微笑みの第二夫人とやらかし王女
王都アルシェリアの王城では、その日、朝から重苦しい空気が漂っていた。
国王が緊急の評議を招集した。その知らせは瞬く間に城中へ広がり、貴族も侍女も使用人も、それぞれに理由を推し量っていた。
その一方で、その理由を知る者は皆、口を閉ざしていた。王家にとって、あまりにも恥ずべき出来事だったからだ。
大理石の床が磨き上げられた謁見の間には、重臣たちが左右に居並び、その正面の玉座には、この国の国王が静かに腰を下ろしていた。
その視線の先に立つのは、一人の少女。ふわりと波打つ淡い桃色の髪に、若葉を思わせる黄緑色の瞳。年の頃は十八。人形のように愛らしい顔立ちの王女――ミラだった。しかし、その場に漂う空気とは裏腹に、本人だけはどこか不満そうに唇を尖らせている。
「……それで、お父様。私はいつまでここに立っていればよろしいのです?」
場違いなほど呑気な声だった。重臣たちの何人かが眉をひそめる。だが、ミラは気付かない。これまでの人生で、自分が誰かの機嫌をうかがう必要など一度もなかったのだから。
国王はゆっくりと目を閉じ、小さく息をつく。その姿には疲労が滲んでいた。
「ミラ」
「はい」
「そなたが何をしたか、理解しているか」
問われても、ミラは首を傾げるだけだった。
「もちろんです」
自信たっぷりに答える。
「私は、好きな方に想いを伝えました」
その返答に、謁見の間の空気がさらに冷え込む。重臣の一人が堪えきれず顔を伏せた。
「リュシアン王太子には婚約者がおった。我が国の令嬢だ」
「ええ」
「その婚約者へ嫌がらせを繰り返した」
「少しお話をしただけです」
「婚約者から王太子へ贈る花束を燃やさせた」
「あの方には私が贈る花だけで十分でしょう?」
「侍女へ命じ、婚約者のドレスを切り裂かせた」
「少し裂けただけです」
「池へ突き落としたそうだな」
「あれは足を滑らせたのです」
「庭園で髪を切った」
「暑そうでしたので」
「侍女たちに命じて、その令嬢を茶会から締め出した」
「私がお話ししたかったものですから」
「舞踏会では、婚約者の席から追い払わせた」
「彼のお隣は私の席でしょう?」
まるで子どもが悪戯を言い訳するような口調で言うミラは、本当に大したことではないと思っている。幼い頃から、欲しいと言えば与えられ、我慢など覚えたことがない。侍女は笑顔で願いを叶え、家臣は王女の機嫌を損ねぬよう振る舞い、両親もまた、「可愛い娘だから」と多くを許してきた。
だからミラにとっては、ごく自然なことだった。自分が好きになったのなら、その相手は自分を選ぶべきで、障害となるなら身を引くべきだ。自分の方がふさわしいのだから、少し場所を譲ってもらえばいい。それくらいの認識でしかなかったのである。
「彼は私の方が似合う。そうでしょう?」
その一言で、国王は静かに目を閉じる。王女が他国の王太子に恋をし、王太子の婚約者に嫌がらせをした。その結果、何が起きているのか、娘は何一つ理解していない。
相手の令嬢がどれほど傷ついたかも。婚約者の王太子がどれほど憤ったかも。そして、その相手が友好国の王太子であったことが、どれほど外交問題になったのかも。何一つ。
「……ミラ」
ようやく口を開いた声は、ひとりの父親ではなく、国王のものだった。
「この件は、すでに相手国から正式な抗議を受けている」
ミラは少しだけ顔をしかめた。
「大げさですわ」
「大げさではない」
国王の声音に、初めて厳しさが宿る。
「そなたは一国の王女だ。その振る舞いは、国そのものの振る舞いとして見られる」
「でも私は――」
「言い訳は聞かぬ」
ぴしゃりと言葉を断たれ、ミラは目を丸くした。父に叱られた記憶など、ほとんどない。しばらくの沈黙のあと、国王はゆっくりと告げる。
「ミラ・アルヴェール王女」
「……はい」
「そなたを、リーファ国へ嫁がせる」
その瞬間、時間が止まったようだった。
「……え?」
ぽかんと口を開けたまま、ミラは父を見つめる。聞き間違いだと思った。だが、国王はもう一度、同じ言葉を繰り返す。
「これは王命である」
「ま、待ってください!」
思わず一歩踏み出す。
「どうして私が嫁ぐのです!」
「外交上の責任を果たすためだ」
「そんな……!」
ミラは首を振った。
「嫌です!」
初めて、声が震えた。
「絶対に嫌!」
リーファ国。その名を知らぬ者はいない。数年前まで長きにわたって戦争を続けていた軍事国家。武勇に優れた国王アルベルトは"獅子王"と恐れられ、近隣諸国では「戦を好む蛮族の王」とまで噂されている。野蛮で、粗野。力こそがすべての国。そんな場所へ、自分が嫁ぐなど。
思わず叫ぶ。
「そんなところへなんて行きたくない!」
国王は何も答えない。
「嫌よ!」
声は半ば泣き声になっていた。
「私は王女なのよ!」
だから守られるべきなのだと。だから望まぬことなどしなくていいのだと。心のどこかで、まだ信じていた。しかし。
「……だからこそだ」
静かな国王の一言が、その甘えを打ち砕く。
「王族である以上、自らの行いには責任が伴う」
その声は優しくもあり、どこか悲しくもあった。もっと早く、この言葉を伝えるべきだった。もっと早く、娘を叱るべきだった。
その後悔が、国王の胸には重くのしかかっていた。
「出立は一月後」
ミラは震える唇を噛み締める。どうして自分がこんな目に遭うのか。最後まで理解できないまま、少女は謁見の間をあとにした。
■■■
戦が終わってから二年の歳月が流れ、王城にはようやく穏やかな時間が戻ってきていた。かつては軍靴の音と伝令の足音が絶えなかった回廊も、今では季節の花々を愛でながら歩く侍女たちの穏やかな笑い声に包まれている。城の南側に設えられた中庭では初夏の薔薇が見頃を迎え、開け放たれた窓からは、甘くやわらかな香りが風に乗って応接間へと流れ込んでいた。
シャーロットは、その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、静かにティーポットを持ち上げる。白磁のカップへ細く紅茶を注ぐと、ふわりと湯気が立ちのぼった。その色合いを確かめるように目を細めてから、砂時計へ視線を落とす。少し蒸らし時間が長かったかもしれないと思ったが、香りは申し分ない。ほんの少しだけ安堵すると、向かいに座るディアナの前へそっとカップを差し出した。
「ありがとう、シャーロット」
穏やかな笑みとともに礼を言うディアナへ、シャーロットも自然と微笑み返す。
「今日はお天気がいいので、お庭の香りに負けない茶葉を選んでみました」
「あら、本当。いつもより少し華やかな香りがするわ」
そう言ってカップを口元へ運ぶディアナの表情は柔らかい。しかし、その手は無意識に少しだけ膨らみ始めた腹部へと添えられていた。
新しい命を宿してから数か月。目立つほどではないが、長年傍で見てきたシャーロットには、その小さな変化がよく分かる。
無理はしていないだろうか。昨夜はよく眠れただろうか。そんなことを考えながら焼き菓子の皿を少し近づけると、ディアナはその仕草に気付き、小さく笑った。
「ありがとう。でも、そんなに気を遣わなくても大丈夫よ」
「そうおっしゃる方ほど、気を遣っていただかないといけませんから」
冗談めかして返すと、ディアナは肩をすくめる。
「相変わらずね」
そのやり取りを見ていたアルベルトが、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「ディアナ、お前は昔からシャーロットには敵わんな」
「敵うも何もありません。私は心配されているだけですもの」
「それを素直に受け入れないから言われるんだ」
そう言って笑うアルベルトの顔には、王として臣下へ向ける厳しさはない。濃い茶髪を無造作にかき上げ、褐色の肌に浮かぶ笑みは、一人の夫として、一人の家族として過ごす時間を心から楽しんでいるように見えた。
シャーロットは二人のやり取りを眺めながら、自然と口元を緩める。こんな穏やかな午後が訪れるようになるまで、この国はあまりにも長い時間を費やしてきた。
だからこそ、この時間は何より尊い。いつまでも続いてほしいと願わずにはいられなかった。
しかし、その穏やかな空気を破るように、アルベルトは机の上へ一通の書簡を置いた。王家の紋章が押された封蝋はすでに切られている。読み終えたばかりなのだろう。アルベルトは書簡を見つめたまま、大きく息を吐いた。
「……耳にしているとは思うが、ミラ王女が嫁いでくることになった」
その言葉に、部屋の空気がわずかに変わる。シャーロットは静かに瞬きをした。
「まあ」
思わず漏れた声は驚きよりも、どこか穏やかな響きを帯びていた。それを聞いたアルベルトは苦笑する。
「『まあ』で済ませられる話ならよかったんだが」
「何かご事情がおありなのですね」
「あるどころではない」
アルベルトは額へ手を当て、椅子の背にもたれかかった。
「外交問題の末の輿入れだ」
それ以上を語る必要はなかった。
王家同士の婚姻には様々な事情がある。喜ばしい縁もあれば、責任を伴うものもある。今回が後者なのだということだけは、シャーロットにも十分伝わった。
ディアナは書簡を手に取り、静かに目を通していく。読み終える頃には、小さくため息をついていた。
「……そう」
短い一言だった。怒りでも呆れでもなく、どこか憂いを帯びた声。そっとお腹へ手を添え、窓の外へ視線を向ける。
「ようやく落ち着いたと思っていたのだけれど」
その言葉の続きを、誰も急かさなかった。庭では風が吹き、薔薇がゆっくりと揺れている。遠くで小鳥が鳴いた。
そんな静かな時間が流れたあと、ディアナは困ったように微笑む。
「少し賑やかになりそうね」
「賑やか、ですめばいいがな」
アルベルトは苦笑する。
「報告だけを見る限りでは、なかなか手を焼きそうなお姫様だ」
「報告書というものは、どうしても出来事だけを書きますもの」
シャーロットは穏やかに言った。
「お会いしてみなければわからないことも、きっとあります」
アルベルトは「それはそうだ」と頷きながらも、どこか複雑そうな顔をする。国王として迎え入れなければならない。だが、一人の夫として、一人の父親になろうとしている身としては、これ以上家族が騒がしい思いをすることは避けたい。そんな思いが、その横顔には滲んでいた。
シャーロットはその表情を見つめ、そっとティーポットを持ち上げる。
「おかわりをお淹れしますね」
アルベルトは少し驚いたように目を上げ、それから苦笑した。
「ああ、頼む」
たったそれだけのやり取りだった。けれど、肩に入っていた力が少しだけ抜けたようにも見える。
シャーロットは何も言わない。励ましの言葉も、気休めも口にしない。ただ温かい紅茶を注ぎ、いつもどおり穏やかな時間を守ることだけを考えていた。
ふと、窓の外から風が吹き込み、中庭の薔薇が陽の光を受けてやさしく揺れる。
「あらあら、今日は薔薇が嬉しそうですわ」
シャーロットは、独り言のようにそう呟いた。ディアナはつられるように窓の外へ目を向け、ふっと笑みを浮かべる。
「ふふ、本当。風が気持ちよさそうね」
アルベルトもまた書簡から顔を上げ、その先に広がる庭を眺めた。
「……見頃だな」
先ほどまで部屋を満たしていた重苦しい空気は、いつの間にか薄れていた。誰も話題を変えようとしたわけではない。ただ、シャーロットが窓の外に咲く薔薇へ目を向け、その美しさを口にしただけだった。それだけで、不思議と皆の心もまた、ほんの少しだけ外の景色へ向き、張りつめていた思いがほどけていく。それは、戦時中も変わることのなかった、シャーロットの穏やかさだった。
その空の下を、まだ見ぬ王女を乗せた馬車が、この国へ向かってきていた。
■■■
リーファ王国の王都へ、隣国の王女ミラを乗せた一行が到着したのは、それから十日ほど後のことだった。
城門前には儀礼に則って近衛騎士たちが整列し、礼砲こそないものの、隣国の王族を迎えるにふさわしい厳かな空気が漂っている。
シャーロットはディアナと並び、その様子を静かに見守っていた。隣ではアルベルトが正装に身を包み、国王としての威厳をまとって立っている。先日のお茶会で見せていた穏やかな夫の顔とは違い、王として臣下の前に立つ姿は、まさしく「獅子王」と呼ばれた男そのものだった。
やがて馬車の扉が開き、一人の少女が姿を現す。
陽の光を受けてきらめく淡い桃色の髪に黄緑色の瞳。噂どおり、とても愛らしい容姿だった。
シャーロットは思わず目を細める。
――本当に、かわいらしいお姫様。
そう思った矢先だった。
ミラは歓迎の言葉を待つより早く、城門や建物をぐるりと見回し、小さく鼻を鳴らした。
「思っていたよりは、まともなのね」
誰に聞かせるでもなく呟かれたその一言に、近くに控えていた侍女たちの肩がわずかに強張る。もっとも、本人はそんなことには気付いていないようだった。アルベルトは表情一つ変えず、一歩前へ出る。
「遠路、ご苦労だった。私はリーファ王国国王アルベルトだ」
「ミラ・アルヴェールですわ」
最低限の礼だけは守る。それでも、その声音にはどこか不満が滲んでいた。
アルベルトは歓迎の挨拶を終えると、隣に立つ二人へ視線を向けた。
「こちらが第一夫人、ディアナだ」
艶やかな黒髪を揺らし、ディアナは優雅に一礼する。
「ようこそ、ミラ王女」
その美しさに、ミラは一瞬だけ目を見張った。落ち着いた物腰に、ミラも形式どおりに会釈を返す。続いてアルベルトは、その隣にいる女性を紹介する。
「そして、第二夫人のシャーロット」
淡い金色の髪に、柔らかな紫色の瞳。穏やかな笑みを浮かべる女性を見て、ミラは不思議そうに首を傾げた。
「第二夫人……ですの?」
「ああ」
アルベルトが短く頷く。ミラはしばらくシャーロットを見つめ、それから悪意なく、純粋な疑問として口にした。
「つまり……愛人、ということですわね?」
その瞬間、その場の空気が凍りついた。侍女たちが息をのみ、護衛の騎士たちもわずかに表情を強張らせる。
だが、当のシャーロットだけは少しも表情を変えなかった。
「あら」
柔らかな笑みを浮かべたまま、小さく首を傾げる。
「そのように思われても、仕方ありませんね」
否定も反論もしない。
「シャーロットと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
その穏やかな声に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ和らぐ。控えていた侍女たちも、いつの間にか強張らせていた肩の力を抜いていた。
あまりにも柔らかな反応だったせいか、今度はミラの方が面食らったように目を瞬かせる。言い返されると思っていたのだろう。少しだけ居心地が悪そうに視線を逸らすと、小さく「そう」とだけ返した。
二人の様子を見ていたアルベルトが静かな口調で言う。
「ミラ王女」
「はい?」
「あなたには第三夫人として、この城へ入ってもらう」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「……第三、夫人?」
「そうだ」
アルベルトは淡々と続ける。
「第一夫人はディアナ。第二夫人はシャーロット。そして、あなたが第三夫人になる」
ミラの表情から血の気が引いていく。ほんの数秒前、自分は「第二夫人は愛人でしょう」と言ったばかりではなかったか。
では、第三夫人である自分は、何なのだ。愛人以下ということなのか。
「そんな……」
声が震える。
「私は王女ですのよ?」
父の命で嫁いできたとはいえ、王族としての誇りまで捨てたつもりはない。なのに第三夫人。しかも、その上には第一夫人だけでなく、第二夫人までいる。
それは、自分が誰かの「次」でしかないという現実を突きつけられることでもあった。
――こんなの、聞いていない。
そう叫びたい気持ちだけが、胸の中で渦を巻いていた。
ミラは嫁いできたその日から、王女らしく横柄に、傲慢にふるまい始めた。
朝食の焼き立てのパンが少し冷めていると言って料理人を困らせ、部屋へ飾られた花の色が好みではないと言って庭師を呼びつける。侍女たちは名前ではなく、「あなた」「そこの人」と呼ばれ、部屋へ入るたびに慌ただしく走り回っていた。
誰かを困らせたいからではない。自分はまだ王女なのだと、自分自身へ言い聞かせるためだった。そうしなければ、第三夫人という現実を受け止めきれなかったのである。
シャーロットは、そんなミラの対応に追われるている侍女たちの表情を見つめながら、小さく息をついた。
皆、笑顔ではいる。けれど、どこか疲れている。怒っているというより、どう接すればよいのか分からず戸惑っているようだった。
◇
数日後。ディアナの部屋で二人きりのお茶会が開かれた。窓辺には初夏の陽射しが差し込み、風に揺れるレースのカーテンが静かな時間を運んでくる。
ディアナはカップを両手で包み込みながら、少し困ったように笑った。
「かわいいお姫様には、夫人になっていただく必要があるわね」
シャーロットも自然と笑みを浮かべる。
「ええ、もちろん」
ディアナの言葉には、責める響きはまるでなかった。王女としてではなく、一人の少女として迎えたい。そんな願いが込められていることを、シャーロットはよく知っていた。
「ディアナ様は、ご自分のお身体を第一になさってください」
そう言って、少し冷めた紅茶を新しいものへ取り替える。ディアナは「ありがとう」と微笑み、温かなカップを受け取った。
「お姫様は、私にお任せくださいな」
その声はいつもどおり穏やかだった。そんなシャーロットの様子に、ディアナは安心したように肩の力を抜く。
「頼りにしているわ」
「ふふ。ありがとうございます」
初夏の風が部屋を吹き抜け、庭に咲く薔薇がゆっくりと揺れた。
その頃、王城の反対側では、ミラが侍女を相手に「このお菓子は甘すぎるわ」と頬を膨らませていた。
■■■
ミラがリーファ王国へ輿入れしてから、一週間ほどが過ぎていた。王城での暮らしにも少しずつ慣れてはきたものの、それは決して心を許したという意味ではない。むしろ、日を追うごとに居心地の悪さは増しているように思えた。
第三夫人。その呼び名を耳にするたび、胸の奥に小さな棘が刺さる。
王女として生まれ育ち、誰よりも尊ばれてきた自分が、今は「三番目」の夫人なのだ。その事実だけは、どれほど時間が経っても受け入れられそうになかった。
「あなた」
朝の身支度を終えたミラは、部屋の隅で控えていた侍女へ声を掛けた。二十歳前後だろうか。栗色の髪を後ろでまとめた、どこにでもいそうな若い侍女だった。
「はい、ミラ様」
「この部屋、お花を替えてちょうだい。白い花は好きではないの」
「かしこまりました」
侍女は丁寧に一礼し、静かに部屋を出ていく。ほどなくして戻ってきた花瓶には、薄桃色の薔薇が活けられていた。
「こちらでいかがでしょうか」
ミラは一瞥し、小さく頷く。
「ええ、最初からそうしてくれればよかったのに」
「申し訳ございません」
侍女は再び頭を下げる。それだけのやり取りだった。
ミラは何もおかしいとは思わない。幼い頃から見てきた光景と、何一つ変わらない。主人の望みを聞き、それを叶える。侍女とは、そういうものだ。
◇
昼下がり。ディアナに誘われ、ミラは午後のお茶会へ顔を出していた。
王城の庭園を望む東屋には、爽やかな風が吹き抜け、木漏れ日が白いテーブルクロスの上へまだら模様を落としている。席にはすでにディアナとシャーロットが腰掛けていた。
「ごきげんよう、ミラ」
ディアナが微笑みかける。第一夫人らしく、まず最初に挨拶をしたディアナ。ミラに対して敬称を使わないのは、ミラが王女ではなく、すでに第三夫人となっているが故だ。
「ごきげんよう」
ミラも形だけは美しく礼を返し、空いている椅子へ腰を下ろした。ほどなくして、一人の侍女が紅茶を運んでくる。慣れた手つきで三人の前へカップを置き、最後に小さく一礼した。その姿を見送ったシャーロットが、ふわりと笑う。
「エマ、お茶をありがとう」
侍女は顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、先ほどミラの部屋にいた侍女とは少し違って見えた。そのやり取りを見ていた別の侍女も、つられるように小さく笑う。東屋に流れていたどこかかしこまった空気が、ほんの少しだけやわらいだ。
そこへ、今度は焼き菓子を載せた皿が運ばれてきた。香ばしいバターの香りが辺りへ広がる。シャーロットは一口頬張ると、目を細めた。
「リリー、この焼き菓子、とても美味しいわ」
皿を運んできた侍女が、照れくさそうに頬を染める。
「厨房のみんなで焼いたんです」
「いい出来だったと伝えてちょうだい」
「はい、さっそく」
リリーは弾むような足取りで厨房へ戻っていく。その後ろ姿を見送っていた給仕の侍女も、思わず頬を緩めていた。その後ろ姿を、ミラは何とはなしに目で追う。主人に褒められたくらいで、あんなに嬉しそうにするものだろうか。
そんなことを考えていると、今度は別の侍女が空になった皿を下げに来た。その顔を見たシャーロットが、少しだけ心配そうに眉を寄せる。
「あらあら…サラ、今日は少しだけお疲れのようですわね」
侍女は驚いたように目を丸くした。
「えっ……」
「昨夜はよく眠れましたか?」
サラと呼ばれた侍女は、困ったように笑う。
「顔に出ていました?」
「少しだけ」
「実は、下の弟が熱を出してしまいまして……少しだけ寝不足なんです」
「それは大変でしたね」
シャーロットは優しく微笑む。
「今日はお仕事が終わったら、早めに休んでくださいね」
「はい」
侍女は深く頭を下げる。その目元には、どこか安心したような色が浮かんでいた。
その様子を見つめながら、ミラは胸の奥に小さな違和感を覚えていた。王城では主人と侍女が言葉を交わすことなど珍しくない。それなのに、目の前の光景には、自分の知る主従とは違う空気が流れていた。
「………」
違和感の正体は、しばらく眺めているうちに見えてきた。シャーロットは、よく人を見ている人だった。
庭師が咲き始めた薔薇を報告に来れば、「今年も見事ですね」と笑顔で声を掛ける。警備に立つ衛兵には、「今日は日差しが強いですから、水分を忘れないでくださいね」と穏やかに微笑み、厨房から焼きたてのパンを運んできた料理人には、「いつもありがとう」と丁寧に礼を言う。
その場限りの相手としてではなく、一人の人として自然に言葉を交わしている。だからだろうか。話しかけられた者は皆、少しだけ表情をやわらげて持ち場へ戻っていく。
ミラは紅茶のカップを手にしたまま、その様子を黙って眺めていた。
不思議だった。いや、奇妙と言った方が近いかもしれない。主人とは命じる者であり、仕える者は命令に従うもの。その線引きは、幼い頃から当たり前のように教えられてきた。
だから主人が侍女へ礼を言うことはあっても、相手の体調を気遣ったり、家族のように言葉を交わしたりする必要などない。そんなことをしていては、主従の区別が曖昧になってしまうではないか。
気づけば、疑問はそのまま口から零れていた。
「……侍女の名前なんて、全部覚えているの?」
東屋に流れていた穏やかな空気が、ほんの少しだけ静まる。もっとも、その静けさは気まずさから生まれたものではなかった。
シャーロットはカップをソーサーへ戻すと、不思議そうに小首を傾げる。
「もちろんです」
あまりにも自然な返事だった。まるで「今日は晴れていますね」と言うのと同じくらい、迷いがない。
「毎日一緒に過ごす家族ですもの」
ミラは思わず眉をひそめた。
「……家族?」
「ええ」
「侍女でしょう?」
その言葉には、責める響きはなかった。ただ純粋に理解できない。侍女は侍女である。それ以上でも、それ以下でもない。
ところがシャーロットは、少しも困った様子を見せずに微笑んだ。
「ええ、侍女です」
いったん頷いてから、柔らかな声で続ける。
「でも、侍女である前に、一人ひとり大切な人ですよ」
その言葉は静かだった。決して相手を諭すようでも、自分の考えを押し付けるようでもない。ただ、自分にとって当たり前のことを口にしただけ。それだけだった。
ミラは返す言葉を失う。大切な人。どうして、そんな発想になるのだろう。理解ができなかった。主人と侍女は違う立場なのだから。
すると、それまで静かに二人のやり取りを聞いていたディアナが、小さく笑った。
「シャーロットは昔から、誰の名前もすぐに覚えてしまうの」
「昔から、ですか」
「ええ。だから新しく城へ来た者も、安心するのでしょうね。最初は皆、とても緊張しているでしょう?でも、シャーロットに名前を呼ばれると、不思議と『この城にいてもいいんだ』って思えるみたいなの」
シャーロットは少し照れたように笑い、「そんなことはありません」と小さく首を振る。けれど、その言葉を否定する者は誰もいなかった。
東屋へ新しい紅茶を運んできたエマも、焼き菓子のおかわりを持ってきたリリーも、空いた皿を下げるサラも、皆どこか穏やかな表情を浮かべている。
主人の顔色を窺うような緊張ではない。親しい誰かと過ごす午後のような、少し肩の力の抜けた笑顔だった。
ミラはその光景を見つめながら、小さく唇を結ぶ。
どうして、この城の者たちはこんなにも自然に笑っているのだろう。
どうして、シャーロットが声を掛けるだけで、あんなにも嬉しそうな顔をするのだろう。
答えはわからない。けれど、一つだけ確かなことがあった。
この王城には、自分がこれまで育ってきた場所とはまったく違う「当たり前」が流れている。
そして、その当たり前を一番自然に体現しているのは、誰よりも穏やかに微笑む第二夫人、シャーロットなのだということだけは、ミラにも少しずつわかり始めていた。
もっとも――その「当たり前」を受け入れるには、まだずいぶん時間がかかりそうだった。
■■■
ミラがこの城へ嫁いできてから、ひと月ほどが過ぎた。相変わらず、城の者たちは彼女の機嫌に振り回されることが少なくない。
朝食に添えられた果物が好みではないと言って別のものを用意させたり、部屋へ飾られた花の色が季節に合わないと植え替えを命じたりすることもある。侍女たちは慣れた様子で応じていたが、その忙しさを目の当たりにするたび、シャーロットは申し訳なさそうに頭を下げていた。
「今日も忙しくさせてしまいましたね」
そう声を掛けられた侍女たちは、決まって笑顔で首を振る。
「いいえ、シャーロット様が気になさることではありません」
「今日は少し早くお休みになってくださいね」
「ありがとうございます」
そんなやり取りを交わすたび、シャーロットは少しだけ安心したように微笑むのだった。
そんなある日の午後。ミラは自室で刺繍を広げていたものの、思うように針が進まず、早々に手を止めてしまった。窓から差し込む陽射しは穏やかで、庭からは鳥のさえずりが聞こえてくる。
退屈だった。王城へ来た当初は見るものすべてが珍しかったが、今ではその新鮮さも薄れ始めている。
「あなた」
部屋の入口近くで控えていた侍女が顔を上げた。
「はい、ミラ様」
「紅茶を淹れてちょうだい」
「かしこまりました」
侍女は一礼し、静かに部屋を出て行く。その後ろ姿を見送りながら、ミラはふと先日のお茶会を思い出していた。
――エマ
――リリー
――サラ
シャーロットは、迷うことなく侍女たちの名前を呼んでいた。あの三人は皆、名前で呼ばれた瞬間、とても嬉しそうな顔をしていた。
どうして、そんなことで。そんな疑問が頭をよぎったものの、ミラはすぐに首を振る。名前など、呼ぶ必要はない。主人が侍女の名前を覚えていなくても、何も困らないのだから。
ほどなくして、紅茶が運ばれてきた。侍女はいつものように丁寧な所作でカップを置き、一歩下がる。そのときだった。
「……あ」
侍女の手が、ソーサーへ軽く触れた。わずかな音とともに、紅茶が少しだけ受け皿へこぼれる。ほんの数滴。それだけのことだった。しかし、侍女の顔がみるみる青ざめる。
「も、申し訳ございません!」
急いで布巾を取り出そうとする姿を見て、ミラは思わず眉をひそめた。
たかが数滴。そこまで慌てることだろうか。侍女は震える指先で受け皿を拭きながら、何度も頭を下げている。
その様子を見ているうちに、不意にシャーロットの言葉が頭に浮かんだ。
――侍女である前に、一人ひとり大切な人ですよ。
あのときは理解できなかった。今も、よくわからない。けれど、目の前の侍女は、失敗をした一人の人間なのだということだけは、不思議とはっきりと感じられた。ミラは小さく息を吐く。
「……そのくらいで、そんなに慌てなくてもいいわ」
侍女は驚いたように顔を上げる。
「ですが……」
「拭けばすむでしょう」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
侍女は何度も頭を下げながら受け皿を整え、ようやく胸をなで下ろしたように微笑む。
その笑顔を見ていると、ミラはまた、あのお茶会を思い出した。名前を呼ばれた侍女たちも、こんなふうに笑っていた。あのときの侍女たちの表情と、目の前の侍女の表情が、どこか重なる気がする。そんな風に思っていると、侍女が部屋を辞そうと頭を下げた。
「ねえ……」
ミラは思わず声を掛けていた。侍女が振り返る。呼び止めたものの、何を言えばいいのかわからない。
しばらく沈黙が流れ、侍女も不思議そうに首を傾げる。やがてミラは、小さく視線を逸らしたまま口を開いた。
「あなた……」
そこまで言って、言葉が止まる。何を言うべきか、悩みに悩んで、口からぽろっと言葉が零れ落ちた。
「……名前は?」
侍女は目を丸くした。まさかそんなことを尋ねられるとは思っていなかったのだろう。
「わ、私の名前ですか?」
「ええ」
「……リンダと申します」
その名を聞いたミラは、小さく頷いた。
「そう」
少しだけ間を置いてから、ぎこちなく口を開く。
「ありがとう、リンダ」
それは、生まれて初めて、自分に仕える侍女の名を呼んだ瞬間だった。
リンダは目を見開いたまま動かなかった。やがて、その表情がゆっくりとほころび、花が咲くような笑みへ変わっていく。
「……はい」
その返事は、小さいけれど、とても嬉しそうだった。ミラはその笑顔を見つめながら、胸の奥に芽生えた小さな違和感の正体を、まだ言葉にはできずにいた。
◇
翌日の午後、ミラはディアナから誘われたお茶会へ向かっていた。東屋へ向かう途中、後ろにはいつものようにリンダが控えている。歩きながら、ミラはふと振り返った。
「リンダ」
「はい、ミラ様」
返事はすぐに返ってくる。それだけのことなのに、ミラはほんの少しだけ口元を緩めた。
東屋へ着くと、ディアナはすでに席についており、その隣ではシャーロットが紅茶の支度を整えていた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、ミラ様」
穏やかな挨拶が交わされる。リンダは三人へ紅茶を配り終えると、一歩下がって控えた。
ミラは何気なくカップへ手を伸ばしかけ、それから思い出したようにリンダへ顔を向ける。
「ありがとう、リンダ」
その一言に、リンダは嬉しそうに微笑んで頭を下げた。
「もったいないお言葉です」
それは、ほんの短いやり取りだった。けれど、向かいに座るシャーロットは、その様子を静かに見つめながら、ふわりと目を細めていた。何も言わない。ただ、嬉しそうに微笑んでいる。
その笑みに気付いたミラは、何となく居心地が悪くなり、わざとぶっきらぼうな声を出した。
「……何よ」
シャーロットはきょとんとしたように瞬きをすると、すぐに小さく首を振る。
「いいえ」
そして何事もなかったかのように、自分のカップを手に取った。
「今日の紅茶も、とても美味しいですね」
その一言だけで、話題はそれ以上続かなかった。
ミラは少しだけ拍子抜けしたようにシャーロットを見つめ、それから自分の前に置かれた紅茶へ視線を落とす。立ちのぼる湯気は柔らかく、窓から吹き込む風に揺れてゆっくりと形を変えていく。カップを両手で包み込むと、その温もりが指先へじんわりと伝わってきた。
名前を呼んだだけ。たった、それだけのことだった。それなのに、リンダはあんなにも嬉しそうに笑った。どうしてなのかは、まだわからない。それでも、悪い気はしなかった。
ミラはそっとカップを口元へ運ぶ。紅茶の穏やかな香りが鼻先をくすぐり、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。その表情は、この城へ来てから初めて見せる、どこか穏やかなものだった。
■■■
季節は静かに巡り、王城の庭には秋の気配が満ち始めていた。窓の外では、夏の終わりを惜しむように色づき始めた木々の葉が風に揺れ、柔らかな陽射しを受けてゆっくりと影を落としている。
そんな景色を眺めながら、シャーロットは静かに紅茶を注ぐ。湯気とともに立ち上る茶葉の香りは、こ今では当たり前の日常の一部になっていた。向かいに座るミラも、少し前までのように退屈そうに頬杖をつくことはなく、運ばれた焼き菓子を眺めながら、ゆっくりとカップへ手を伸ばいている。
ディアナは出産を間近に控え、今日は自室で休んでいた。そのため、この日の午後は珍しく二人だけのお茶会になっていたが、不思議と気まずさはない。初めて向かい合った日のような張りつめた空気はいつの間にか薄れ、言葉がなくても落ち着いて同じ時間を過ごせる程度には、互いの存在が日常へ溶け込んでいた。
しばらくは他愛もない話を交わしながら紅茶を楽しんでいたものの、不意にミラはカップの縁へ視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
「ねえ」
「はい」
「前から、ずっと気になっていたことがあるの」
その声音には、以前のような棘はなかった。ただ、心の中で長く温め続けてきた疑問を、ようやく口にしようとしているようなためらいが滲んでいる。
シャーロットは急かすこともせず、小さく微笑みながら続きを待った。やがてミラは意を決したように顔を上げる。
「あなたは、どうして第二夫人になったの?」
その問いを聞いても、シャーロットの表情は変わらなかった。驚きもしなければ、困ったように笑うこともない。
シャーロットは窓の外へ視線を向ける。風に揺れる木々を眺めているうちに、その葉の向こうへ、もう何年も前の景色が重なって見えてくる。
「まだ戦が続いていた頃のお話です」
その一言とともに、胸の奥へしまい込んでいた記憶が、静かにほどけ始めた。
◇
あの頃の王城は、今とはまるで違う場所だった。
廊下を行き交う人々の足取りはいつも慌ただしく、伝令が城門をくぐるたび、誰もが手を止めてその表情をうかがった。届く知らせが勝報なのか、それとも被害を告げるものなのか、それだけで城全体の空気が変わるほど、誰もが戦の行方に心を預ける日々を送っていたのである。
王であるアルベルトは、自ら軍を率いて最前線へ赴いていた。王だから安全な場所にいるということはなく、兵と同じように剣を取り、国境へ立ち続ける。そのことを誰より知っていたディアナは、夫を信じて送り出しながらも、その胸から不安を消すことは最後までできなかった。
昼間は気丈に笑っていても、夜になれば窓辺へ立ち、城壁の向こうに広がる闇を見つめていることが少なくなかった。
軍報が届けば、封を切る前に小さく息をのみ、読み終えたあとには安堵したように肩の力を抜く。けれど、その表情が和らぐのはほんの束の間で、次の出陣が決まれば、また同じように静かな不安がその瞳へ宿るのだった。
シャーロットは、そんなディアナの隣にいた。当時のシャーロットはディアナ付きの筆頭侍女だった。しかし、ディアナの傍にずっといたのは、侍女としての職務使命だけではない。
夜更けまで眠れない日には温かな紅茶を淹れ、食事が喉を通らない日は料理人へ相談して口当たりの良いものを用意し、それでも気持ちが晴れない日は、何も言わず同じ窓辺で外を眺めていた。
励ます言葉が見つからない夜は、無理に何かを話そうとはしなかった。ただ、人は一人で不安を抱えるよりも、誰かが隣に座っていてくれるだけで心が少し軽くなることを、シャーロットは知っていたのである。
ある夜、長い沈黙のあとで、ディアナは窓の外を見つめたまま、小さく笑った。
「シャーロット」
「はい」
「あなたが隣にいてくれると、不思議と怖さが薄まるの」
その言葉に、シャーロットは返事をすることができなかった。自分は特別なことなど何一つしていない。ただ侍女として主人の傍にいただけである。けれど、ディアナにとって、その「いつもどおり」は何ものにも代え難い支えだった。
シャーロットは決して人を励ますのが上手なわけではない。「大丈夫です」と軽々しく口にすることもなければ、気の利いた慰めの言葉を並べることもない。ただ穏やかに微笑み、いつもと変わらぬ調子で「今日は風が気持ちいいですね」「お花がきれいに咲きましたね」と、そんな何気ない話をするだけだった。
それなのに、不思議と彼女がいる場所では、人々の表情が少しずつ和らいでいく。
張り詰めた面持ちで廊下を歩いていた侍女は、シャーロットと挨拶を交わすと、ほっと息をついたように微笑んだ。料理人は新しく焼き上げた菓子を真っ先に見せたがり、庭師は咲き始めた花を嬉しそうに教えてくれる。誰もが足を止め、ほんの一言二言、他愛のない言葉を交わしてから、それぞれの持ち場へ戻っていく。
シャーロット自身は、それを特別なことだとは思っていなかった。ただ目の前の人と笑顔で言葉を交わしているだけである。しかし、戦という終わりの見えない不安の中にあったからこそ、ディアナは改めて気付かされた。
──この子がいるだけで、この城の空気は少しだけ優しくなる。
自分だけではない。城で働く者たちもまた、知らず知らずのうちにシャーロットの穏やかさに心をほぐされていたのだ。
◇
長かった戦が、ようやく終わりを迎えた。
王都には少しずつ笑顔が戻り、人々は再び明日の話をするようになっていた。祝宴の支度に追われる料理人たちの声が廊下まで聞こえ、庭師は季節の花を植え替え、窓から吹き込む風にも、いつしか火薬の匂いではなく土と草花の香りが混じるようになっている。
そんな穏やかな日々が戻ってきたことを、誰よりも喜んでいたのはディアナだった。あれほど毎日のように軍報を待ち続け、夜になれば眠れぬまま窓辺へ立ち尽くしていた姿はもうない。アルベルトが城へいることが当たり前になり、朝食を共にし、何気ない話を交わし、お茶を飲みながら笑い合う。その当たり前を噛み締めるように、ディアナは毎日を穏やかに過ごしていた。
シャーロットもまた、侍女として以前と変わらぬ務めを続けていた。戦の間だけ特別だった時間は終わり、自分は再び主人を支える侍女として生きていくのだと、そう思っていたのである。
だからある日の午後、「少しお話ししましょう」とディアナに誘われたときも、いつものお茶の時間だとしか思わなかった。ディアナは侍女であるシャーロットを誘ってお茶をすることが何度もあったので、「今日はなんのお茶をお淹れしようかしら」と思ったぐらいの、何気ない日常の一幕になるはずだった。
窓から柔らかな陽射しが差し込む部屋には、淹れたばかりの紅茶の香りが満ちている。二人で向かい合い、他愛もない話をしながら一口、また一口と紅茶を味わう。戦の間には何度となく繰り返した、静かで穏やかな時間だった。
しばらくして、ディアナはカップをソーサーへ戻すと、満足そうに微笑んだ。
「決めたわ」
その声は、いつものように自信に満ち溢れていた。シャーロットは首を傾げる。
「何をでしょうか?」
「シャーロット」
優しく名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びる。そして次の瞬間、ディアナはいつもと変わらぬ優雅な笑みのまま、とんでもないことを口にした。
「あなた、今日から第二夫人ね」
「……はい?」
思わず漏れた声は、侍女らしからぬ間の抜けたものだった。耳に届いた言葉の意味が理解できず、シャーロットは何度も瞬きを繰り返す。
ちょうどそのときだった。部屋の扉が開き、執務を終えたアルベルトが姿を見せる。
「ディアナ、少し——」
言葉はそこで止まった。二人の様子を見比べたあと、何とも言えない空気を察したのだろう。アルベルトは眉をひそめながら首を傾げる。
「どうした?」
「ああ、アルベルト。シャーロットを第二夫人に迎えてちょうだい」
「……は?」
戦場では獅子王と恐れられた男とは思えないほど気の抜けた返事に、シャーロットはこんな状況にもかかわらず吹き出しそうになってしまう。
アルベルトは動揺していることを表面上隠しながら椅子へ腰を下ろす。
「今、聞き間違いでなければ、とんでもない話が聞こえたのだが」
「聞き間違いではないわ」
ディアナはにこやかに頷いた。
「シャーロットを第二夫人に迎えようと思うの」
再び部屋が静まり返る。リーファ国は一夫多妻制。アルベルトはまだ第一夫人のディアナしか娶っていない。国王の場合、政治的バランスなどを考慮することもあるが、第一夫人の親族や親しい人物を妻として迎え入れることが多いのも事実だった。シャーロットは慌てて立ち上がる。
「ディアナ様、身に余る光栄ですが、そのようなお話は、お受けできません」
「どうして?」
「私は侍女でございます」
それ以外に答えようがなかった。
「私では、分不相応です」
何度も首を横へ振るシャーロットを見つめながら、ディアナは困ったように、それでいてどこか優しい姉のような笑みを浮かべた。
「あなただからよ」
「え……?」
「シャーロットだから、家族になってほしいの」
その言葉に、シャーロットは返す言葉を失った。ディアナは懐かしむように窓の外へ目を向ける。
「あの戦の間、私は何度も心が折れそうになったわ」
静かな声だった。けれど、その一言だけで、あの日々の重さが伝わってくる。
「眠れない夜もあったし、ご飯が喉を通らない日もあったの。でも、あなたは何も言わず、いつも隣にいてくれたでしょう?」
「それは……侍女として当然の務めです」
「違うわ」
ディアナはゆっくりと首を振る。
「侍女だったからじゃない」
そして、まっすぐシャーロットを見つめる。
「あなたは覚えていないでしょうけれど、あなたが部屋へ入ってくるだけで、私は安心できたの。城のみんなも、そうだった。
だから思ったの。『この子が家にいてくれたら、この家はきっと大丈夫』って」
その眼差しには、少しの迷いもなかった。
「もしかしたら、また戦が起きるかもしれない。そんなときにね、私の傍に、そしてアルベルトの傍には、私の信頼している人がいてほしい」
その声だけが、ほんの少し静かになる。
「それに、万が一、私に何かあったとしても、アルベルトが帰ってくる場所をなくしたくないの。そして、いずれ生まれてくる子どもにも、家族を残してあげたい」
ゆっくりとシャーロットへ視線を戻す。
「その役目をお願いしたいと思える人は、あなたしかいなかったのよ」
その願いは、命令ではなかった。自分よりも家族の未来を願う、一人の妻としての祈りだった。
シャーロットは目を伏せる。何度も辞退しようと思った。今も、自分には不相応だと思っている。けれど、どんな言葉も、その願いの前ではあまりにも小さく思えた。
隣を見ると、アルベルトも困ったように頭をかいている。
「……それは、いつ話が決まったのだろうな」
「つい今さっきよ」
ディアナは楽しそうに笑った。
「あなたは反対する?」
「反対というより、驚いている」
「でも、シャーロットなら安心でしょう?」
アルベルトは少しだけ考え、それから肩をすくめる。
「……それは否定できないな」
ディアナは満足そうに微笑んだ。
「でしょう?」
「我が国の王妃には敵わないな」
その苦笑に、シャーロットは思わず笑みをこぼしてしまう。張りつめていた空気がほどけ、ディアナもつられるように笑う。やがてアルベルトまで吹き出し、部屋には三人の穏やかな笑い声が広がっていった。
その笑い声を聞きながら、シャーロットは静かに思う。恋のためではない。地位のためでもない。この人たちと共に、この温かな場所を守っていきたい。
こうして三人は、夫婦である前に、一つの家族になったのである。
◇
そこまで話し終えると、シャーロットは懐かしそうに紅茶へ視線を落とした。
あの日からいくつかの月日が流れた。それでも、三人で囲む食卓も、他愛もないお茶の時間も、どれひとつ当たり前ではなく、大切に積み重ねてきた日々だったのだと思う。
向かいに座るミラは、しばらく何も言わなかった。カップの中で揺れる紅茶を見つめながら、これまで自分が思い描いていた「第二夫人」という言葉が、音もなく形を変えていくのを感じていた。やがて小さく息を吐き、小さく肩をすくめる。
「……変な国」
その呟きに、シャーロットはくすりと笑う。
「ええ」
優しく頷いたあと、窓の外へ目を向ける。色づいた木々の葉が風に揺れ、その向こうには穏やかな王都の景色が広がっていた。
「そうですね。でも、やり直すには悪くない国ですよ」
ミラはその横顔を見つめ、それからゆっくりと口元を緩める。ほんの少しだけ浮かんだその笑みは、かつて罰としてこの国へ送られてきた王女のものではなく、これからこの国で生きていく、一人の家族の笑顔だった。




