番外編~雪村瞳子の場合
瞳子さん視点です。
本編から半年後の朝倉君とメイちゃん出てきます。
「それじゃ、雪村チーフ。お先に失礼します」
「お疲れっ! 気をつけて帰ってね」
私は退社する後輩に声をかけながらも、デザイン画を描く手を止めなかった。
今日は朝から【アンジェリア】の新作の為の撮影が入っていたので、私は現場に立ち会っていた。その為、期日間近のデザイン画が進んでいなかった。
撮影はモデルである【ブラン】の唯香、【ルージュ】のメイちゃんも朝早くから現場に入ってくれて、とても順調に進んで行くはず……と思ってたのに。
「はぁーっ」
私はその時の事を思い出し、ため息をついた。
「ゆ、雪村さん……ち、ちょっと来てもらえますか?」
メイク担当の石原ちゃんが困った様な顔で、撮影現場にいた私をそっと呼び出した。
「石原ちゃん? どうかしたの?」
気のせい?……心なしか顔が赤い様な?
石原ちゃんはフリーのメイクアップアーティストで、彼女は私のイメージ通りのメイクをモデルさんに施してくれる。だから私は彼女の腕を信頼して、いつも【アンジェリア】の撮影は彼女にメイクを依頼していた。
その彼女が困惑しているのが珍しくて、私は彼女の顔を見つめた。
「あ、あのですね……すみません、とにかく来ていただけませんか!」
そう言って私をメイちゃんの控室へと連れて行く。
何? メイちゃんがどうかしたの?
「どうぞ、入って下さい」
石原ちゃんに促され、まったく状況が判らないまま私は控室の中へと入って行った。
「え? 雪村さん、どうしたんですか?」
鏡の前に座っていたメイちゃんが、驚いた様に振り向いて私を見た。
どうしたって言われても……私が聞きたいんだけど。
「うん…ちょっとね」
曖昧な返事をしながら、そっと石原ちゃんの方を見る。
すると彼女は視線をメイちゃんの方へと向けた。彼女に気づかれない様に。
その視線の先を追うと、既に鏡の方に向き直ったメイちゃんの後ろ姿があった。
「---何? メイちゃんがどうかしたの? ---」
私がメイちゃんに気づかれない様に小声で、石原ちゃんに訊ねると彼女は声を出さないまま答えた。
---せ・な・か---
彼女の口はそう言っている様に見えた。
背中?
私は再びこちらに背を向けているメイちゃんの背中を見つめる。
そして次の瞬間、思わず目を剥いた。
メイちゃんは今日の撮影用の服を着ていた。それも背中がかなり開いているセクシーなデザインのものを。
そしてその背中には……明らかにそれと判る小さな赤い痕が2つ……
---朝倉っ! 色惚けも大概にしなさいよっ!---
私は後輩であると同時に、メイちゃんの彼氏でもある朝倉大樹を心の中で罵った。
何で撮影があるって知っていながら、キスマークをつけるのよっ。
「あの……雪村さん、どうします? このままじゃ撮影は無理ですよ。コンシーラーを使おうかとも思ったんですが、メイちゃんは気づいてないみたいですし、言って良いものかどうか、私じゃ判断できなくて」
石原ちゃんは今にも泣きそうな顔で私に訴えてきた。
確かにこのままじゃ撮影は無理だわ。
私はメイちゃんの背中のキスマークを見ながら、考え込んだ。
そしてある事を思いついた。
「ねぇ、石原ちゃん! あなた、ボディペインティングは出来る?」
「え? あ、たぶん……材料があれば…」
「ごめん、材料揃えて…経費はうちで落とすから。で、出来ればそうね……真紅の薔薇…描ける?」
私は今日の黒い衣装を見ながら訊ねた。
「大丈夫です。薔薇なら描けます」
石原ちゃんは私が何を考え付いたのか判ったようで、表情を明るくしながら答えた。
「じゃ、お願い! 私は兼島さんに【ブラン】の撮影を先にやってもらう。一旦休憩を挟んで、それから【ルージュ】の撮影よ。そうね…2、3時間で出来る?」
「はい! それじゃ、今から材料を買って来ますね」
石原ちゃんは慌てて控室を出て行った。
私はほっと溜息をつくと、メイちゃんの方へと近づいて行った。
「…メイちゃん」
呼びかけると、彼女はにっこりと微笑んでこちらを見た。
「どうかしたんですか? 石原さん慌てて出て行きましたけど?」
「ん…予定変更。メイちゃん、今日はボディペインティングしても良い?」
「え? ボディペインティングですか?」
いきなりの提案にメイちゃんが戸惑ってるのが判る。
「そう、今日のドレス---背中が露出しすぎてて何か寂しいというか、物足りないのね。それで、背中にタトゥに見立てて薔薇を描きたいんだけど」
出来るだけ自然に聞こえる様に話すと、メイちゃんは考え込んだ表情でしばらく黙っていたけど、笑顔で頷いた。
「いいですね! 私、ボディペインティングってやった事無いんでやってみたいです」
彼女のその言葉を聞き、私はほっと息をついた。
「良かった! それじゃ、石原ちゃんが来るまで、ここで待機しててね」
「はい」
頷く彼女を見て、私はそのまま控室を出た。
そして先程の計画を話すべく、撮影現場へと向かった。
撮影は何とか無事に終わった。
本当に寿命が縮むかと思った。
咄嗟に思いついたボディペインティングは思いの外、周りには好評だった。
石原ちゃんの描いた真紅の薔薇は本当に綺麗で、キスマークがそこにあるなんて誰も気づかなかった。
メイちゃんも初めてのボディペインティングに興味津々で、撮影が終わってから自分の携帯で写真を撮って欲しいと私に頼んできた。
私は彼女の背中に描かれた薔薇を写しながら、彼女には何も言わない事にした。言えば多分彼女は気にするだろうから。
だけど、朝倉君には一言言わないと気が治まらない。それにまた同じ様な事があっても困る。
それで撮影が終わった後に、朝倉君の上司である吉澤君に訊ねた。
「ねぇ、今日、朝倉君はどうしてる?」
「ん? あいつは今日は新しい企画の為に、外回りに出ているはずだけど?」
首を傾げながら吉澤君は私の方を見た。
「そう……それじゃ、帰って来たら私の所に来る様に言ってくれる?」
「いいけど、あいつ何かしたか?」
吉澤君が心配そうに聞くので、思わず私の方が慌てた。
「ううん! そうじゃないの! ただ、ちょっと聞きたい事があって」
「ふーん、まぁいいや。判った、戻ったらお前のとこに行かせるから」
「ありがとう」
まだ納得していない様だったけど、吉澤君はそう答えて撮影現場から出て行った。
しばらくデザインに夢中になっていると、ドアを静かにノックする音がした。
「…はい」
私は顔を上げずに返事をした。するとドアが開き、朝倉君がそっと部屋の中へと入って来た。
「失礼します……あの、吉澤主任に、雪村さんが呼んでるから行けって言われたんですが……」
明らかに何故呼ばれたか判らないといった顔で、彼は私の方を見た。
私はスケッチブックを閉じてテーブルの上に置くと、朝倉君を見上げる形で睨んだ。
「え? っと、あの……」
「どうしても言っておきたい事があって呼んだの……」
自分でも驚くくらい低い声が出た。
朝倉君もいつもの私と態度が違うのを感じたのか、緊張した面持ちになった。
「メイちゃんと昨日か一昨日、会ったわよね?」
「はい。一昨日……それが何か?」
まだ気づかない様子の彼に、私は今日撮影した【ルージュ】の写真を差し出した。
それは真紅の薔薇が綺麗に描かれた背中を、こちらに向けているメイちゃんの写真だった。
「これ…って」
朝倉君は驚いた様にその写真を見ている。
私はそんな彼に一言告げた。
「急遽予定を変更して、石原ちゃんにボディペインティングをして貰ったのよ。結果的に良かったけど……」
そう言って、私は朝倉君を見た。
「ドレスの背中部分が開きすぎで寂しいからが表向きの理由……だけど本当は、誰かさんがメイちゃんの背中に付けた赤い痕を消すための苦肉の策だったのよね」
淡々と告げられた事実に、朝倉君の顔がみるみる真っ赤になっていった。
「……っ、すみません!」
私に向かって深々と頭を下げる彼を見ていたら、段々怒りが収まり可笑しさが込み上げてきた。
普段落ち着いている様に見えるが、彼女であるメイちゃんに関しては余裕が無いみたいで、時々相手のモデルに嫉妬して、牽制する様に睨んでいる時があった。
さすがに朝倉君本人もまずいと思ったのか、自ら【アンジェリア】の担当を外れたいと吉澤君に申し出た。
そして2ヶ月前から彼は別のブランドの担当へと異動となったのだ。
まぁ……ねぇ、メイちゃんも撮影の時に、男性モデルと一緒の時にすごく朝倉君の事を気にしてたから、これはこれで良かったんだろう。
「……もういいわ。今度からは気をつけてね」
私はわざと怒った様な態度で告げた。
「はい……本当に申し訳ありませんでした。今後気をつけます」
朝倉君はそう言ってまた頭を下げた。
「ねぇ…2人が付き合って、半年経ったっけ?」
「え?」
いつもの口調に戻った私に驚いて、彼が顔を上げた。
「あ、はい。先週で半年過ぎました」
「ふぅーん……朝倉君はメイちゃんと結婚は考えてないの?」
「そ、それは……」
私の質問に彼は一瞬、言葉を詰まらせた。
「何? 結婚はするつもりないの?」
「いや、俺は結婚したいですよ、今すぐでも……だけど、さつ…麻生は【ルージュ】の仕事があるし、俺は社会人としてはまだまだ駆け出しですから」
「じゃ、朝倉君は一応結婚は考えてるんだ?」
「はい! 出来れば吉澤主任の様に仕事が出来る男になったら結婚しようかと、今頑張ってるんですが」
「吉澤君?」
何でここで、吉澤君?
「吉澤主任は憧れなんです。あんな風に仕事が出来る様になれば、俺ももう少し自信がつくんですけど」
「朝倉君って……吉澤君に憧れてるの?」
「憧れ……って言うよりも、尊敬してます」
意外な後輩の告白に私は驚いて、言葉が出て来なかった。
「凄いじゃないですか! 入社して4年で主任って。それにいくつもの企画の全てが成果を上げているんですよ? 男なら誰でもあんな風になりたいと思いますよ」
吉澤君、良かったね……後輩にここまで憧れられて。
「だから、俺、主任になれたら……麻生に結婚を申し込もうと、それを目標に頑張ってるんです」
そう言った彼の顔は赤くて、でもその目が真剣だから笑う事は憚られた。
「そっか、なら安心……うん、朝倉君なら頑張ればきっと主任になれるよ」
私が頷くと、朝倉君は嬉しそうにお礼を言った。
「あ、そう言えばこの前から聞きたかったんですが、雪村さんと主任って付き合ってるんですよね?」
「はあっ?」
「え? だってこの前主任、別の企画で一緒になったモデルの子に彼女いるのか聞かれた時、『俺、入社当時から付き合っている女がいる』って言ってたから、てっきり雪村さんのことかと…」
「私じゃないわよ……私達はただの同期入社の飲み仲間ってだけよ」
「そうなんですか? 俺は2人お似合いだと思ってたんですけど」
「残念ながら違います。ごめんね、期待に副えなくて」
朝倉君は小さな声で『いえ、そんな事』と言うと、再び謝ってから部屋を出て行った。
---吉澤君、彼女いたんだ---
先程の朝倉君の言葉を思い出しながら、私は『はぁ』と大きなため息をついた。
私と吉澤君は同期入社で、初めて会ったのは入社式の時だった。
その時隣の席に座っていたのが吉澤君で、不覚にも私は彼を見た瞬間に恋に落ちていた。
だけど私はデザイン部、彼は販売促進部と所属部署も違うから、その後は顔を合わす事もなかった。
そして入社式から3ヶ月後−−−
「え? 飲み会?」
私は驚いて相手の顔を見つめた。
それは同期で営業部に勤務する久保田君で、そんなに話をした事もなかったから、飲み会への誘いにびっくりした。
「あぁ、同期でも部署が違うと中々話が出来ないだろ? だから、時々集まってそれぞれの近況なんてのを話して、お互い励まそうってのが主旨なんだけど」
『どう?』と顔を覗き込まれて、私は少し躊躇った。
実は私はあまり男の人とは話慣れてない。高校は女子高だったし、デザイン学校では確かに男子はいたけど、芸術家タイプの彼らは異性を意識する必要はなかったから。
「おい、久保田! あまり、近づくなよ。彼女、嫌がってるぞ」
いきなり背後から声がかかり、びくっと身体が強張った。
「ひでぇ、吉澤! 雪村、ごめん嫌だったか?」
「あ、ううん、気にしないで」
私は首を振って曖昧に微笑んだ。
すると、私の席の隣に誰かが座る気配がして、振り返ると吉澤君がこちらを見てほほ笑んでいた。
「よぉ! 雪村、久しぶり。飲み会くるだろ?」
「え? あの…」
私が返答に躊躇している間に、何故か勝手に吉澤君は私が来ることを久保田君に伝えていた。
1度行った飲み会で私達の趣味や好みが似ていて意気投合すると、吉澤君は定期的に飲み会を開催する様になった。その時に何故か、私は必ず出席する様に言われた。
私も彼と一緒に居たくて参加していたけど、その間1度も色っぽい展開などなかった。
そして今は【アンジェリア】のデザイナーと、企画責任者という関係で一緒に仕事をする機会が前よりも増えた。
そんなある日、私は上司から意外な話を聞かされた。
【アンジェリア】が実は撤退する話があった事。その際、吉澤君が自ら企画書を上層部へ持ち込み、撤退を阻止してくれた事。
話を聞いて驚いた私に、上司は『たくさん仕事を抱えているのに、自らこの企画をやりたいって上層部に乗り込んで来たんだ。お前も本気で自分のブランドを守りきれ。もう後はないぞ』と言ったあと『良い同僚がいて良かったな』と、微笑んだ。
私は知らなかった事実を聞いて、ただ頷くとその場をあとにした。
てっきり、上から言われて【アンジェリア】の企画を手掛けてると思っていたのに。自ら掛け合ったなんて。
良い同僚か……そうね、同期では仲が良いし、私が新しいブランドを任されたって言った時、とても喜んでくれてお祝いしてくれたんだっけ。
彼にとっては気の合う同僚の為に、忙しいなかわざわざ協力してくれたんだろうな。彼は仲間を大事にする。それはとても嬉しかった。
……まぁ、私なんて女と思ってないだろうし……
私は、ため息を吐いた。
吉澤君の彼女ってどんな子なんだろう? きっと可愛いんだろうな……知らなかった、入社時から付き合ってる人がいたなんて……
そんな事を考えていたら、涙がポロっと零れてきた。
1度流れた涙は止まらなくて、私は暫く声も無く静かに泣いていた。
「雪村! どうしたんだ?」
いきなり声をかけられ驚いて声の方を見ると、いつの間にか部屋に入って来た吉澤君が心配そうに私を見ていた。
「な、なんで?」
涙を拭く事も忘れて彼の方を見る。
そんな私の傍まで来ると、吉澤君はハンカチを差し出した。
「ん……朝倉が顔を真っ赤にして戻って来たから、お前と何かあったのかと思って」
そう言った彼は、怒った様な表情でこちらを見ている。
「何って……何もないわよ。ただ、ちょっと注意したいことがあっただけ」
「じゃ、何で泣いてるんだ?」
「これは……関係ない」
慌てて涙を拭くと、私は吉澤君と視線を合わせない様に横を向く。
「注意……って、あいつ、お前に何した?」
その声は心なしか低く、怒っている様にも聞こえた。
「私にじゃないわよ……だから吉澤君には関係ないから」
「関係ないってなんだよ、俺はお前の同僚だし、朝倉は俺の後輩だ!」
いつもとは違う彼の様子に、私はつい彼の顔をじっと見た。
「……心配なんだよ、一体何があった?」
「それは……」
言いよどんでいる私に、更に追い打ちをかける様に吉澤君は言い放つ。
「解った……朝倉に直接聞く!」
そう言って、出て行こうとする彼を私は慌てて追いかける。
「待って! ダメ、言う、言うから」
私が彼の服を掴みながら叫ぶと、振り返った彼はにやっと笑った。
「じゃ、聞かせて貰おうか?」
嵌められた!
そう思ったけれど、その時はもう遅すぎた。
そして私は、今朝から先程の朝倉君とのやり取りまでを、掻い摘んで話す事になった。
「あははっ……あいつ…ほんっとにメイちゃんの事に関しては、周りが見えなくなるのな!」
私の話を聞いて、吉澤君は可笑しそうに笑っている。
「…笑い事じゃないわよ! 私と石原ちゃんがどんだけ慌てたと思うの? メイちゃんにもバレないようにって必死だったんだから」
「悪い悪い……でも、あいつの気持ちも解るな」
「は?」
「ん、やっぱりさ……彼女が自分のものだって周りに知らせたいって気持ち……解るって事」
「何? 吉澤君はキスマーク、彼女に付けたいんだ?」
「まぁ…な、独占欲ってやつ?」
「ふーん……でも彼女の立場からしたら嫌だと思うよ? 何か如何にも『しました』って、周りに知られる訳だし」
「あぁ、確かに……」
吉澤君は納得した様に頷いた。そして、何故か意味深な視線を私に向けた。
「じゃ…さ、これならどうだ?」
私が聞き返す前に、彼はいきなり私を引き寄せたかと思うと首筋---うなじの近くに顔を近づけた。温かい息がかかるのが判った瞬間、チクッと痛みが走る。
「な、何っ?」
首を押さえながら彼を見上げると、意地悪そうな笑顔で私を見ていた。
「キスマーク……そこなら、髪を降ろしてれば誰も気づかない」
「な、な、何でそんな事するのよっ!」
顔が赤くなるのが判る。そんな私を彼は満足そうに見た。
「嫌がらせ?……あと、俺の我が儘」
「はぁ? 意味わかんない」
「お前と朝倉に何かあるんじゃないかと、気が気じゃなかった。理由を聞いても関係ないって言うし……俺にだって我慢の限界があるんだよ」
「吉澤君?」
いつもの冗談かと思ったけど、その表情は今まで見た事無い程に真剣で、私を見つめる目が艶めかしくて思わずときめいてしまった。
「雪村……6年だぞ」
「?」
首を傾げる私に、彼はため息を吐く。
「6年も惚れながら手を出さずに傍にいるって、どんだけ辛いか知らないだろ? お前…」
そう言う彼の顔は赤くなってて……え? それって……
「……嘘」
私の呟きに彼はムッとした。
「迷惑なのは知ってるよ。どうせお前からしたら俺は只の同僚だもんな。悪い、聞かなかった事にしてくれ。あ、キスマークは俺の八つ当たりだと思ってくれ。ごめんな」
吉澤君はそう言うと、出て行こうとドアの方へと歩いて行く。
「ま、待って!」
私の声に彼は歩を止めた。でも、振り返ろうとはしない。
彼の背中に向かって、私は話し掛ける。
「あ、あのね……わ、私……入社式の時から好きだったの。でも、私なんか相手にして貰えないって諦めてて、それなら仲の良い同僚でいいって思ってた」
「マジかよ……」
次の瞬間、吉澤君は振り返ると私を腕の中に引き寄せた。
「はぁ、俺ら……朝倉達の事、笑えないぜ」
「ホントね……あ、でも朝倉君がさっき言ってたけど、『入社時から付き合ってる女』って何?」
「え? あいつお前にそんな事、言ったのか?」
「私達が付き合ってると思ってたらしくて……」
「俺は付き合うならお前しか考えられなかったから、言い寄られてもそう言って断ってた……そう言えば、さっき何で泣いてたんだ? やっぱり朝倉に何か言われたか?」
「ううん、そうじゃない。吉澤君に彼女がいるって知って、ショックで泣いてた……」
私が俯きながら答えると、抱きしめた腕に力が籠る。そして私の耳元で彼が囁いた。
「瞳子……ヤバい…可愛い過ぎる」
い、いきなり名前呼ばないで! それ反則!
脈が速くなっているのが判る。苦しい……
「やっ! は、離して!」
「嫌だ……今日はずっとお前を抱き締めてたい……俺だってお前に関しては、全く余裕なんてないからな」
そ、そんな事を言われても……私も心の準備が……
必死に抵抗する私の努力も虚しく、その日私は吉澤君にお持ち帰りされた揚げ句、朝まで彼に放して貰うことはなかった。
翌日−−−急な展開に心と身体がついていけず、ついでに寝不足な状態で出社した私は、午前中は全く仕事にならなかった。
そして昼食時間、吉澤君は私の様子を見に、デザイン室にやって来た。
「大丈夫か? 瞳子」
心配そうに私を見る吉澤君に笑顔で答える。
「うん……大丈夫、少し眠たいだけ」
「ごめん…俺が無理させたから」
申し訳なさそうに彼が顔を顰めた。
そんな彼の言葉に昨夜の出来事を思いだし、顔が赤くなるのが解った。
「平気だから気にしないで……それより吉澤君こそ大丈夫なの?」
私の問いに、彼はにっこりと微笑んだ。
「あぁ、寧ろ充足感で一杯だよ。仕事もこれ以上はない位はかどってる……瞳子のお陰だな」
そう言いながら、吉澤君が私の頬を撫でる。
お互いの間に親密な空気が流れ始めたその時、控えめにドアをノックする音がした。
「は、はい?」
咄嗟に私が返事をすると、吉澤君はさっと私から離れ、デスク前にあるソファに座った。
私はそんな彼を横目で見てからドアを開けた。
「え? メイちゃん?」
そこには赤い顔をしたメイちゃんが立っていた。
「何? どうしたの? 今日は打ち合わせなんてなかったはず……」
私が驚いてそう言うと、メイちゃんは申し訳なさそうに俯いた。
「……あの…昨日の撮影、迷惑かけてしまってすみません……」
「もしかして、朝倉君から聞いたの?」
私の問いかけにメイちゃんは頷いた。
「とりあえず中に入って」
そう言ってメイちゃんを部屋の中に招き入れると、彼女はソファに座っている吉澤君を見て驚いた。
「よぉ、メイちゃん……ここに座ったらいいよ。俺は仕事に戻るからさ。じゃ、瞳子……帰りに迎えに来る」
私が頷くと、彼はにっこりと笑って部屋を出ていった。
「あの……私、お邪魔だったんじゃ……」
「何言ってるの…仕事の話よ。気にしないで……それより、彼何て言ったの?」
ドアの方を気にするメイちゃんに、私は先程の話を促すと、彼女は更に顔を赤らめながら話始めた。
「はい……昨日の夜、朝倉君がいきなり『ごめん』って謝るので、理由を聞いたら……その、キ、キスマークを私の背中に付けたって言われて」
メイちゃんはそこまで言うと、恥ずかしいのか俯いてしまった。
朝倉君…何で言うのよ! 私達の努力どうしてくれるの。
恐縮しているメイちゃんに私はそっと話しかけた。
「…ん、最初見た時、どうしようって思ったけど、お陰でいい写真が撮れたってみんな喜んでるのよ……あ、心配しないで、あの事知ってるの私と石原ちゃんと吉澤君だけだから……」
「吉澤さんもですか?」
メイちゃんが泣きそうな顔で私を見た。
「ごめん…私が朝倉君を呼び出したのを不審に思った彼から『あいつ、何した!』って、しつこく聞かれて……」
私が申し訳なさそうな表情で言うと、メイちゃんが慌てて首を振った。
「いいえ! 悪いのは私達ですから。今後気をつけます」
「…メイちゃんは悪くないと私は思うけど……」
「でも、彼に前もって注意しなかった私も悪いと思うので……だから、しばらくはそういう事はしないって話しました」
---は? それって……?---
「あの……メイちゃん、それって『お預け』って事?」
すると、私の言葉にメイちゃんは真っ赤になった。
「はい……だって…、そんな雰囲気になったら断りきれないじゃないですか? それなら前もって宣言してた方が私は気が楽です」
あぁ……メイちゃんはそうかも……朝倉君の事、大好きだから拒めないもんね。でも『お預け』は彼にはきついだろうなぁ……
「雪村さんも……断れない方ですか?」
「えっ?」
驚いた顔をした私を見て、メイちゃんが苦笑いの表情で自分の首筋を指した。
「ここ……髪の毛に隠れてますけど、私の方から時々見えます」
昨日、吉澤君が付けたキスマーク!
思わず私は自分の首を抑えた。
「あ、あのね……メイちゃん、これは……」
「大丈夫ですよ。誰にも言いませんって……吉澤さんですよね? さっきも出て行く時『瞳子』って名前で呼んでましたし」
メイちゃんが嬉しそうにそう言った。
す、鋭いっ! 何でっ? 自分の時は全く朝倉君の気持ち、気づかなかったくせに……
「良かったですね! 私は2人お似合いだって思ってたんです! いつからですか?」
キラキラと瞳を輝かせてメイちゃんが訊ねてきた。
「……昨日」
「え? 昨日…」
驚いている、メイちゃん。
そうだよねぇ…昨日から付き合って、その日のうちにキスマークなんて……しかも、それ以上の事もされたし……
私は恥ずかしくて、メイちゃんの視線を避ける様に俯いた。
「吉澤さんって……冷静に見えるんですけど、情熱的なんですねぇ……」
「は? メイちゃん…何を?」
「だって、そうじゃないですか? 吉澤さん、告白してすぐにそんな風に痕を付けるって、『自分のものだ』って宣言したいって気持ちの表れですよ。朝倉君も昨日そんな事言ってました……あの2人って結構似てますよね?」
そう言って、メイちゃんはため息をついた。
「確かに……あの2人、共通点が多すぎるかも……朝倉君は吉澤君の事『尊敬してる』って言ってたし」
「何か……私達、すごい愛されてるんですかね?」
「そうなのかも……」
私達---女2人は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
好きな人にこんなに思われて嬉しいけど……でも、恥ずかしいから止めてほしい。
それは、私達の本音。
あの2人が聞いてくれるかは、甚だ疑問だけど。
そして、メイちゃんはもう1度謝って、帰って行った。
「朝倉……『お預け』食らったんだ? 気の毒に……メイちゃんにべた惚れなのにな……」
声の主は私の身体を後ろから抱きしめながら、同情する様に呟いた。
---おかしい…何でこんな事になってるの? 私!---
あの後仕事が終わり、帰る準備をしている私の所に吉澤君がやってきた。
家まで送ると言われたので、疲れていた私は深く考えずに彼の車に乗った……それが間違いだった。
結局、私は家に帰れずに、今、吉澤君の家のベッドの中で彼に抱き締められている。
「瞳子……瞳子もやっぱり嫌か? キスマークは?」
「……うん、やっぱり恥ずかしい。今日、メイちゃんに指摘された時、凄く動揺したもの」
「そっか……ごめんな」
元気のない声で吉澤君が謝った。そして、昨日彼が付けた痕を撫でていく。
「なぁ…見えない所なら、いいか? 俺、たぶん夢中になったら加減が判らなくなって、絶対にキスマークつけると思うんだ」
「そんな……」
私の言葉に否定の意を感じたのか、吉澤君は更に言葉を続けた。
「6年も我慢してたんだぞ……それなのに、たった一晩だけで満足出来るわけないだろう?……」
背中越しに聞こえる彼の艶っぽい声に、ときめいてしまった。
「あ、あの…服に隠れて見えない処なら……」
---あぁ、私もメイちゃんと一緒だわ。彼を拒むなんて無理---
心の中で諦めの溜息を吐いていると、いきなり身体の向きを変えられた。
目の前に嬉しそうな吉澤君の笑顔があった。
「瞳子……ありがとう。あと、出来たら俺の名前呼んでくれないか?」
「そ、それは無理…」
お願い! これ以上ハードル上げないで。今も恥ずかしくて堪らないのに!
私の返事に不満の様で、彼の目が少し意地悪な光を帯びる。
「……解った、瞳子が俺の事『岳史』って呼ぶまで、ここから出さない」
「ま、待って!そんな……」
私の抵抗なんて空しく、彼はそう言うと本当に私が『岳史』と呼ぶまでベッドから出してはくれなかった。
翌日、会社が休みなのを良い事に遅くまで眠っていた私達は、昼前にようやく起きだして遅めの朝食をリビングで摂っていた。
その時、前から聞きたかった事を私は彼に訊ねた。
「あの…ね、た…岳史、うちの部長が前に言ってたんだけど、あなたが自ら【アンジェリア】の企画を上層部に掛け合ったって本当?」
私の質問に彼は嫌そうに顔を顰めた。
「……部長、余計な事を」
「本当なのね? 何でそんな事?」
「お前、初めてブランドを任された時すごく嬉しそうに話してただろ? それなのに撤退って聞いて俺、お前ががっかりするんじゃないか、辞めるんじゃないかって気が気じゃなくて、何としてでも【アンジェリア】を守りたかったんだよ」
諦めた様にぽつりぽつりと、彼はその時の事を話し始めた。
「だから知名度のある『唯香』を何とか口説いて、イメージモデルにして話題にしようとしたんだ。それなのにお前は……でも、まぁ…お前の方が見る目があったって事だよな。メイちゃんを使ったのは正解だった…色んな意味で」
「ごめんなさい……そんなに考えてくれてたのに…あの時、私は岳史が唯香を口説くのは彼女に興味あるからだと思ってて……それでたまたま見た雑誌に載っていたメイちゃんを推したの。勿論、本当にイメージしていた通りだったからよ。それは嘘じゃない」
申し訳ない気持ちで、私は思わず俯いた。
「でも…結果的には良かったんじゃないのか? 朝倉やメイちゃん、唯香やリョウも【アンジェリア】での仕事で再会して幸せになってるんだし……」
そう言って椅子から立ち上がると、岳史が私の傍にきた。
「俺は、この企画に携わって良かったと思ってるよ。あいつらが幸せになった事も嬉しいけど、何よりも瞳子に認められたかった……」
「認めてる。岳史がいつでも一生懸命に仕事に取り組んでるのを見て来たもの。ありがとう……【アンジェリア】を守ってくれて。私も岳史に認められる位頑張るから」
真っ直ぐに彼の目を見てそう言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「俺はとっくにお前の事は認めてるよ。だから今度は俺との事を考えてくれないか?」
「え? 私は岳史の事好きだって……」
「雪村瞳子さん、俺と結婚してくれませんか?」
顔を赤くしながら照れた様に、岳史が私を見つめた。
その顔を見ていた私の視界がぼやけた。
「い、いいの? 私で?」
「瞳子がいい……瞳子でないと駄目なんだ」
真剣な彼の表情に私はただ頷くだけだった。
そんな私をそっと抱きしめながら、岳史がほっとため息をついた。
「良かった……断られたらどうしようかとドキドキしてた」
「そんな事…しない。でも、ありがとう…とても嬉しい」
私は彼の顔を見つめながら囁いた。
岳史はそんな私の唇にそっと自分の唇を重ねた。
「瞳子…ずっと、俺の傍にいて…」
唇を離した時に、岳史がそう呟いた。
「はい…岳史さん」
私はそう言うと、自分から彼に口づけた。
何か、朝倉&メイがバカップル化してる気が…イメージ壊れたらごめんなさい。
番外編、こんなに長くなるはずでは無かったのですけど、最後まで読んで頂いた方に感謝です。




