その1
「私、太った人は嫌い!」
彼女の声が、教室の扉越しに聞こえた。
その瞬間、俺の初恋は終った−−中学1年の春の事だ。
「おい、朝倉!お前、新しい企画任されたって?」
会議室へ向かう途中、同期で一番中の良い榊が話し掛けてきた。
「ああ、吉澤主任のアシスタントだけどな」
「それでもすげーよ!頑張れよ。これで認められたらもっと大きな仕事任せてもらえるかもしれないぜ」
人の良さそうな笑顔で榊は言うと、自分の部署へと戻って言った。
俺‐‐朝倉大樹はアパレルメーカーの販売促進課に勤めている。入社1年目で、いきなり上司である吉澤主任のアシスタントに抜擢された。
今回の企画は、4月に社運をかけ立ち上げた新ブランド【アンジェリア】が、思った様な成果が出てないという事で、販路拡大の為に上層部から直接、吉澤主任が指名された。
吉澤主任は入社5年目だが、企画力、実行力共に優れていて、彼の手がけた企画はどれも大成功を収めている。おそらく今度の企画が成功したら、昇進は間違いないだろう。俺も目指すなら主任の様な出来る男になりたいと思っている。
そんな人のアシスタントだ。確かにステップアップすることは確実だ。
「朝倉!企画会議始めるぞ!早く来い!」
会議室から吉澤主任が、顔を出した。
俺は慌てて会議室へと向かった。
今回の企画には、吉澤主任を中心としてアシスタントの俺、あと同じ課から先輩社員が2人、そしてもう1人……
「それでは、この内容で今回の企画は進めていく。もし、何かトラブルが起きた時は速やかに俺に報告すること」
そう言うと主任は、同僚で今回のブランドを手掛けているデザイナーの雪村瞳子女史へ視線を向ける。
雪村さんは何やらメモをしていたが、主任の視線に気づくと口を開いた。
「吉澤君、今回起用したモデルなんだけど…悪い……変えてくんない?」
「はぁーっ?何だよ、それ…」
ちょっとムッとしてるのがわかる口調だ。
確かに今回お願いしたモデル=唯香は若い女の子のカリスマ的な存在で、この企画の為に主任が相手の事務所に何度もお願いに行ってやっと了解をもらったのだから。
「お前、俺がどんなに苦労して彼女をおとしたか知ってるよな?」
「……それは、重々承知の上でお願いしてる。だけど唯香じゃこのブランドの良さが伝わらない。私のイメージじゃないのよ」
彼女の言葉に、主任は頭を抱えた。
「じゃ何か?お前にはアテがあるのか?イメージ通りのモデルのアテが!」
「ええ!聞いてくれる?昨日偶然、雑誌を見ていたらイメージにピッタリの娘が載っていたの。彼女なら完璧よ!」
そう言うとバッグからファッション雑誌を取り出し、付箋を付けてあるページを開いて見せた。
俺と主任は、その雑誌を覗き込んだ。
そのページは夏の新作水着の特集で、何人かのモデルが水着を着て笑っている。
二人とも目のやり場に困っていると、雪村さんは一人のモデルを指差した。
「この娘なんだけど……ブランドのイメージにピッタリと思わない」
彼女の指したモデルは、黄色いビキニを着てプールサイドに座って微笑んでいた。
顔立ちはいたって平凡で美人ではないが、その微笑みはどこか人懐っこく温かみのあるものだった。
思わず見入ってしまっていると、雪村さんは嬉しそうに話し出した。
「【アンジェリア】のコンセプトは、少女から女性へ変わる時の初々しさと色気よ!彼女にはそのどちらも備わっていると私は思うの!」
「……唯香も例外ではないと思うけど?」
いきなり自分の選んだモデルの駄目だしを食らい、吉澤主任は不機嫌に答えた。
しかし雪村さんはそんな主任の様子に気づかないのか、わざと知らんぷりをしているのか平然と言い放った。
「唯香は俗っぽ過ぎる…透明感がないのよ。まあ、男の人は色気重視なんだろうけど…」
(何か雪村さん、言い方に棘がないか?)
俺がそんなことを思っていると、大きな溜め息が聞こえた。
「朝倉っ!」
「は、はいっ」
主任に呼ばれ、俺は勢いよく椅子から立ち上がった。
「お前、このモデルの事務所にアポとれ!それから雪村!朝倉と一緒にモデルに会いに行け。実際に見てから決めろ。だが唯香は外さない、いいな」
「ありがとう!吉澤君。朝倉君、お願いね」
雪村さんは俺を見て、笑顔で言った。その後にまた吉澤主任の溜息が聞こえたのは、言うまでもないだろう。
それから3日後--
俺と雪村さんはとあるビルの前に立っていた。
「ここね……彼女の事務所は」
「はい、ここの5階にある【next】というモデル事務所です。社長は女性の方で、今回の起用の話をしたらかなり乗り気になってます。おそらく、契約は簡単かと思いますが…」
先日の電話でのやり取りを思い出しながら、雪村さんに説明する。
「とりあえず、行きましょう」
(すげー張り切ってるなー雪村さん)
半ば引っ張られる様に、俺は彼女の後についてエレベーターへと乗り込んだ。
5階の1フロア全てを使用しているらしく、エレベータが開くと、すぐ目の前に【next】と書かれたプレートが掲げられた扉があった。
すると雪村さんは躊躇することなく、その扉を叩いた。
簡単に話が纏まると思っていた俺は、まさかこのあと大変な思いをするとは予想してなかった。