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普通」というのは、透明なバリアみたいなものだ。
中にいる人間は、その存在にすら気づかない。息をするように当たり前に、その内側で笑い、怒り、日々を消費していく。
けれど、一度でも外にはじき出された人間にとっては、それは二度と突破できないほど分厚くて、冷たい壁に見える。
中学の二年間、僕の時間は四畳半の部屋の中で完全に止まっていた。
いや、正確には、僕だけが止まっていて、世界は残酷なほどスムーズに進み続けていたのだ。
窓の外から聞こえる同世代の笑い声に耳を塞ぎ、昼夜逆転した泥のような時間の中で、僕はただ「普通」から遠ざかっていく自分を眺めていることしかできなかった。
だからこれは、止まっていた時計の針を、自分の手で無理やり動かそうとした記録だ。
世界を救うような特別な魔法も、ドラマチックな奇跡もない。
ただ、朝起きて制服に着替え、教室という名の空間に座り、「普通の高校生」として息をする。
彼らにとってはただの「退屈な日常」が、
僕にとっては、足がすくむほどの命がけの戦場だった——。
朝6時30分。スマートフォンのアラームが鳴る前に、悠聖は目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む白い光。中学時代、昼夜逆転していた頃には「責められている」としか感じなかったその光が、今は「朝が来た」という合図に変わっている。
「……よし」
小さく声に出し、布団を跳ねのける。 鏡の前に立ち、ブレザーに腕を通す。まだ糊の効いたシャツの感触は、少しだけ息苦しい。ネクタイを締め上げる感触は、まるでスイッチを入れる儀式のようだ。
悠聖はこの春、誰も知り合いのいない高校に進学した。 不登校だった過去を埋めるため、そして「普通」を取り戻すための、彼なりのリハビリであり、挑戦だった。
電車に揺られること30分。 学校へ近づくにつれ、胃のあたりがキュッと縮こまる感覚がある。これはまだ、治らない。 校門をくぐる時、悠聖は無意識に背筋を伸ばし、口角を少しだけ上げる。
——ここからは、『普通の高校生・悠聖』の時間だ。
「おー、悠聖。おはよ。宿題やった?」 教室に入ると、前の席の男子・陽介が気安く話しかけてきた。
「ああ、数学? 一応やったけど、合ってるかは微妙かも」 「マジ? 見せて! 昨日ゲームしすぎて寝落ちしたんだわ」 「しょうがないなあ」
苦笑いを浮かべてノートを差し出す。 この会話のテンポ、声のトーン、表情。すべて、家で何度もシミュレーションしたものだ。 陽介は「ゲームしすぎて」と笑うが、悠聖にとってその言葉は少し眩しい。 かつて悠聖にとってのゲームは、現実逃避のためのシェルターだった。けれど彼らにとっては、ただの日常の娯楽だ。
(……この温度差が、バレないようにしないと)
授業中、窓の外を眺める。 グラウンドでは体育の授業が行われている。笑い声、ホイッスルの音。 1年前の自分なら、この光景を想像するだけで吐き気がしたかもしれない。でも今、自分はその「枠」の中にいる。
「……疲れた」
4時間目のチャイムが鳴り、昼休みに入った瞬間、悠聖は心の中で深く息を吐いた。 弁当を持って机を合わせるグループの輪に加わりながら、愛想笑いを浮かべる。
「あー、マジ学校だりー。帰りたいわー」
誰かが何気なく言ったその言葉に、悠聖の手がピクリと止まる。 みんなが同意して笑う中、悠聖だけは喉の奥がつかえたような感覚に陥った。
彼らにとっての「学校」は、面倒で、サボりたい場所。 けれど悠聖にとっての「学校」は、必死に手を伸ばしてようやく掴んだ場所だ。 「だるい」と言えることすら、彼らが手に入れている「普通」の証拠のように思えて、少し羨ましく、そして少し寂しかった。
「悠聖? どうした、箸止まってんぞ」 「え? ああ、いや。今日の唐揚げ、でかいなと思って」
慌てて誤魔化し、唐揚げを口に放り込む。味はよく分からなかった。
放課後。 昇降口を出たところで、悠聖はネクタイを緩めた。 夕日が校舎をオレンジ色に染めている。 今日も一日、なんとか演じきった。バレなかった。普通でいられた。
「……帰ろう」
その呟きは、朝よりも少しだけ重く、けれど確かな安堵を含んで空気に溶けた。 明日もまた、この戦場に来なければならない。 でも、今のところは——「普通の高校生」として、生き延びている。
よろ




