。
「うん」
そう答えたものの、眠れるとは思えなかった。
少し緊張している自分に気づいていた。
家を出てから咲江とは顔をあわせていない。これまで電話ですら話すこともなかった。
咲江は自分のことをどう思っているのだろう。
遺産の一部を信夫に渡したとはいうものの、そんなもので咲江が満足しているとは思えない。菫はよく電話で話をしていると聞いているが、咲江が康子のことを口にすることはないそうだ。
(考えてもしょうがないか……)
康子はそっと目を閉じた。