「虎よ!! 虎よ!!」
~~~~~柿崎市子~~~~~
あいつが初めて道場へ来た日のことを覚えている。
道着が大きすぎて、体に合ってなかった。
帯の巻き方がどうしてもわからなくて、周りの大人に締めてもらっていた。
だけど強かった。
同世代を圧倒した。年上連中も敵じゃなかった。
無敵の象徴だった。
あの日からずっと、あいつの背中を追っていた──。
~~六道会本部道場~~
夜になり、しんと静まり返った道場の中央に、ふたりの人物がいる。
ひとりはイッチーだ。六道会の刺繍が施された道着に着替え、こきこきと首を鳴らしながら、油断なく対面の人物の様子を窺っている。
「前々からうさんくせえやつだとは思ってたが、コルムとかいうやつの正体が、まーさか、おまえだったとはな。ああ? 小巻よ――」
イッチーの前に立つのは、同じく道着を着た小巻だ。すでに現役を退いている彼女は当然道着など持っているわけもない。女子部のものを勝手に借りたのだ。
「そりゃむかつきもするわけだ。馬が合わねえわけだ。なあ──」
すぐにも挑みかかろうとするイッチーを、小巻は「す……」と手で制してきた。
「こっちにはいろいろ下準備ってものがあんだからさ。ちょっと待ってなさいよ」
「……ああ? なんだってんだ。道着は着てんだろ。準備運動なんて眠たいことは言わねえよな? それとも防具か? 拳サポやメンホウがないと不安か?」
煽るが。
「ふざけんなっての。あたしらはいつだって、素手素面でやって来たでしょ。心構えの問題よ。礼式の問題」
「神前に礼ー!!」
小巻が張り上げた声が、広い道場に反響する。
「ちぇ」
舌打ちするイッチーの目の前で小巻は正座し、神前に礼をする。
「互いに礼ー!!」
しかたなくイッチーもそれに倣い、互いに礼するところまで真似る。
いざ――と立ち上がり、身構えたところで、またも小巻が水を差した。
「あーもう!! なんだってんだよ!? さっきからよお!!」
焦れたイッチーが声を荒げると、小巻は落ち着いた声で宣言した。
「――最初に言っておくわ。勝ち負けにこだわらず、あたしは幸助に告白する」
「はああ!? だったらなんで勝負しようってんだよ!!」
「けじめよ」
「だから意味がわかんねーよ!!」
「──あたしは別に、強くなりたかったわけじゃない」
静かに静かに、澄み渡った湖面のような平静さで、小巻は告げる。
「幸助が好きだった。幸助に見てもらいたいから、より目立つことをしようと思ってた。勉強も、駆けっ子も、野球だってバスケだってなんでも出来た。なにをやったって一番になれた。敵になるやつはいなかった」
「……嫌味かよ」
「そうとってくれてかまわない。実際、空手でなくてもなんでもよかった。目的が大事なのであって、手段なんかどうでもよかった。その時のあたしには……」
小巻は続ける。
「……だけど、いくら頑張っても、幸助はこっちを向いてくれなかった。ずっとずっと、病床の摩耶ちゃんのことを見てた」
「摩耶……マヤのことか?」
「そう。幸助は摩耶ちゃんのことを気にするあまり、自分の体も、周りのこともわからなくなってた。ご飯もろくに喉を通らなくて、見る見る頬がこけていった。本人が病人みたいに見えた。誰とも遊ばないから友達もいなくなった。だけど何を言っても聞いてくれなかった。最終的にはあたしがキレてケンカして、面と向かって話すことすらできなくなった」
「……せめてゲームの中で親友になろうって?」
「子供だったからね。バカだったから、それぐらいしか思いつかなかった。いまだったら他の方法をいくつも考えつくけど……」
懐かしい痛みを噛みしめるようにしながら、小巻は笑う。
「もうやめたの。あたしは生身で戦う。見てもらうんじゃない。直接あいつの目の前に立つ。目を閉じてたら、こじ開けてでも見せつける──」
ドン。
床を強く踏みつけた。
「……あんたには迷惑をかけた。無駄にあたしの後を追わせた。そのけじめをつけにきたのよ」
「ああ? ったくめんどくせーやつだなあ……」
イッチーもまた、床を強く踏みつけた。
「ビビってんならそう言えよ。負けた時の言い訳なんか、見苦しいだけだぜ?」
「あっはっはっ。そうね、あんたはそうでなくっちゃ」
小巻は快活に笑うと体を沈めた。全身をばねのように撓ませた。
──すっと目が細くなり、眼光が鋭くなる。
獲物に飛びかかる前の肉食獣の迫力だ。
ビリビリビリ……!!
イッチーの全身を電流が走り抜ける。
現役を退いて久しいとは思えないプレッシャーだ。
──ああそうだ……こいつだ……!!
ひとりごちる。
「これが、オレの求めてたもんだ……」
絶対的な強者が、倒さなければならぬ宿敵が前にいる。
足が震える。手が震える。総毛立つ。
武者震いをこらえながら、ただまっすぐ前を見る。
「――かかってこい」「行くわよ――」
ダァン!!
強い踏み込みが床を鳴らす。
先手をとったのは小巻だった。
先手をとる。そのまま攻め切る。
迷いのない、鋭い追い突き。
「――!!」
かろうじて躱した。
大きく横へ跳んだ。
頬のすぐ横を、一陣の風が走り抜けた。
ダン!!
響いた音は小巻が床を蹴る音だ。
「逃がすわけないでしょ!!」
鋭角にターンするなり、吸いつくように追ってきた。
「……ちっ!!」
距離をとりたいイッチーは後退するが、当然後退よりも前進のほうが速い。なんなく追いつかれた。
間合いに入るなり、腹を刺し貫くような、深い前蹴りが伸びてくる。
ぎりぎりで横に避けると、避けたほうに回り込むような廻し打ち(フックに似た打撃)が脇腹に飛んできた。
肘で受けると、逆側の胴にもう一発が飛んできた――と思いきや、それは顔面へのバラ打ち(指の背を使った目つぶし)に変化した。
「――!?」
かろうじて頭を倒した。
目元には当たらなかったが、頬に当たった。
ダメージこそないが、頬を打たれて涙が出た。
このままでは一気に呑まれると判断して、両手で小巻を突き離した。
あくまで攻めてこようとするのを前蹴りでけん制し、後ろ回し蹴りでさらに追いやった。
後ろ足に体重が乗っているせいで、てんで威力のない蹴りになったが仕方なかった。
なりふり構わず距離を稼いだ。
「はーっ。はーっ。はーっ……!!」
大して動いていないのに、プレッシャーに押されて息が上がる。
「……ふん」
イッチーの必死を見透かした小巻は、余裕を見せて左右にステップを踏んでいる。
呼吸が整わないうちに攻めればいいのに、あえて攻めて来ない。
「な……めやがってぇ……!!」
見下された。舐められた。
イッチーはかっと熱くなった。
──熱くなるんじゃねえ。怒りも熱も、腹に落とすんだよぅ。
師匠の教えが頭の中にこだまする。
はっと我に返ると、イッチーは息吹で呼吸を整えた。
空手に伝わる独特の呼吸法である。乱れた精神を沈め、呼吸を整える効果がある。
普通なら実戦の最中にできるものではないが、小巻が油断しきっている今ならできる。
「──コオオォッ!!」
丹田に意識を集中し、限界まで息を吐ききることによって、強制的に呼吸を整えた。
――落ち着け。オレには見える。見えるはずだ。
自分に言い聞かせた。
いままでの練習を信じろ。
師匠の教えを信じろ。
「……もういいの?」
意地悪くたしかめると、小巻が攻撃を再開した。
またも追い突き。
(今度は見える……!!)
イッチーは後ろ足を引いて回転した。小巻の拳の勢いに逆らわず、水に流れるようにいなした。
FLCでいうなら流水の動き。
「……やるじゃない!!」
だがゲームとは違う。リアルの小巻は崩れない。
もともと攻めの強い人間だ。
いなされても体は流れず、細かなステップを刻んでさらに攻めに出てくる。
1発、2発と突きを打ちながら前に出てくる。
イッチーは1発目を躱し、2発目に掛け受けで対応した――掛け受けとは、相手の攻撃を手で受け、弾き、あるいは掴み、思い通りにコントロールする技法である。相手を死に体にしてから様々な追撃を加える理合いで、打つ投げる、いずれにも変化出来る。
FLCでいうなら交叉と流水の合わせ技だ。
イッチーは小巻の左拳を外側に弾き、ほぼ同じタイミングで、空いた胴へ左逆突きを見舞った。
「ぐっ……」
小巻はすんでのところで受け止めた。
といって、十分な受けの姿勢がとれたわけじゃない。ただ掌を差し入れただけだ。肉と骨をクッションにしただけだ。
ぐぅん!! 腰を入れ、そのまま拳を強く押し込むと、小巻の体はあっさりと後ろへ飛んだ。
バランスを崩した小巻はみっともなくたたらを踏んだ。
ド、ド、ド……ダァン!!
勢いがなかなか止まらず、道場の壁を背にしてようやく止まった。
「……!!」
呆然と掌を見下ろした。
遠目に見てもわかる。びりびりと震えている。
受けきれなかった衝撃が、体全体に浸透しているのだ。
──体重の違い。受けの未熟。イッチーの成長。
一連の攻防の意味に、たぶん小巻は気づいている。
「……いまのでわかった。もうおまえは敵じゃねえ」
「はあ!? 一発だけでしょ!? 寝言は寝てから言いなさいよ!!」
かっとなった小巻の攻撃は、さらに激しさを増した。
鋭い追い突き。廻し打ち。裏拳打ち。
伝統派の試合では見られない下段への回し蹴り。中段から上段へ変化するブラジリアンキック。
フェイントも多彩で、いろんな角度から攻撃が飛んでくる。踵落としがきたときにはびっくりした。
無尽蔵とも思える体力。裂帛の気合。
とてもブランクのある人間とは思えない攻撃だった。
このまま大会に出たって、イッチーと優勝争いをするぐらいまではいくだろうと思えた。
――だけど、そこまでだ。
すべて見える。躱せる。
小巻の掛け蹴り(踵を使って内から蹴る回し蹴り)を余裕をもって捌きながら、イッチーはひとりごちる。
攻めるだけだったら誰でも出来る。
実際、運動神経と体力抜群の素人に経験者が負ける例なんていくらでもある。
だが防御だけは、練習しなければ身につかない。
空手の素人と玄人の違いは、なんといっても防御力だ。
熟達すればするほどに防御が上手くなる。運足、間合い、立ち回りに差が出る。
同じレベルの攻撃力があるなら、あとは防御力で勝敗は決する。
センスの塊のような小巻だが、練習もしてない組手もしてないでは、さすがにイッチーに及ばない。
現役の人間でない以上、しかたのないことだ。
「……人間を相手にしてなきゃ、覚えらんないことなんだよ」
「はあ? なに言ってんの!?」
「師匠が言ってた。人間を相手にしなきゃ、絶対強くなれないって」
「はあ!? 師匠は型がすべての人じゃない!! 型のどこが人間を相手にしてるってのよ!! クーシャンク―だのナイファンチだの!! あれのどこに現実味があるのよ!! 実際の相手は、あんな風に綺麗に攻めては来ないのよ!!」
型というのは空手の基本練習のひとつで、実際に相手がいることを想定して行う。ボクシングでいうならシャドーボクシングのようなものだ。
シャドーボクシングと違うのは手順があらかじめ決まっていること。始めも終わりも明らかになっていること。
故に、実戦には役に立たない舞踊だと揶揄されることが多い。
まがい物だと、小巻は昔からバカにしていた。
「――型ってのはなあ!!」
この戦いが始まって以来、イッチーは初めて激した。鋭く叫んだ。
「人間を相手にしてきた記憶だ!! いろんな状況で、いろんな人間や、武器を相手にして戦って来た先人の記憶だ!!」
礼に始まり、姿勢を重視し、四方から襲い来る相手を想定し、正確な動作で足を運び、受け、打つ。心身を調和させ、常に平常心にて戦うことを教え鍛える。偉大なる先人が培ってきたシステム。
伸び悩み、行き詰まっていたイッチーに道を指し示してくれたのが師匠だ。
――人を相手にすることだぁよ。空気を相手にするんじゃねぇ。
最初は理解出来なかった。
頭の回転には自信がない。
だから、愚直に愚鈍に繰り返した。
それしかなかった。
その意味がようやく理解出来たのは、皮肉にもゲームの中だった。
FLCに登場するモンスターたちの多彩な攻撃。
剣に斧に爪に牙――。
人に見立ててこれらを躱し、捌くうちに、イッチーは気づいた。
型の技のどれひとつとして、孤立しているものはない。
動きながら受け、受けながら打ち、打ちながら捌く。
動いてから受けるのでなく、受けてから打つのでなく、打ってから捌くのでもない。
寸毫の間もなく、それらはすべて同時に行われなければならない。
1拍子。あるいはそうと気づいた瞬間には決まっている無拍子。
型の中に組み込まれたそれらが、いつの間にか身についていた。
何百回となく戦う中で染みこんだ。
「──だったら、型の成果を見せてみなさいよ!!」
叫ぶと同時に、小巻が突っ込んできた。
左の追い突き。
小巻のもっとも得意とする技。
幾多の難敵を葬り去ってきた伝家の宝刀。
――これに、イッチーは相突きを合わせた。
相突きとは、相手の突きの起こりに合わせてわずかに先に前に出て、こちらの突きを先に当てる――ようはカウンターのことだ。相手の拳を弾いたり、体で流すなどの高度な技術と勇気の必要な技だ。そして同時に、限りない反復練習を必要とする技でもある。
毎日毎日練習していた。静まり返った道場で、毎夜毎夜、相突きの形を体に染み込ませた。
仮想敵は、もちろん小巻──。
考える間もない。気がついたら動いていた。
膝から力を抜いて、全体重を前に倒しながら移動した。
体全体で突くような、腰の入った右拳が小巻の左拳を弾いて、そのまま胴体に吸い込まれた。
――バチィッ!!
すさまじい音は、拳を弾いた音だ。
――……当てすぎたら……いかん。引かねえと……殺しちまう。
拳が胴に触れる寸前、師匠の言葉がイッチーの脳裏をよぎった。
皮一枚のところで、イッチーは拳を引いた。
だが一度ついた勢いは止まらない。結果的に体当たりするような形になった。
体重も軽く、拳を弾かれ体勢の崩れている小巻のほうが吹っ飛ばされた。
小巻は床の上をごろごろと転がり、壁にぶつかってようやく止まった。
「ああう……っぐうっ!!」
衝突の衝撃はすさまじく、顔をしかめ、苦悶の呻きを上げている。
「──決着……つけたぞ?」
イッチーは残心を崩さず拳を腰だめにしたまま、小巻を見下ろした。
小巻は壁を支えにして起き上がろうとしたが出来なかった。尻もちをついて悔しげにイッチーを見上げる。
強く強くにらみつけ……そして唐突に、表情を和らげた。
「……あーあ。負けちゃった……」
大きく息を吐く小巻の襟首を掴むと、イッチーは猫を持ち上げるみたいにひょいと持ち上げて立たせた。
「おいおい、寝てる場合じゃねえだろ」
「――は、え、なに?」
もうそっとしといてよ、という表情の小巻。
壁を支えにして、ふらふらと体勢を保持する。
「告白しにいくんだろ? いまから」
「はあ!? いまから!? ば……あんたバカじゃないの!?」
「なんでだよ。そういう流れだっただろうが」
「そ、そういうのはさ、状況とかタイミングをわきまえないとさ……!! いまはその……」
汗臭いし……と乙女のようなことを言い出した小巻を、イッチーは「……うっざ」と容赦なく足蹴にした。
「ちょ……あんたなに蹴ってんのよ!? 殺すわよ!?」
再び倒れ込みながら、抗議の声を上げる。
「おっまえ……!! あんな威勢のいいこと言っといていまさらびびってるんじゃねえよ!!」
「そりゃびびりもするわよ!! あたしにとっちゃ人生の一大事なんだから!!」
「人生の一大事ぃ!? 大げさすぎんだよ!! たいしたことねえだろハチコーに告るぐらい!!」
「それによってあたしの今後の人生設計が変わってくるのよ!! 必死になるのも当然でしょ!?」
「あ? え? 人生設計? ……おまえ、何考えてんの?」
「進学とか就職とか結婚とかいろいろあるでしょ!? 将来はどこに住もうとか子供が何人欲しいとか考えるじゃない!!」
「いや、普通そこまで考えないだろ、中学生のくせに。つかおまえ、ガチすぎて気持ち悪いんだけど……」
「うっさいバカ!! 気持ち悪くない!! とにかくあたしにとってはそれほど大事なことなの!!」
ドン引きするイッチーと、ぎゃあぎゃあ騒ぐ小巻。
イッチーはぼりぼりと頭をかくと、めんどくさそうにため息をついた。
「しゃーねえ……協力してやるか……」




