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七尾康子の祖父、七尾圭一郎は資産家だった。
昔から資産家だったわけではない。もともとは仙台市北部に住む単なる農家に過ぎなかった。しかし、ある日、彼が持っていた土地にショッピングセンターが建つことが決まった。
圭一郎は持っていた土地の多くを売り払うと、その金の一部を使って仙台から離れた田舎町の外れに改めて土地を購入した。さらに残った金を不動産に投資をした。当時、土地は右肩上がりで値上がりしていたこともあって、圭一郎の資産はさらに莫大なものとなっていった。
ただし、問題が一つあった。若い頃に妻を亡くし、ずっと独り者だった圭一郎に子供がいなかったことだ。
圭一郎は七尾の家を守るため、親戚の子供だった史子を養子にすると、すぐに見合いをさせて隣町の整備工場で働く信夫と結婚させた。信夫という男を特に気に入ったわけではなかった。圭一郎にとって何より大切なのは、自分に逆らわず従順であることだけだった。
それから2年後、康子が生まれた。
康子の母、史子は非常に頭も人柄も良く、周りから慕われるような存在だった。唯一の欠点は体が弱かったことだ。康子が生まれた頃から病気がちになって入退院を繰り返すようになった。そして、康子が中学生一年の年に癌で他界した。それからは祖父と父と康子の3人で暮らすようになった。
圭一郎にとって、史子を失ったことは大きな痛手だった。史子こそが自分の意思を継いで家を守ってくれると信じていたのだ。史子の死後、圭一郎は誰よりも康子のことを可愛がるようになった。
康子が高校3年の時、圭一郎は病に倒れた。やはり癌だった。癌が発見された時には既に末期の状態で、余命半年と宣言された。
当時、進学に悩んでいた康子に、圭一郎は家を出て東京の大学に進むように命じた。そう、あれは命令だった。
圭一郎の言葉は七尾の家のなかでは絶対的なものだった。
上京の時、これで圭一郎と会うのも最後かもしれないと思った。だが、圭一郎は簡単には病に負けることはなかった。医者も驚くほどの生命力を見せ、宣告期間を過ぎても死ぬことはなかった。
2年後、圭一郎から一度、帰ってくるように連絡があった。
圭一郎は入院もせずに、自宅で静養を続けていた。少し痩せてはいたが、余命宣告されたことなど間違いのように元気そうに見えた。
圭一郎は康子の顔を見ると――
「信夫に七尾の家を任すことは出来ない。俺が死んだらおまえが七尾の家を守るんだ」
そう言うと大きく笑顔を見せて康子の手を握った。
その翌日、圭一郎は亡くなった。まるで圭一郎自身が死ぬ日を決めていたかのような最後だった。
圭一郎は自らの持つ資産全てを康子に遺すという遺言状を残していた。預貯金や不動産、賃貸マンションの家賃収入など、その莫大な金額に康子はうろたえた。
意外なことに、康子よりも信夫のほうがあっさりとそのことを受け入れた。もともとそういうこともありえると予感していたのだそうだ。
遺産を信夫に譲りたいと言っても、信夫は首を横に振った。
「それはおまえがじいちゃんに任されたんだ。俺は金に困ってないから大丈夫だ」
その欲のなさは、康子も驚くほどだった。
康子は当分の間、大学を休んで家に残ることにした。
まだ50歳を過ぎたばかりの信夫に健康上の心配はなかったが、それでも家に一人残されるということになれば、やはり寂しさを感じることもあるだろう。圭一郎からはただの種馬のように扱われ、妻を亡くして一人で田舎の片隅で生きていくのかと思うと、とても放っておけなかった。
それから半年後、意外にも信夫は再婚した。信夫が飲みにいったスナックで働いていた咲江と知り合ったのだ。
咲江は信夫よりも2歳年上で、中学生の娘の菫がいた。一人っ子の康子にとって、妹が出来ることにはちょっとした嬉しさがあった。菫もすぐに康子に慣れ、実の姉のように慕ってくれるようになった。菫は咲江の実の娘ではなく、事故で亡くなった妹の子供を引き取ったのだそうだ。菫もまた、家族の愛情を欲していたのかもしれない。
あまりに突然の結婚ということもあって、咲江が家に入ることは不安でもあった。それでも信夫が幸せになるために必要ならばと理解しようとした。
意外にも、咲江は素朴な女だった。スナックで働いていたときは濃い化粧をしていたが、辞めた途端に化粧っ気などまるで感じさせなくなった。一日中、家のなかでも出かけるときでもジャージ姿で過ごすことも多かった。もともとオシャレになどまったく興味がなかったのだそうだ。
康子は咲江と暮らすようになって、心配事が減ったような気がしていた。
きっと咲江がいれば、信夫は大丈夫だろう。
東京に戻ることを考えていたある夜、トイレから部屋に戻ろうと階段をあがろうとしたとき、一階の寝室から聞こえてきた声に康子は足を止めた。
「どうしてあんたなんかと結婚しちゃったんだろう。話が違うじゃないか。この家も土地も、全部、康子のものじゃないか。あんたのものなんて何もない。こんなはずじゃなかったんだ」
あからさまな咲江の言葉に康子は驚いていた。
咲江はさらにこう言った。
「今からだって遅くないよ。あんたはあの子の親なんだよ。あの子の財産をあんたが管理すればいいんだ。このままあの子を東京に帰すんじゃないよ」
咲江が金目当てで信夫と結婚したのは明白だった。
それはずっと隠されてきた咲江の本性に触れ、康子は足が竦んだ。
このままじゃいけない。
康子はすぐに仙台で弁護士をしている母方の伯父、桜井真人に相談した。そして、真人の進めに従い、急ぎ家を出ることを決めた。
もう二度とここに帰ることはないだろう。
康子は咲江たちが外出している隙を見て、置手紙をして東京に戻った。そして、真人を通じて遺産の一部を父に譲ることを伝えた。遺産全てを渡すことも考えたが、それは圭一郎の意思に反することになるのではないかと真人にいさめられたからだ。それに信夫に渡すということは、そのまま咲江がその金を手にすることになることが考えられる。少しずつ渡すほうが信夫にとってプラスになるのではないかとの考えからだった。咲江がこれで満足するかどうかはわからないが、父に対する義理を果たすことにはなるだろう。
その後、康子は大学を卒業後、東京の電気メーカーに就職した。
あれから7年、一度も家へは帰っていない。