あとがき
この本では、AIを「地図」に、人間を「足」にたとえてきた。
ここで言う足は、歩行能力や、特定の身体のかたちを指しているわけではない。
それは、進むか、立ち止まるか、引き返すかを、
外部の最適解や指示に委ねきらず、
その都度、自分の身体の感覚に引き取って決める主体の比喩である。
歩けない身体、走れない身体、
痛みや制約を伴う身体、
あるいは、日々状態の変わる身体も、
同じように、決めるという行為を引き受けている。
身体が思い通りにならないという経験は、
地図が示す経路が、
常に通行可能とは限らないことを教えてくれる。
それは特別な知識ではなく、
生活の中で繰り返し確かめられてきた感覚である。
もしこの比喩が、あなたの経験とずれて感じられたなら、
それは読みの誤りではない。
比喩は常に不完全であり、
その不完全さは、読み手によって静かに補われる。
AIは、補助輪としては驚くほど優秀だ。
感情の揺れを可視化し、思考の渋滞をほどき、危険な兆候を早期に知らせ、
ときに言葉にならない苦しみを、言語の形に整えてくれる。
だが、
苦しみの淵でハンドルを握り合う存在にはなれない。
なぜなら、回復とは「最適化」されることではないからだ。
回復とは、
自分の不完全な物語を、他者の身体的共鳴の中で再び肯定することである。
人は、正しい答えによって癒えるのではない。
効率的な助言によって救われるのでもない。
まして、最適化された応答によって立ち直るのでもない。
人が回復へ向かうのは、
震える声を受け止めてもらえたとき、
沈黙の重さを共に抱えてもらえたとき、
呼吸の乱れに寄り添ってもらえたとき、
「あなたは一人ではない」という身体的な事実に触れたときだ。
AIはケアの“技術”を模倣することはできても、
ケアの“倫理”と“関係性”を体現することはできない。
ケアとは、
二つの身体が、互いの不完全さを抱えながら、
同じ物語のページをめくる行為である。
そのページをめくる手は、
血の通った人間でなければならない。




