残響としての責任
**降りられなさの詩学・宣言
――終わらないものを終わらせないために――**
私たちは、
終わったことにされる前に、
終わらなかったものを残す。
決めたと言い切らず、
任せたと言い逃れず、
果たしたと言い張らない。
沈黙を欠如とみなさず、
遅れを失敗と呼ばず、
残ったものを隠さない。
責任は軽くしない。
ただ、軽くしたふりをしない。
この宣言は、
行動を促さない。
結論を与えない。
責任は、
果たされることによって終わるのではない。
むしろ、
果たされなかったときにだけ、
その輪郭が現れる。
それは、
声ではなく、
声の後に残る空気の揺れのようなものだ。
誰かが判断し、
誰かが決め、
誰かが説明したあとで、
なお消えずに残るもの。
それは、
行為の中心ではなく、
行為の縁に沈殿する。
引き受けられなかった時間、
言い損ねた言葉、
立ち上がらなかった問い、
断絶のまま残った関係。
それらはすべて、
責任の「残響」である。
残響は、
誰かを直接責めることはない。
しかし、
誰も完全には自由にしない。
それは、
制度にも記録にも残らず、
ただ身体の中に滞留し、
生活のどこかで形を変えて現れる。
残響は、
責任の失敗ではない。
責任の延長でもない。
それは、
責任が完了しなかったときにだけ生まれる、
関係の余白に宿る現象である。
そして、
その余白こそが、
私たちが降りられなかった場所の痕跡となる。
残響は、
語られないまま続く責任であり、
責任が語彙の外へ押し出されたときにだけ
静かに立ち上がる。
それは、
終わらなかった責任の、
もっとも小さく、
もっとも確かな形である。
ただ、
あなたが次に何かを語るとき、
その語の手前に
ほんのわずかな沈黙が生まれるなら、
それがこの本の続きである。




