剣と僕と
「ご主人様ぁ――。どちらにいかれたのですかぁ――!?」
侍女のルクスの焦ったような声が少し離れたところで聞こえる。
……ごめん、ルクス。だけどこれは、誰にも僕だと気付かれないうちにやらなきゃいけないことなんだ。僕には、もうこれしか方法は残されていないから。
人ごみをすり抜けながら、僕は大通りの中央にある王者の台座に向かう。
大理石を無骨に切り出してきたような台座と、あくまで簡素な台飾りしかついていないそれは、長い時をほとんど野ざらしで過ごしてきた。国宝指定されているはずのそれが、王宮の宝物庫に入れられていないのは、単純に台座から剣を抜けるものがいなかったからだ。
扱うことこそできないものの、盗まれる可能性が限りなく低く、古の技術によって錆びることもないそれは観光材料に最適であり、厳重に保管して腐らせておくよりは、誰でも触れることの出来る伝説として王国の威容を示した方が良いという判断が大昔にされたらしい。
以来その剣は「抜くことが出来たものは世界を統べる」という伝説とともに街の人に愛され、多くの腕自慢が自らの内に眠る無限の可能性に賭けて剣の柄に手をかけてきた。
……抜けなかったらどうしよう。
不安が募る。というよりむしろ抜けない可能性の方が圧倒的に高い。
だけど、それでもとも思う。
僕こと、ユハ・アングル・ラサネンはいわゆる没落貴族だ。
地の国ブラハムを治める王は代々、王族の中で最も優れたものがならねばならぬという伝統がある。
字面だけを見れば当然かと思うかも知れないが、それはつまり自分以外のすべての後継者候補を屈服させるか殺すかするということである。そして僕の父上は当時の第二皇女側の筆頭に立って後継者闘争に臨み、現王に敗れた。
自らに敵対した貴族を罰しない王はいない。当然のことながら父は処刑され、母も後を追って殉じた。おまけに家は領地ごと没収。今までの功績から貴族としてなけなしの俸給こそ約束されたものの、このままでは遠からず僕の家が完全に滅びるのは目に見えている。
僕は父にも王にも恨みはない。お互いに命を賭け、戦い、そして得た結果だ。
貴族として、いや人としてそれは納得できる。
だけど、このまま誰にも知られず朽ちてゆくだけの運命というのは、僕にはまだどうしても受け入れられなかった。
人ごみを掻き分けながら目的地にたどり着く。
貴族が王者の台座に挑むというのは実は禁忌だ。
言わずもがな、「世界を総べるものの剣を欲する」ということは「自らこそ王たらん」という意志の表れであり、それゆえ王に弓引くという意味合いに取られる。
まして没落貴族である僕のような存在が、剣の柄に手をかけようものなら、処分に都合のよい口実を与えてしまうだけである。
深呼吸を何度もしながら、フードをより深く被りなおす。
顔を見られたら、あるいは剣を抜くことができなかったら……どちらであっても僕の今後の人生はそこで決まる。
ともすればためらってしまうような気持ちを振り払うために、僕は強化魔法を身体中にかけ、思い切り地を蹴った。
翼持たぬ身では空中での方向転換は難しい。故に剣に向かって矢のように飛び出した僕には、もはや剣に正面からぶつかる以外の選択肢はなく。
勢いを付ければある程度は抜けやすくなるんじゃないかという後付の理由を思い浮かべながら、必死に剣に手を伸ばす。
加速した自分に反比例するように、周りの景色がゆっくりと動く。神々しささえ感じさせるような輝きを放つ剣の柄に、手が触れるか否かのその瞬間、僕は確かに剣から霊体のような手が伸び、僕の手を握り返すのを見た。
つまるところ、この時、大陸全土の運命の賽が投げられたのだ。
――はぁはぁ。
思わず駆け込んだ路地で、僕は自分の右手の甲を見た。
どういう原理だかわからないが、件の霊体に手を引かれ、剣の柄に手をかけた瞬間に剣は霧か霞のごとく消えてしまった。代わりに刺すような痛みが右手に走り、気が付けばこの幾何学模様が右手の甲に表れていたのだ。
はぁ、呼吸は落ち着いてきたが、別の意味で脈拍があがりそうだ。
……抜けちゃったよ。
くらくらしそうな頭をなんとか動かして、次にどうするべきなのか考える。少なくともこの大道り沿いにこのままいるのはまずいに違いない。
後ろではざわざわと、選定の岩のあたりに人ごみができている。
とりあえず家に戻ろう、そこなら少しは落ち着けるだろうと思った。
帰還魔法を同行状態で起動させる。
光の粒子がふわりと舞った次の瞬間には、見なれた我が家の暖炉の前に首を傾げたルクスと共に立っていた。
「ご主人様? いったいどうされたのです? いきなり姿を隠されたと思ったら帰還魔法で帰宅ですか?」
「あー、その、ごめんルクス」
「はい? すみませんご主人様。話が見えないのですが……」
「なんていったらいいのか、ともかく怒らないで聞いてほしいんだけれど、その……」
「はい、大丈夫ですよご主人様。私が怒ったことが一度でもありましたか?」
ずぅんと気が重くなった。はっきりいってルクスはかなり怖いのだ。
「その、まずはこれを見てほしいんだけれど」
すっと、例の右手の模様を見せる。すると、ルクスははぁっと大きなため息をついた。
「……ご主人様は、もっと大人の感性を持っているものと思っていましたが、コレを彫りに行ってらしたのですか。そもそもこういうものは――」
「……残念だけど、これは刺青じゃなくてさ……僕は今日、王剣を抜いた。これは、たぶんその証なんだと思う、んだけど……」
その言葉で、くどくどと善き貴族というものは云々について語っていたルクス動きがぴたりと止まった。
コポコポと一定の音を立てる水式魔法時計の音だけが部屋の中に響く。
「……ご主人様、念の為にもう一度お聞かせ願いたいのですが、今、王剣を抜いた、とおっしゃいましたか?」
「うん」
「……言いたいことと聞きたいことはありますが、まずは街を出ましょう。大荷物はいりません、ギルドカードと今あるお金を全て。それだけ持ったらすぐにここへ戻ってきてください。私も準備しておきますので」
「危ないところだったかも」
ふぅ、と息を吐き、がたがたと揺れる乗り合いの幌馬車から後ろを振り返る。
王都ブラハムの空間結界と、それを維持する大門がもはや小さく見えるような距離になって初めて僕は口を開いた。
なんと早いことか、僕が王剣を抜いてから一時間もしないうちに王都ブラハムの各門には厳戒態勢が引かれ、町から出て行こうとする全てのものに所持品の検査が実地されていた。
辛くも僕たちがその目を逃れられたのは、ルクスの判断で大荷物を持たなかったことで、長期間の留守だと悟られなかったことがまず挙げられる。そして、最大の要因は、守衛たちが探しているのが、「目も眩むほどの威厳に満ちた大剣」であるということである。
無理もない、この街に住む者は誰だって、王剣を目にしている。その威容、その伝説と共に生きてきた僕たちにとって、その形に目が行ってしまうのは仕方のないことである。
そのため、王剣を街の外に出さないための関所でチェックは、一抱えほどの大剣を持った者か、あるいはそれを隠し得る場所がある乗り物に力が入ってしまい、このような乗り合い馬車では、床板と簡単な身分調査で終わらせてしまうのだ。
だが、今でこそ王剣捜索は目につくその形にのみ絞って行われているが、それが効果を発揮しないとなれば、その時間に選定の岩の付近にいたものに聞き込みが行われるに違いない。いや、すでにそれは行われているだろう。そうなったとき、万一誰かが、「実際に王剣が消える瞬間」を見ていたとするならば、王剣は実はマジックアイテムの一種であるという仮説に基づいた検査が実地されるであろうし、そうなれば、僕が剣を隠しきれるという保証はどこにもない。
つまりは今を逃しては、僕がこの街から抜け出すのは不可能だったかもしれないということである。
「ありがとうルクス。君がいてくれて本当に助かった」
「いえ、ご主人様。うまくいってよかったです」
ルクスは元々、なかなか腕のよい冒険者だったらしい。僕より年は3つくらい上なだけだが経験の差なのか、こういう急場では果断なところがあり、つくづく使用人として見つけてきてくれた今は亡き父に感謝するばかりである。
「それで、これからどうしようか」
「はいご主人様。ブラハムは大きな街です。おそらくですが、あと二、三日は情報の収集と街の住人への何らかの発表を行うことに忙殺されるでしょうから、仮に王剣が既に街の中に無いということが分かったとしても、捜索隊の組織にはまだ余裕があると考えられます。それにご主人様の体への影響も気になりますし、このままの装備での遠出も厳しいでしょう。ですから、ここはある程度の安全が保障されている場所で、今後のためにも情報の整理を行うことが必要であるかと」
「なるほど。ルクスにはその心当たりはある?」
「まだご当主様がご存命であった頃に、政争のために準備していらしたセーフハウスがいくつかあります。そのうちの一つに、これから向かうつもりでしたが、問題はございますか?」
「いや、ないよ。それでいこう」
セーフハウス。
そんなものがあったなんて僕は全く知らなかったが、父の側近として働いていたルクスなら当然知っているのだろう。
父上が、僕にはそういう話を一つもしてくれなかったことに関して一抹の寂しさを感じるものの、今さらそれを言うのも詮なきことだ。
そうしていくつかこの後についての打ち合わせをルクスとしていると、不意に馬車が止まり、「ひぃ」という御者の怯え声。そして馬の嘶きが響いた。
ブラハムは強大な王都だが、街の大門を一度跨いで外に出れば、治安が良いとはあまり言えない。
多くの冒険者や商人が行き交う海の国リヴァルコイズや、鬱蒼とした森林が人目をはばかるものに寝床を与える森の国フォレスティアに比べれば犯罪者の数は少ないとはいえ、人跡未踏の砂漠の中には、未だ公式には見つかっていない旧世代の遺跡がいくつも残されており、その中のいくつかは盗掘者や盗賊の隠れ家として使われているというのは、ブラハムに生きるものなら誰でも知っていることだ。
「……ご主人様」
「うん、わかってる。数はわかる?」
「目視ができていないので正確な数はわかりませんが、10人以上という可能性は低いかと」
「わかった。半分受け持つよ」
「いえ、この程度の賊ならば、お手を煩わせるまでもありません。ご主人様は馬車内をお守りください」
言うが早いか、ルクスは幌に向かって右に二本、左に一本の計三本、ナイフを投擲し、同時に一息で御者台に飛び出した。
ざわめく車内。僕も与えられた役割を果たすとしよう。
「落ち着け!! 私はラサネン家現当主ユハ・アングル・ラサネンである。そして、今御者台に出て行ったのは、A級冒険者のルクス・ルル・クスハだ。現在この馬車は何者かの襲撃を受けている。しかし安心してほしい。王と我が臣民に仇なすものに我らは正義の鉄槌を下すだろう」
可能な限り威厳を滲ませ、僕はそう言い放った。没落家だろうが、冷や飯食いだろうが、家から一歩でも外に出れば僕は貴族である。貴族には貴族たる役目があるのだ。
おおっ……と他の乗客から感嘆と安心のため息が漏れる。
僕はその一人ひとりをなるべくゆっくりと、自信に満ちた表情で見返す。
……僕たち以外の乗客は4人、か。それすらも知らなかったなんて、僕は実感以上に動揺していたらしい。
「貴族様ぁ」
いきなり乗客のうちの一人がそういって、僕に抱き着いてきた。声からして、若い……女だろうか?
いきなりのことに驚いて、体を強張らせた瞬間、左の足の太ももに強烈な熱を感じ、がくりと力が抜けた。
「えっ?」
いったい何が? と頭の中に疑問符が踊り廻るなか、左太ももの熱はますます温度を上げ、それが痛みだと気が付いたとき、初めて僕は目の前の女に刺されたのだということに気が付いた。
女はそのままするりと体勢をいれかえ、左腕で僕の首をおさえ、右手には血の滴る太めの短剣を目の前に掲げながら、僕を後ろから羽交い絞めにした時に僕のフードがぱさりとめくれた。
「なんだよ、ずいぶん華奢な貴族様だと思ってたら、女かよ。こりゃラッキー、同乗者にA級冒険者なんて化け物がいた時には目の前がクラっとなったけど、つがいで来てたのが屈強な野郎じゃなくてこんな別嬪さんだったとはね」
「……あなたも賊の仲間?」
「あぁ? ああ、そうだよ。おら、聞こえてんだろ、外の冒険者様よぉ。あんたのご主人様がこれ以上傷モノにされたくなけりゃこっちに降りてきな!!」
油断なく気を張り、僕の首筋に短剣の刃を当てながら、女はそう言い放った。
短剣から垂れてきた冷えた血が首筋にあたる。知らず、背筋がゾッとするのを感じた。
情けないことに、僕の体は神経こそ固く強張っているものの、筋肉は完全に弛緩してしまっていてまるで力が入らない。
……そういう種類の毒だろうか? あるいは僕の怯懦がそうさせているのだろうか。
それを知る術は今はない。しかしながら、父上と母上が死んだときから感じ続けていた無力感が再び僕を苛む。
剣を手に入れたのに……!! 変わるために手に入れたはずの運命が、変われないという現実を僕に突き付けてくる。
……ごめんなさい。
誰にも聞こえないような小さな声で呟いて、私は気を失った。