「先生!!」
~~~当麻加奈子~~~
登校したくないとごねると、お鷹さんはいち早く気を回して学校に欠席の旨を連絡してくれた。
子供の頃からの付き合いだけあって、本当に加奈子の状態を察するのが上手い。普段は厳しい人だけど、ここぞという時は、何を置いても守ってくれる。
きちんと毎日登校すべき?
社会人としての責務を自覚しろ?
そんなことはどうでもよかった。大げさな話だが、人生すらもどうでもいい。
だって、何をやっても上手くいかないのだ。あんなに頑張ったのに、みんなみんな、自分勝手に好き放題にするばかりなんだ。
明け方にふて寝始めて、昼頃に目が覚めた。とくにすることもないので、暗闇の中、ベッドの上でごろごろしていた。
睡眠にはストレス解消の効果があると何かでやっていたが、たぶんあれは嘘だ。寝ても覚めても、依然として加奈子のストレスは解消されていない。重いしこりとなって全身にこびりついて、立ち上がる気力すら湧いてこない。どうでもいいはずの俗世のしがらみが、鎖のようにまとわりついて離れない。
コツン……コツン……
ノッカーの音が聞こえる。
一瞬お鷹さんかと思ったが違った。この控え目な叩き方は、明らかに慣れていない者の叩き方だ。お鷹さんなら、もっとゴンゴンと容赦なく叩く。
ドアに近づくと、聞きなれた声が聞こえてきた。
「……先生。蜂屋です。涙も一緒です」
「――!?」
驚いた。ふたりが来たことにも。お鷹さんが通したことにも。昔から、加奈子が籠った時には誰も通したことがなかったのに。自分を守ってくれたのに。
「……っ」
そこはかとない悲しみが胸に迫る。また泣いてしまいそうになって、それは悔しいのでぐっと堪えた。
「先生、武田です。突然お邪魔してごめんなさい。わたしたち、先生が心配で……」
涙の声がする。放課後に、ふたり揃って見舞いに来たというわけか。
――情っさけない話。
自嘲しながら様々な言い訳を考えたが、考えているうちにバカらしくなったのでやめた。
「風邪をひいちゃっててね。頭が痛いの。咳も出るから、ふたりとも帰ったほうがいいわ。ごほごほ……」
あからさまに怪しい咳をする。
「おいちょっと露骨すぎるでしょ!! こっちはあんたが仮病使ってんの知ってんだから、とっとと出てこいよ!!」
配膳用のドアを開けたのだろう、廊下からの光りが部屋に射し込み、声がクリアに聞こえてくる。
「ちょっと、勝手にレディの部屋を開けないでよ!! セクハラよ!?」
「普通のレディは引きこもり用のドアなんか部屋に付けてないんですよ!!」
「お城に囚われたお姫様みたいなもんよ!!」
「3食昼寝付きで自由もあるお姫様を、囚われの、とは言わねえよ!!」
「ああ言えばこう言うわね!!」
「あんたがわがまましか言わねえからだよ!! いいからとっとと出て来いよ!!」
「イヤよ!! あと3ヶ月は外に出ないわ!!」
「夏が終わるじゃねえか!! ……いや、それが狙いか!?」
「暑いのやだもん!! 外出て汗かくのはもううんざり!! 今年の夏は、冷房の効いた部屋で涼しく過ごすの!!」
「開き直りやがったな!?」
「――ああもう!! うっさい!!」
~~~武田涙~~~
バカン、大きな音を立てて扉が開いた。険しい表情の加奈子が立っていた。
寝乱れたネグリジェに肌掛け、ぼさぼさの髪、目の周りには赤く泣き腫らした跡がある。
「なんだってのよさっきから!!」
「ほらやっぱり!! 全然元気じゃん!!」
「当たり前でしょ!! 仮病だもん!!」
「ちょ……おい!! 開き直りすぎでしょ!? 生徒の前だよ!? もっと隠して!! オブラートに包んで!!」
「生徒なんかどうでもいいのよ!! 私だけが大事なオンリーワンなのよ!!」
「それ絶対用法間違ってるから!! そんな俺様な曲、誰も聴いてくれないから!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐふたり。
「……で、なんの用よ」
騒ぎ疲れ、ふて腐れて腕組みする加奈子。
「わざわざ説明する必要があるか?」
蜂屋は腰に手を当て、責めるような目つきになる。
「……何のことかしら?」
加奈子はぷいとそっぽを向いた。
「逃げんなよって言いに来たんだ」
「はあ――!?」
挑発的な物言いに激昂しかけた加奈子は、しかし蜂屋の真剣な表情に口を閉ざした。
「知らねえとは言わせねえぞ? 『縁』のあるあんたの弟子たちが、あれじゃまるっきり救われねえじゃねえか。せめてログインしてやれよ。あの感じだと、リトライできそうじゃねえか。俺たちも協力するから、今度こそ、あの変なモンスターを倒せばいいじゃねえか」
「そんなの――」
何かを言いかけてやめる、ということを何度か繰り返した後、加奈子は観念したように目を閉じた。
「……もう、嫌なのよ」
「……何が」
「全部よ。もともと教師なんてただの腰かけだし。生徒なんて、どいつもこいつもバカばっかだし。愛情なんて、これっぽっちも抱いてないし」
「リアルのことを言ってるんじゃ……」
「……同じだもん」
唇を噛んでうつむく。
「みんな、誤解してるだけなの。勘違いしてるだけなの。子供たちに憧れられる立派な教師を目指してたのは、自分が好かれたかったからなの。自分が愛されたかったからなの。そこには本物なんて何一つなかったんだから……」
加奈子の声は、徐々に徐々に小さくなる。掠れるように、空気中に溶けていく。
「……なのに、なんであいつら、あんなに私のこと信じられるのよ。私なんかの弟子でいられるのよ。私はこんななのに。こんなちょっとしたことで、些細なことで、逃げるような人間なのに……」
涙は思い出していた。さきほどお鷹さんに聞かされた加奈子の過去。意欲に溢れていた新任時代のこと。生徒に愛されていた時のこと。それが過ぎて、ひとりの女生徒を自殺未遂にまで追い込んでしまった時のこと。
加奈子の中で、過去の出来事と現在の状況が錯綜している。リアルとゲームが混ぜこぜになっている。他人には違うように見えるが、彼女にとっては同じなのだ。蔑ろにできない、不可分な問題なのだ。
「……だってさあ。可愛かったんだもん。先生先生って、懐いてくるんだもん。特別扱いがダメなのは知ってるわよ。でも、ちょっとは仲良くしちゃうじゃない。声だって他の生徒より多くかけるし、プライベートのアドレスだって教えるし、個人的に家に招待したり、一緒に遊びに行ったりすることだってあるじゃない。知ってるわよ。知ってたのよ。ダメだって。でも――」
――なんだって、あんなことになってしまうのか。
――なんだって、こんなことになってしまうのか。
「――なあ先生」
蜂屋のぶっきらぼうな物言いは、ちょっと聞いただけでは冷たいようにも聞こえるが、実は優しさの裏返しなのだと涙は思う。
「俺は、あんたの昔のことは知らねえよ。聞いたこともねえし、これからも聞かねえ。そのことであんたが自分を責めるのは勝手だ。誰にも咎めることはできねえ」
お鷹さんから聞いたことにはあえて触れない。
ただまっすぐに、言葉を重ねる。
「今は今だ。あんたは先生で、3人の生徒がいる。そいつらが今どんな目に遭ってるか、俺に教えてくれよ。あんたっていう師匠に見捨てられて、『殺されたままの』弟子のことを聞かせてくれよ」
「――っ!?」
加奈子ははっとして顔を上げる。
「俺は不器用だからさ。涙みたいに優しいことは言えねえんだ。あんたが今しなくちゃいけないことを、率直に言うだけだ。――あんたは生徒を裏切ってる」
積み重ねられる言葉の前に、呆然とする加奈子。
「あんたはこう思っているのかもしれない。自分がいなけりゃ、あれ以上ひどくならない。たしかにそれは、一面では正しい。――だけど考えてもみろよ。絆が壊れたままの3人が陥ってる状況を。……あいつらは保持者だ。NPCの一言で片づけちまうには、会話がスムーズ過ぎたろ? 表情が豊か過ぎたろ? あんたがそうさせちまったんだ。あんたが動かないなら、あいつらは、『あの』3人組は、これからもずっと、自我を持ったまま、前へも後ろへも行けないまま、救われないままに生きていくことになる。『他の』3人組みたいな幸せな日常は、あいつらにはもう、訪れないんだ」
「なによそれ……。なんなのよ……」
蜂屋の腕を離した加奈子がふらりとよろめく。
涙の理解するところによるなら、並行世界なのだ。あの日、あの時、3人組の世界は分岐した。平和な日常と、そうでない日常とに分かたれた。『縁』を持つ彼女がいなければ、その世界には誰も干渉できない。終わることのない悲劇があるのみだ。
「ルルやラクシルと同じように、あいつらはもう、そうやって生きていくしかねえんだ。望むと望まざるとに関わらず。――救われるならいいぜ? ……でも、救われねえんだったら、そいつはただの地獄じゃねえかよ……」
蜂屋は辛そうな顔で、加奈子の反応を窺っている。憎まれ役を買って出て、辛辣な発破をかけて、自分の心を切り刻みながら、立ち尽くしている。
こみ上げる衝動を抑えながら、涙は蜂屋の隣に並んだ。
――わたしも、がんばらなきゃ。
「先生。聞いて」
壁に背をもたせている加奈子に声をかける。こちらを向いたその瞳は、普段では考えられないほどに弱々しい。
「わたし、先生に助けられたの」
「……? ……私はなにも……」
ううん、涙は首を横に振る。
「先生は知らないかもしれない。でも助けられたの。幸助くんたちと引き合わせてくれて、FLCを紹介してくれて、わたしの生活は変わったの。毎日が変化の連続で、楽しいことや驚きに囲まれて、頭がくらくらするくらい。本の外の世界にこんなにも楽しいことが待ち受けているなんて知らなかった。出てよかった。先生の言う通り、思い切ってよかった」
「私は別に……自分さえ……」
「傍から見れば、小さな変化かもしれない。でも、わたしには大きな変化だった。ちょっとだけ、すこしだけ、わたしは変わった。変わることができた。自分で一歩踏み出すことが大事だって、そう思えた。先生には、良い方向に人を変える力があるの」
「……っ」
加奈子の瞳がぐらりと揺れる。
もう少し、あとひと押しだ。
加奈子の心に届くかもしれない言葉を、涙は自分の中に探した。
涙の心象世界は、書庫に似ている。林立する本棚に、書物の形でさまざまな記憶が綴じ込まれている。「小学3年生・遠足」とか、「10歳の誕生日」とか、背表紙にそれぞれタイトルが記されている。
だけど本の世界に閉じこもり、他人と関わるのを避けていた涙には、驚くほど対人関係の記憶が少ない。ほとんどは家族関係と、思い出したくもないいじめの記憶だ。必然、出来ることは少ない。
(……あった。ひとつだけ……)
色違いの本棚に作られた特設コーナー。そこにあるのは、涙が一番大切にしていた想いだ。
でも、場所が場所だ。面子が面子だ。ここで口にするのは躊躇われる。
「……?」
顔を赤くして蜂屋のほうを窺うと、不思議そうな顔をしていた。
それはそうだろうなと、涙は思った。
自分の考えていることなんて、想像できるはずがない。
こんな自分が抱いている、大それた想いなど――。
「先生、わたしね――」
ぶるりと震える足を叱咤する。
頑張れ。勇気を出せ。
わたしの中に、先生を動かすことのできる何かがあるとするなら、これしかないんだ――。
「――好きな人がいるの」
ぽつりと、涙は告げた。
隣の蜂屋が、ぎょっとしたような顔になる。
「……前から好きだったの。ずっとずっと、好きだったの。自分よりも先に他人のことを考えてあげられる、優しい人……。でも、告白する勇気はなくて、遠くから見ていることしかできなかった。たぶん、これからもそうなんだろうなと思ってた。心のどこかで諦めてた。……でも決めた。もううじうじするのはやめにするの。このことが終わったら、わたし――その人に告白します」
「武田さん……?」
加奈子はぽかんとした顔をしている。
その手をとり、頬を寄せた。
「……その勇気をくれたのは、先生なんですよ?」




