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"厄災の魔女"と騎士国の王子

【スピンオフ】騎士国の王子が惹かれたのは、聖女ではなく、"厄災の魔女"だった

作者: 小波田けい

※文章の執筆にChatGPTを使用しています。

小さな手のひらの温もりは、今でも覚えている。


「だいじょうぶ?」


あの手のぬくもりを。

あの微笑みを。

あの声を。


俺は、彼女に救われて――

彼女を守るために、生きている。



* * *



カンッ! ガンッ!


鋼がぶつかり合う、耳障りな音が剣修練場に響きわたる。

ラインハルトの剣が、激しく、執拗に打ち込まれていた。


「おいおい、逃げることしかできないのか?

“神に選ばれし騎士”さまは!」


第一王子・ラインハルトが、唇を歪めて嘲笑する。

六歳の幼いアレクシスは、剣を受け止めるだけで精一杯。

だがその一撃一撃が、明らかに訓練の域を超えていた。


「……あっ!」


受け損ねた剣圧に押され、アレクシスはよろめき、土の地面に転がる。


「ふん、やっぱりその程度か」


ラインハルトは肩で息をしながら、剣を振り上げた。

目には、冷ややかな怒りと――押し殺しきれない嫉妬が滲んでいた。


剣を振り下ろそうとしたその瞬間――


「やめてください! ラインハルト兄さま!」


透きとおるような声が響いた。

第一王女・エリセリアが、風のように駆け寄り、アレクシスの前に立ちはだかる。


「幼い子相手に何をしてるの!? こんなにボロボロになるまで……!」


アレクシスは地面に倒れ込み、衣服は土に汚れ、膝や腕には擦り傷がにじむ。

息は荒く、剣を握る手も震えていた。


「いくらなんでも、やりすぎだわ!」


姉の瞳には怒りと悲しみが滲んでいた。


ラインハルトは舌打ちし、乱暴に剣を鞘に収めた。

その瞳には、押し殺した苛立ちが宿っている。


「“神に選ばれた”からって、調子に乗るな。俺は、グランヴァルトの正統な王位継承者だからな!」


そう吐き捨てると、背を向けて修練場を後にした。

足取りは荒く、砂埃を巻き上げながら遠ざかっていく。


アレクシスは、拳を握りしめることも、言い返すこともなく。

ただ、どこか痛みに耐えるような目で、兄の背中を見つめていた。


「……アレク、大丈夫?」


エリセリアは駆け寄り、アレクシスの顔にそっと手を伸ばした。


「こんなに傷だらけになって……ラインハルト兄さま、あまりにも酷いわ」


彼女はハンカチを取り出し、アレクシスの頬についた土を、やさしく拭い取る。


アレクシスは膝をつき、うつむいたまま、かすれた声でつぶやいた。


「……兄様の言う通りです。僕は……弱い。

騎士として、まだまだなんです」


「アレク……」


エリセリアは思わず息を呑む。


「それに……“選ばれた”というだけで、兄様よりも大切にされてる。

……不公平だと思うのも、無理はないと思います」


それは、昔から語り継がれる伝承だった。

かつて、神に選ばれし騎士と聖女が、共に世界を救ったという――奇跡の物語。


だがその奇跡は、百五十年の時を経て、途絶えていた。


魔物はあふれ、民は怯え、世界は徐々に疲弊していく。

そんな絶望の只中に、ようやく届いた新たな神託。


そして、生まれたのが――アレクシス。

この小さな少年だった。


その背中は、まだ幼いのに。

そこには、哀しみと覚悟が、静かに滲んでいた。


たまらなくなったエリセリアは、ぎゅっとハンカチを握りしめ、立ち上がる。

瞳には、堪えきれない思いがあふれていた。





「お父さま、お母さま……!」


王の間に駆け込んだエリセリアは、王と王妃を前に声を張り上げた。


「なぜ何も言わないのです!? アレクがあんなに傷ついているのに……!」


王と王妃は、目を合わせ、静かにため息をつく。

すべてを承知していた――ラインハルトが抱く嫉妬も、それを剣にぶつけていることも。


「……アレクシスには、“何があっても負けぬ心”を持ってほしいのだ」


王は低く、言い聞かせるように語った。


「騎士とは、ただ強いだけでは務まらぬ。世界を背負う者には、心の強さが必要だ。手を差し伸べてしまっては、その重みに押し潰される」


けれど――


近頃、その“試練”は度を越していた。

ラインハルトの苛立ちは日に日に増し、取り巻く貴族たちにも不穏な気配が漂い始めている。


王は、ほんのわずかに表情を曇らせた。


「……護衛をつけよう。信用できる者を、影として」


エリセリアは胸元で手を握り、そっと目を伏せる。


(……アレク、何もしてあげられなくて、ごめんなさい……)



* * *



ある日、アレクシスは孤児院の視察に向かっていた。

その道中、馬車が突然襲撃を受けた。


「――アレク様ッ!」


護衛の声が遠ざかる。馬車が傾き、世界がぐらりと揺れる。





目を覚ましたとき、アレクシスは見知らぬ木造の小屋の中にいた。

ほの暗い室内は、隅に置かれたランプの光だけが照らしている。

窓はなく、扉には内側からしっかりと錠がかけられていた。


ガタン、と音がした。

次の瞬間、扉の隙間から――白く濁った煙が、じわじわと部屋に流れ込んできた。


「……っ! けほっ、けほ……!」


咳き込みながら立ち上がろうとするが、体がうまく動かない。

息ができない。喉が焼ける。目が、熱と涙で滲んで開かない。


何が起きているのか、わからない。

ただ、確実に――何かが迫ってきている。


「たすけ……て……っ」


声をふりしぼって呼んでも、返事はない。

助けは来ない。誰も来ない。


パチパチ、と火のはぜる音が耳元にまで近づいてきた。

木の壁が、炎の赤い光に照らされ、ゆっくりと包まれていく。


熱い。怖い。苦しい。

空気が喉の奥で重くなり、肺がうまく動かない。


(だれか……っ)


視界が、涙と煙に霞んでいく。

思考も、感覚も、少しずつ……炎に呑まれていった。


そのとき――


――ドンッ!


爆ぜるような音と共に、木の扉が激しく吹き飛ばされた。


現れたのは、灰にまみれた黒髪の少年。

アレクシスと同じくらいの背丈だが、その瞳は驚くほど冷静で、一点の迷いもなかった。


彼は言葉もなく、まっすぐ歩み寄ると、アレクシスの手を取って背負い上げた。


「外へ出ます」


それだけを短く告げると、少年は炎の渦巻く小屋を疾走した。

崩れかけた梁を避け、煙の流れを読み、足取りはまるで訓練された兵士のように正確だった。


――数分後。


炎が天を焦がす音を背に、ふたりは夜の空気の中に立っていた。

助け出されたアレクシスの体は震え、息はまだ荒かった。


そのとき、黒衣の少年がひざまずき、静かに頭を垂れる。


「遅くなり申し訳ありません、殿下」


そして名乗った。


「本日より、殿下の護衛を務めさせていただきます。……影とお呼びください」


月明かりに照らされたその姿は、まさに影そのもの。

言葉に無駄はなく、気配は鋭く、ただその瞳だけが、真っ直ぐだった。


アレクシスは小さくつぶやいた。


「……助けてくれて、ありがとう。

でも……僕なんて……弱い騎士なんか、守る価値ないよ」


その言葉に、影は一瞬もためらわず、応じた。


「修行の間、私はずっと殿下を見守ってまいりました」


「どんな理不尽にも、殿下は誰かを恨まず、怒らず、むしろ相手を思い、傷つくことを選ばれた。

それは、強さを持つ者にしかできないことです」


その声は淡々としていた。

だがその静けさの奥には、揺るぎない信頼と敬意があった。


まるで、夜の闇に差し込んだ一筋の光のように、アレクシスの胸にじんわりと温かさが灯る。


しばしの沈黙の後――


「……ありがとう」


アレクシスは、かすかに笑みを浮かべ、顔を上げた。


「これから……よろしく頼む、影」


影は再び、深く頭を垂れる。


「御意」



* * *



七歳になったアレクシスは、初めての大きな役目として、隣国ルミナリア王国を訪れていた。

目的は――“聖女”との顔合わせ。


未来に結ばれる定めの相手。

この世界の未来を担うため、騎士である自分は彼女と共に歩むのだ――そう教えられていた。


とはいえ、まだ幼いアレクシスにとって、政略も神託も遠い言葉だった。


「……広いな」


ひとり城内を歩き回っているうちに、気づけば見知らぬ場所にいた。


春の日差しがやわらかく降り注ぎ、花々がそよ風に揺れる、静かな庭園。


純白のアーチに絡まる花々は、風に乗ってほんのり甘い香りを漂わせ、中央の噴水からは静かな水音が絶えず響いていた。

草木に囲まれたこの場所は、城の中とは思えないほど、穏やかで、優しい空気に満ちていた。


アレクシスは足を止め、しばらくただ立ち尽くしていた。


「……ここ、好きかも」


ぽつりと、アレクシスは呟いた。

そう言った自分に少し驚いて、けれど頬が自然に緩んだ。


……その瞬間だった。


突如、女の悲鳴が響いた。

そして、黒い影のように――異形の魔物が、突如、姿を現した。


鋭い爪と禍々しい気配を纏ったそれは、迷いなくアレクシスへと飛びかかる。


「下がってください、殿下!」


影が瞬時に身を投げ出し、アレクシスの前へ立つ。

だが――


ドンッ!


咆哮と共に繰り出された一撃が、影の体を容易く吹き飛ばした。

その体は無防備に地面を転がり、動かない。


「影……!?」


声が震える。理解が追いつかない。


魔物はその巨体を揺らしながら、容赦なく迫ってくる。


そして――


右腕に鋭い痛みが走る。

噛み砕かれる骨の感触。

血がほとばしり、恐怖で体が凍りついた。


「もう、終わりだ――」


そう思ったその瞬間、世界は光に包まれた。


まばゆい輝きの中、魔物は一瞬で塵となり消えていった。


ぼんやりと目を細めると、

長い髪の少女が静かに立っていた。

その顔ははっきりとは見えなかった。


けれど、彼女の優しい声だけは、鮮明に耳に届いた。


「だいじょうぶ?」


小さな手が、傷ついた腕にそっと触れる。


不思議な温もりがじわりと広がっていった。


「……いたくない」


少女は、かすかに微笑んだ。


「よかった」


その笑顔を見た途端、アレクシスは安心に包まれ、深い眠りに落ちていった。



* * *



謁見の間には、静かな緊張感が漂っていた。


アレクシスは整えられた装束のまま、玉座に並ぶ三人の姿を見上げる。

ルミナリア王国の王と王妃、そして――神に選ばれし聖女、ルクレツィア。


その立ち姿はまさに気高く、凛とした雰囲気を纏っていた。


「このたびは、我が国の第二王子アレクシスをお救いいただき、誠にありがとうございました。命を助けていただいただけでなく、怪我の癒しまで……。感謝の言葉もございません」


グランヴァルトの使者が深々と頭を下げた。


それに応えるように、ルクレツィアは穏やかに微笑む。


「大切な騎士様を守るのは、当然のことですわ」


その言葉には、気品と確信が宿っていた。


堂々とした物腰に、アレクシスは思わず目を見張る。

彼女は――誰よりも強く、揺るぎない光を纏っていた。


そして何より、あの時の手の温もりが、胸に残っている。



『だいじょうぶ?』


小さな手が、傷ついた腕にそっと触れる。


不思議な温もりがじわりと広がっていった。


『……いたくない』


少女は、かすかに微笑んだ。


『よかった』



アレクシスの胸の奥に、ほのかな熱が灯る。


芽生えた想いが、言葉となってこぼれ落ちた。


「聖女様……ほんとうに、ありがとうございました。

わたしを救ってくださったこの命――すべて貴女に捧げます」


一歩、前へ。


凛とした面持ちで、彼は深々と頭を下げた。


「どうか、わたしのことは“アレクシス”と――そう、お呼びください」


ルクレツィアはわずかに目を見開いた。

けれどすぐに、ふんわりと笑みを浮かべる。


「ええ、アレクシス。よろしくね」


柔らかな声とともに、彼女は静かに手を差し出した。


その仕草に、アレクシスは一瞬戸惑う。

だが次の瞬間、決意を宿した瞳でその手を取り、そっと唇を寄せた。


「この命に代えても、貴女をお守りします――聖女様」


それは幼い彼が、心から捧げた、最初の誓いだった。

まだ小さなその背に、騎士としての覚悟が宿りはじめていた。



* * *



魔物に襲われたあの時――

僕は、何ひとつできなかった。


ただ震え、守られることしかできなかった。


……こんな弱いままじゃ、聖女様を守れない。

あの微笑みを、絶対に失いたくない。


悔しさを拳に握りしめ、少年はひとり、夜の訓練場に立つ。


やがて、闇の中から静かに現れる影。


少年はまっすぐにその瞳を見据え、言った。


「……僕を鍛えてくれ。強くなりたいんだ」


影は無言で一礼し、淡々と応じる。


「――御意」



* * *



――十一年後。


「全員、配置につけ! 聖女様に――傷一つつけるな!」


アレクシスの声が、戦場に鋭く響き渡る。


その瞬間、何もないはずの空間が歪み始めた。

黒い裂け目から、牙と爪をむき出しにした魔物たちが次々と這い出してくる。

その数、六体。


「下がれ! 俺が行く!」


アレクシスは剣を抜き放ち、聖女ルクレツィアの前に立ちはだかった。

太陽のように輝く金髪が風に揺れ、

澄み渡る碧の瞳が敵を射抜く。


凛とした額に流れる髪は、粗野とは無縁の気品を纏い、

長身の鎧姿はまるで伝説の騎士そのものだった。


鋭い剣筋が最前列の魔物を一閃で斬り裂く。

だが、その刹那――魔物の爪が右腕を裂き、鮮血が弧を描いて飛び散った。


「くっ……!」


痛みを押し殺し、アレクシスは再び敵に向き直る――

その時だった。


「下がりなさい」


静謐な声が戦場を切り裂き、ルクレツィアは杖を高く掲げた。

次の瞬間、世界が白く染まる。


眩い聖なる光が炸裂し、魔物たちを焼き尽くした。

残る五体も一瞬で塵となった。


彼女は静かに息を吸い込み、迷いも恐れも見せない瞳で戦場を見渡す。



* * *



ルクレツィアは、幾千の魔物を――瞬きの間に焼き尽くしてきた。

その圧倒的な聖なる光は、人々にとって希望であり、絶対の守りだった。


歴代最強の聖女――そう謳われるにふさわしい力を持ちながら、

その影で、彼女は確かに怯えていた。





それは、城の庭園で紅茶を囲んでいた静かな昼下がりのことだった。

春の陽差しが木々の合間からこぼれ、風が花の香りを運ぶ中、

ルクレツィアはふと視線を落とし、呟いた。


「……今は、何とか食い止めているけれど。

いつか、わたくしにも牙を向けるかもしれないわね」


その声は、静かで落ち着いていた。

けれど、その言葉の端に、ほんの僅か――割り切れぬ迷いが滲んでいた。


テーブル越しに見つめたその顔は、いつもと変わらぬ穏やかさの裏で、微かに怯えていた。


アレクシスは、胸の奥で確かな決意を燃やす。


「――ルクレツィア様。俺が、魔女を捕らえます」


ルクレツィアの瞳が、かすかに揺れた。


「……お辞めなさい。危険すぎますわ」


だが、アレクシスは揺るがぬ声で応じた。


「いえ。この命に代えて、あなたを守ります。それが、俺の務めですから」


それは強く、真っ直ぐな言葉だった。


ルクレツィアはしばし沈黙し、やがてゆっくりと顔を上げる。


「――ふふ。頼もしいのね、アレクシス。期待しておりますわ」


やわらかな笑みを浮かべながら、ルクレツィアはそっと手を差し出した。


アレクシスは黙ってひざまずき、その華奢な手を両手で包む。

そして、慎ましく、深い敬意を込めて、その甲に唇を寄せた。


それは忠誠と、誓いと――

そして、ほんのわずかに滲んだ、言葉にならぬ敬愛の証。


春の光が柔らかに降りそそぐ庭園に、静かな誓約の時が流れていた。



* * *



翌朝。

アレクシスは、魔女が現れたという村へ向かうため、自らの屋敷の玄関に立っていた。


背後から静かな声がかかる。


「殿下。右腕のお怪我は……大丈夫でございますか?」


振り返らずに、淡々と答えた。


「ああ、大したことはない」


かつてルクレツィアは、癒しの力をその手に宿していた。

だが、敵を討つための"聖なる光"が強まりすぎた代償として――治癒の魔法は、十年前、静かにその灯を失ったという。


ふと、幼き日の記憶がよみがえる。


小さな手が、そっと自分の傷に触れ、

じんわりと広がった、あの温かさ。

そして、安心させるように微笑んだ彼女の顔――


今はもう届かない、それらすべてが

取りこぼした光のように思えて、胸の奥に、静かな寂しさが芽生えた。


――だが。


アレクシスは眉を寄せ、そっと自分を叱咤する。


いまは、感傷に浸っている場合ではない。

聖女様は、不安を抱えている。

それならば――一刻も早く、安心していただかなくては。


そう心に刻み、アレクシスは静かに屋敷を後にした。



* * *



その日の昼下がり、アレクシスは、魔女が現れたという村に到着した。


噂に聞いていた“厄災の魔女”――

だが、その姿は、アレクシスの想像とはまるで違っていた。


粗末なノースリーブのワンピースをまとい、痩せ細った手足は傷と痣で覆われている。

幼く、あどけない顔立ちはどう見ても十歳前後。とても、“魔女”とは思えなかった。


六歳のあの日、兄に叩き伏せられ、泥にまみれて倒れていた自分の姿が、彼女に重なった。

あのときの悔しさ、痛み、誰にも助けを求められなかった絶望。


――いや、違う。惑わされるな。


アレクシスはそっと目を伏せ、首を振った。


感情に流されてはならない。

この少女が本当に“厄災の魔女”なら、魔物を呼び寄せる瞬間があるはずだ。

そこを見極め、そのときに――捕らえる。


そう、冷静に。迷いを捨てて。


アレクシスは、木陰に身を潜め、少女の一挙手一投足を見逃さぬよう、息を潜めた。


しかし、少女は、魔物を呼ぶどころか、

村の外れをあてもなく彷徨っているだけで、何もする気配はなかった。


アレクシスは、警戒を解かずにその様子を見守り続けた。

そして――その夜。


少女がふと立ち上がり、人影のない広場へと歩き出した。


(来る……!)


アレクシスの手が、腰の剣を掴む。

全神経を集中させ、息を殺す。


少女は、胸の前で、祈るようにそっと手を組んだ。


次の瞬間、広場の空気が白くゆらぎ、かすかな光が輪のように広がった。


(……結界か?)


アレクシスの直感が、危機の気配を察知する。


そして。


少女の周囲に、禍々しい気配が滲みはじめた。

黒く濁った瘴気が、どこからともなく湧き上がり、少女を呑み込むように集まっていく。


少女の体がふるりと揺れ、膝から崩れ落ちた。


「っ……あ……!」


押しつぶされるように、胸元をかき抱く。

それは、恐怖か、苦痛か、それとも、理解を超えた絶望か。


少女は自らの腕に爪を立てた。

細い肌に血がにじみ、それでもなお苦痛に耐えようと必死に震えている。


「う、うわあああああ……!! ああああああっ……!」


叫びとともに、少女は自らの腕に爪を立てた。

細い肌に血がにじみ、それでもなお苦痛に耐えようと必死に震えている。


その姿に、アレクシスの胸が締めつけられた。

少女の叫びが、心の奥深くをえぐるように響く。


そして――記憶の奥に閉じ込めていた光景が、音もなく裂けるようにしてあふれ出した。



ガタン、と音がして。

扉の隙間から、白い煙がじわじわと入り込んでくる。

けほっ、けほっ……! 咳が止まらない。息ができない。

立ち上がろうとしても、足に力が入らない。

喉が焼ける。目が開かない。恐怖が、体の奥まで入り込んでくる。


「たすけて……っ!」


叫んだ。喉が裂けるほど叫んだのに――返事はない。

誰も来ない。誰にも気づかれない。

助けが来ない。来ない。来ない。


パチパチと火がはぜる音が、すぐ近くで響く。

炎の赤い光が、壁を染め、床を舐めるように近づいてくる。

熱が肌を刺し、視界が滲んだ。


怖い。苦しい。怖い。

逃げたい。けれど扉は開かない。体も動かない――



(だめだ……!)


震える体を奮い立たせ、アレクシスは一気に駆け出した。

だがその瞬間、少女の周囲に張られた見えない力の壁にぶつかり、身体ごと弾き返された。


「くっ……!」


地面に膝をつき、歯を食いしばる。

すぐ目の前にいるというのに、触れることすらできない――。


少女は、なおも苦しみの中にいた。

爪を立て、血をにじませながら、小さな体を震わせて……それでも、ひたすら耐えていた。


泣き叫んでもいない。誰かを求める声すら、あげていない。

ただ、一人きりで――絶望の中に、じっと身を置いている。


(どうして……どうして助けを求めないんだ……!)


胸が締めつけられる。

この苦しみは、どれほど孤独だろう。

痛みを訴えることもできず、ただ耐えることしか許されない姿が、焼きついて離れない。


早く終われ。

どうか、早く――。


祈ることしかできない自分が、悔しかった。

無力なまま立ち尽くすしかないこの現実が、憎かった。


そしてやがて――

黒い瘴気が、霧が晴れるように静かに消えていった。

その中心で、少女の体は力を失い、そっと地面に崩れ落ちた。


(……あの子は……大丈夫か?)


胸の高鳴りを抑えながら、アレクシスはそっと近づく。

さきほどまで感じていた結界の気配は、もうどこにもなかった。


彼は膝をつき、慎重にその小さな体を抱き上げる。


――軽い。驚くほど、軽かった。


触れた腕の中で、かすかに胸が上下している。

その微かな鼓動を感じた瞬間、張りつめていた息がふっと漏れた。


(生きている――)


服も髪も汚れ、無数の傷に覆われながらも、その顔立ちは美しく整っていた。


その細い首には、古びた黒い首輪がはっきりと巻かれていた。

中央には血のように赤い宝石がはめ込まれ、不気味なまでの存在感を放っている。


触れれば壊れてしまいそうな儚さが、そこにはあった。


「これが、“厄災の魔女”…?」


思わず、腕に力が入る。


その瞬間――


バチッ、と空気が弾ける音がした。


アレクシスの体が突き飛ばされ、地面に叩きつけられる。


すぐに剣を抜き、身構える。


だが、敵意は……なかった。


少女は、小さな体を震わせながら、ただ怯えた目で彼を見上げていた。

その目は、闇の中に置き去りにされた子供のようで。

恐れと戸惑い、そして、どこか諦めの色を湛えていた。


アレクシスは、静かに剣を下ろし、膝をついた。


「……さっきのは、なんだ?」


少女は、びくりと肩を揺らし、視線をさまよわせた。

小さく息を呑んでから、かすかに唇を震わせた。


「……わか、らない……ときどき……なるの……」


風に消えそうな声。かすれた呼吸。


アレクシスは一瞬、迷うように目を細める。


「あれは……誰かを傷つけるものなのか?」


アレクシスの問いに、少女はぎゅっと胸元を抱きしめたまま、怯えたようにかすかな声で答えた。


「……くろいモヤモヤ……でも……さわらなければ、たぶん……だいじょうぶ……」


その声音には、必死に伝えようとする純粋さがにじんでいた。


(……なるほど。瘴気に触れなければ無害。

だからこそ、あの結界で人を近づけなかったんだ)


助けも呼ばず、たった一人で――


その姿に重なるように、ふと、影の言葉が胸の奥によみがえる。


『どんな理不尽にも、殿下は誰かを恨まず、怒らず、むしろ相手を思い、傷つくことを選ばれた。

それは、強さを持つ者にしかできないことです』


アレクシスは、目の前の少女を見つめた。


傷だらけの小さな体で、誰かを巻き込まぬよう、自分ひとりで、ただ痛みを引き受けていた――そこに、確かな「強さ」を見た。


胸の奥が、じんわりと熱くなる。

それはきっと、彼がずっと求めていた、真実の“強さ”のかたちだった。


ほのかな火が、心の奥に静かに灯った。


アレクシスは、ゆっくりと剣を鞘へと戻した。


「……わかった。なら、それは“悪いもの”じゃないな」


少女の目が、かすかに見開かれた。


そして――ほんの小さく、こくん、と頷いた。


アレクシスは息を吐き、穏やかに微笑んだ。


「皆が怯えてる。……お前、俺の屋敷に来ないか?」


少女の肩が、わずかに震えた。


「……こわいこと、しない……?」


その問いは、怯えながらも、どこか信じたいという願いがにじんでいた。


アレクシスは、まっすぐに頷いた。


「ああ。しない」


また、沈黙。


やがて――少女は、小さな声でつぶやいた。


「……わかった」


こうして、少女はアレクシスの屋敷に迎え入れられることとなった。


──民にとっては脅威であり、聖女すら狙う存在。

“厄災の魔女”と一つ屋根の下で暮らすなど、正気の沙汰ではない。


けれど。


「よし。今日からここがお前の家だ。……名前は?」


しばらく口を閉ざしていた少女が、ぽつりと呟く。


「……ヴェル」


「ヴェル、か。俺はアレクシスだ」


「……あ、あれく……」


「アレクシス。アレクでいいよ」


「……アレクさま」


「よし。よろしくな」



――もっと知りたかった。

この子のことを。

この子の心を。



おわり

最後までご覧いただきまして、誠にありがとうございました。


本作はスピンオフ作品となっております。

本編では、アレクシスとこの少女がこの後どのような日々を歩んでいくのか――

ふたりの物語が、つづられています。


すでに完結しておりますので、ご興味をお持ちいただけましたら、ぜひ本編ものぞいていただけると嬉しいです。


今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。



"厄災の魔女"は、騎士国の王子に拾われ愛される

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