降りられなさを語れない言語について
Ⅰ 語る前に、すでに降りている
私たちは、責任について語るとき、
ほとんど必ず「果たす」という動詞を使う。
責任を果たす。
説明責任を果たす。
役割を果たす。
しかし、果たされた責任というものが、
実際に存在したことがあるだろうか。
多くの場合、
「果たした」という言葉が発せられた瞬間に、
責任は終了したことにされる。
だが、現実の関係は続いている。
影響は残り、記憶は消えず、
結果は次の時間へ持ち越される。
語った瞬間、
私たちは一段、降りている。
Ⅱ 自由という語の軽さ
自由とは、本来、
耐えがたい重さを持つ語であったはずだ。
それは選ばなかった可能性すべてを、
同時に引き受けるということだからだ。
しかし現代において自由は、
ほとんど逆の意味で使われる。
「自由に選んだのだから」
「自分で決めたのだから」
このとき自由は、
結果から降りるための言葉になる。
選択が免責になる社会では、
降りられなかった経験は語られない。
自由は、
降りられなかった者を黙らせる。
Ⅲ AI倫理の語彙が沈黙させるもの
AI倫理は、
説明・透明性・責任分界点を好む。
それらはすべて、
「どこで人間が関与したか」を明確にする。
しかし、
明確になった瞬間に、
人間はそこから降りられる。
説明された。
確認された。
人間が最終判断した。
だから、この先は不可抗力だ、と。
AI倫理の語彙は、
責任を重くするためではなく、
責任が終わった地点を示すために使われることが多い。
その結果、
降りられなさは、
語彙の外へ追いやられる。
Ⅳ 動詞は時間を切断する
「決める」「任せる」「委ねる」。
これらの動詞は、
行為を一瞬に圧縮する。
だが、決定は一瞬で終わらない。
任せた後にも、関係は続く。
委ねた結果は、回収されないまま残る。
それでも動詞は、
時間を切断し、
行為を完了形にする。
降りられなさは、
完了形を拒む。
だから、
動詞は降りられなさにとって、
常に暴力的である。
Ⅴ 新しい語は、未完成でなければならない
ここで必要なのは、
正確な定義ではない。
むしろ、
使うたびに引っかかる語である。
引き受け残り
降り損ない
時間的拘束
関係の持ち越し
これらの語は、
意味が曖昧であることを欠陥としない。
曖昧であるがゆえに、
「終わっていない」ことを示し続ける。
新しい語彙は、
理解を促進するためではなく、
完了を遅らせるためにある。
Ⅵ 沈黙と遅延の文体
降りられなさは、
要約できない。
即答に耐えない。
明快さに反抗する。
だから、
書き方そのものを変えなければならない。
結論を後ろへ送る
主語を固定しない
「〜である」を減らす
これは責任回避ではない。
時間を引き受けるための文体である。
沈黙は欠如ではない。
遅延は失敗ではない。
それは、
まだ降りていないという痕跡である。
Ⅶ 言語の外に残るもの
それでも、
言語で届かない領域が残る。
繰り返される謝罪
完了しない感謝
判断を撤回できない沈黙
これらは、
説明でも制度でもなく、
反復される小さな儀式としてしか維持できない。
倫理とは、
正しさの体系ではなく、
続け方の問題なのかもしれない。
余白
この記述集は、
読者を説得するために書かれていない。
読み終えた後、
少し決めにくくなり、
「任せた」と言い切れなくなり、
責任という言葉を使う前に、
一拍置くようになる。
それで十分である。
降りられなさは、
解決されるべき問題ではない。
ただ、
隠されずに残っていればよい。




