ある集団 :約4000文字
スーパーで買い物中の、とある男。ふいにびくっと肩を跳ね上げ、足を止めた。彼は上半身だけをゆっくりと動かし、周囲を見回した。通路の奥、棚の陰へと落ち着きなく視線を巡らせ、ぴたりと動きを止めた。
かと思えば、次の瞬間、今度は素早く頭を横に振った。
――そんなことあるわけないだろ。何考えてるんだ……!
胸いっぱいに溜め込んでいた空気を、一気に吐き出した。そのとき、横を通り過ぎた老女が怪訝そうな顔でこちらを見ていることに気づいた。
彼は慌てて顔を逸らし、頭を掻きながら背中を丸め、足早にその場を離れた。
ここ最近、彼はずっと『見られている』という感覚に悩まされていた。
道を歩きながら電話で話している主婦。仲睦まじく腕を組んで歩く夫婦。スマホを胸ポケットに差したまま歩く会社員。そんな何気ない人々の視線や仕草の一つひとつが、どうしても気になってしまう。自分を盗撮・監視しているのではないか――そんな疑念が頭の中にこびりついて離れないのだ。
もちろん、そんなことあるはずがないというのは理屈ではわかっている。芸能人や政治家ならともかく、ごく平凡な会社員である自分を誰かが執拗に監視する理由などあるわけがない。
しかし、だからこそ彼は恐れていた。
――おれは病気なのか……?
ただの神経疲れならまだいい。当然、ストレスだって抱えている。現状への不満から来るもの。将来への不安、ついでに過去への羨望――。
だが、すべて人並みのものだ。こんな被害妄想じみた考えに取り憑かれるほど追い詰められているつもりはなかった。
心療内科へ行けば、きっとはっきりするだろう。医者が原因も対処法も教えてくれるはずだ。だが、もしそこで具体的な病名を告げられたら――。そう思うと恐ろしくなり、どうしても足がすくんでしまうのだった。
気にしないように努めるというのも、これがなかなか難しい。視線を意識しないようにしようと思えば思うほど、かえって気になってしまう。
せいぜい、人目を引かないよう地味な服装を心がけると同時に、不審者と思われない程度には身なりを整える。彼にできる対処法といえば、それくらいしかなかった。
自分の頭の中のどこかが壊れ始めているのではないか――胸の奥でじわじわと膨らんでいく不安を必死に抑えながら、彼は食らいつくように日々を凌いでいた。
しかし、ある夜のこと――。
「てめえ、あんだよ!」
「あ、す、すみません!」
仕事帰り、夜道を歩いていた彼は、正面から近づいてくる男に目をやった。浅黒い肌、がっしりとした大柄な体格、茶髪にハーフパンツという姿。
肩を大きく揺らしながら道の真ん中を歩いており、遠目にも柄の悪さがはっきりと伝わってきた。
あれもストーカーか? そんな考えが頭をよぎり、彼はつい相手を凝視してしまった。そして案の定、絡まれたのだ。
「んだよ、おい!」
詰め寄られ、酒臭い息がまともに顔にかかった。男の顔は赤く火照り、目は血走っている。酔っているのは明らかだった。
彼は反射的に頭を下げ、平謝りしながらその場を離れようとした。だが肩を強く掴まれ、その拍子に体勢を崩して尻もちをついた。
野生動物は背を向けて逃げる獲物を追うという。これもまた、同じ理屈なのだろう。男は倒れた彼の背中に容赦なく蹴りを叩き込んだ。
「うぐっ……!」
彼は呻き声を漏らし、反射的に背中を丸め、両手で頭を庇った。だが、その無防備な姿がかえって男の嗜虐心を煽ったらしい。男はにやりと口元を歪め、拳を固めて大きく振り上げた。
「いてっ!」
そのときだった。突然、男が短く声を上げた。直後、石ころがアスファルトを転がる乾いた音がした。
「んだよ! ……なんだ、なんだよ……」
怒鳴り声は途中で勢いを失い、そこには明らかな動揺が滲んでいた。
「なんだよ、お前ら……気持ちわりいな」
吐き捨てるように言い残し、男は足早にその場を去っていった。遠ざかる足音を耳で追いながら、彼はおそるおそる顔を上げた。
――あっ。
目の前の光景に思わず息を呑んだ。
そこには十数名ほどの人々が立っていたのだ。
若い男、主婦らしき女、スーツ姿の会社員、作業着の男、老人。年齢も性別もばらばらな人々が、無言で彼を見つめていた。
次の瞬間、人々はまるで潮が引くように一斉に散り始めた。西へ東へ、横道へと足早に。
彼は慌てて立ち上がり、人数の多いほうの道へ駆け出した。
すると彼らも走り出した。分かれ道ごとに、さらに小さな集団へと分散していく。
「あの! 待ってください!」
必死に追いかけながら、彼は声を張り上げた。
「あ、あなたたちは! 集団ストーカーなんですか!?」
その声に、ようやく三人の男女が足を止めた。ゆっくりと振り返り、無言のまま彼を見つめる。彼は肩で息をしながら唾を飲み込んだ。
「な、なんで助けてくれたんですか……? そもそも、どうしておれなんかにつきまとうんですか? ただの会社員ですし、見た目も普通で、そう、どこにでもいる普通の人間ですよ……」
「はい。確かにあなたは平凡な人間です」
中年の女が淡々と答えた。
「え、ええ、そうでしょう……なのに、なんで」
「なんの才能もなく、能力は平均以下」
「はい……」
「頭も見た目も悪く、声も汚い」
「はい……ん?」
「運動神経は皆無に等しい。体力もない」
「え?」
「やる気も向上心も乏しく、努力を嫌い、話もつまらない」
「いや、ん?」
「気軽に誘える友人もおらず、恋人もいない。この先、結婚できる確率も極めて低い」
「ちょ……」
「平凡どころか、平凡未満。自分の弱さを直視できず、派遣社員でありながら会社員と名乗り、見栄だけは一人前。いてもいなくても社会に何の影響も与えない――そういう人間です」
「いや、さすがに言いすぎでは……?」
彼は震えながら言葉を絞り出した。まったくひどい言い草だったが、的外れというわけでもない。そのことが、怒りよりも恐怖を湧き上がらせていた。
「あなたは、我々の観察対象に選ばれたのです」
「観察って……あなたたち、いったいなんなんですか……」
「宇宙人です。地球人の生態観察を目的に、この星に駐在しています」
女はそう言うと、人差し指で自分の下まぶたを引き下げた。皮膚がぐにゃりと鼻の下あたりまで伸び、その奥から光沢を帯びた青い皮膚が覗いた。
女の左右に立っていた男たちも同様であった。無表情のまま青い皮膚をさらし、そして三人は何事もなかったかのように元に戻した。
「あ、あ、あ、あ……」
彼はぽかんと口を開け、喉をひくつかせた。次に、こめかみに手のひらを当て、ぐりぐりと押しつけた。本物の宇宙人が目の前にいるという現実と先ほど浴びせられた容赦のない罵倒が頭の中でぐちゃぐちゃに絡み合い、思考は完全に混濁していた。
「ちょ、ちょっと待ってください……」
彼は手を前に出し、必死に言葉を探した。
「そ、それなら、なんで僕なんですか? さっき、平凡未満って言いましたよね? 普通に結婚して、子供を育てて家庭を持つような人を観察したほうが、よっぽど参考になるんじゃないですか?」
「我々の星には倫理規定があります。原住民の生活に深刻な悪影響を及ぼしてはならない、というものです」
「人権団体からの抗議がありましてね」
女の隣の男が肩をすくめ、ため息混じりに言った。
「そうか……いや、それなら僕は?」
「あなたには人権がありません」
「は!?」
「もともと、あなたは廃棄予定の個体でした」
「中絶予定だったところを我々が資金援助し、出生後は孤児院へ引き取らせました」
「そ、そんな……でも、観察って……まさか、地球侵略の準備……」
「いいえ。個体数管理の研究です」
「増やしすぎず、減らしすぎず、効率的な調整方法を探っているのです」
「管理……侵略対象ですらないわけか……」
彼はぽつりと呟いた。笑うつもりが、ただ小さく息が漏れただけだった。
「で、でも、どうしてわざわざ助けたんですか……? 現に、こうして僕に見つかってしまったわけですし、放っておいたほうが都合がよかったんじゃ……」
「我々の予測では、あの場で介入しなければ、あなたは確実に死亡していました」
「顔を蹴り上げられて仰け反り、そのまま後頭部を強打。即死です。なんと脆弱」
「しかし、少々接近しすぎたようです。本来、気づかれる予定ではありませんでした」
「長期観察の結果、あなたがあまりにも鈍感であったため、我々の感覚にも狂いが生じてしまっていたようです」
「今後、あなたが我々の存在に気づくことは二度とないでしょう」
これまでどおり生活してください――そう言い残し、三人は薄ら笑みを浮かべ、ゆっくりと手を振った。その姿は闇に溶け込むように輪郭を失い、薄れていき、やがて完全に消えた。
残された彼は膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
呆然と正面を見つめ続ける。しばらくして喉の奥から小さな音が漏れた。
それは笑いだった。
……このまま終わらせてたまるか。見つけてやる……必ず見つけ出してやるぞ。見下しやがって……ああ、きっとおれ以外にも観察されている人間はいるはずだ。
まずは仲間を集め、そして……そうだ。逆に奴らを観察してやるんだ。人間側の協力者がいるに違いない。捕まえて、情報を吐かせてやる。
どこに息がかかっている? テレビ局か、実業家か、はたまた大統領か。そうだ。政府も絡んでいるに決まっている。
だが、どうやって怪しまれずに活動しているんだ。……スマホか? そうだ。思考を盗聴し、行動を操作しているんだ。アンテナはそこら中にある。電磁波で攻撃している!
そう考えると、ワクチンも怪しいぞ。義務だとか言って、子供のうちからマイクロチップを体内に埋め込んでいるんだ……。それから、それから――。




