犬がすっかり兄弟になりまして・21
「ドンちゃん!」
初老の女性の悲鳴が上がった。
わき目も振らずに泳ぐリクとカイは決して遅くはない。だがその横を大きく波紋を起こしながら悠然と猛者が追い越す。猛者は波に浮かぶ航の投げた枝をひょいと掴むと、泰然と方向を変え、呆然とその姿を見送るリクとカイの横を通り過ぎると波打ち際へ戻ってきた。
ゆっくりと濡れた砂に膝をつき立ち上がったその姿は海の守り神かと思えるほどに雄々しかった。毛量の多い長い髪と顔の輪郭を覆う長いひげ、太い眉。がっしりとした体躯は南国の戦士を彷彿とさせる。
「ドンちゃん!他人さまが投げたもの、横取りしちゃいけないでしょう!」
タオルを持って駆け寄った初老の女性が『ドンちゃん』と呼ばれた男を叱りつける。なるほど『ドンちゃん』、似合っていると航は感心する。同じく駆け寄った、女性の夫と思しき男性はペットボトルの水をドンちゃんの頭から掛けながら、やはり叱った。
「まったく、いきなり海に入って行ったら驚くだろう?お父さんとお母さんの指示を待ちなさい」
親子なのだろうか。ドンちゃんはかなり良い歳のように見えるが、何か事情があるのかもしれない。それにしても親子3人で海沿いを散歩などなんだか微笑ましくていい光景だなと航が思っていると、ドンちゃんが思い切り頭を振り、その長い髪と髭から大量の雫があたり一面に飛んだ。
「ドンちゃん!!」
ドンちゃんのお父さんとお母さんは叫びながら飛び退き、少し離れたところにいたはずの航も少なからず被害を被った。
「いきなりブルブルしない!」
「ああ!ごめんなさい!」
ずぶ濡れの航に気づいたドンちゃんのお母さんがタオルを航に差し出した。
「いえ、大丈夫です」
航は丁寧に断った。なぜならそろそろ。
「お兄ちゃーん……」
「取られたー……」
リクとカイが海から上がってきて情けない顔をしている。
「おまえらが、あーーーーー!」
言い終わる前にリクとカイがぶるぶると頭を振り、航はますますずぶ濡れになった。
「……すみません……。大丈夫ですか?」
見るとドンちゃんのお母さんは上手に避けていて濡れていない。すごいなと航が思っていると、ドンちゃんのお母さんは楽しそうに笑った。
「そうなりますよね~、犬は」
「はい、これ。ごめんね、うちの子が見境なく横取りしちゃって」
ドンちゃんから取り上げたらしい枝を、ドンちゃんのお父さんがリクに渡すと、リクもカイも満面の笑みで言った。
「ありがとう、おじさん!」
「可愛いですね。ゴールデンとラブ?」
にこにことドンちゃんのお母さんが言う。
「はい。初めて連れて来たんですけど、こんなにはしゃぐと思わなくて……」
初めてと言ったが、もしかしてリクとカイは両親に連れて来られたことがあったのかもしれない。そのときもこんな風に海に突進して両親を慌てさせたのかもしれないなと航は思った。
「ゴールデンもラブラドールも泳ぎが得意ですもんね。海見たら入りたくなっちゃうよね?」
寄って来たリクとカイの頭を撫で、ドンちゃんのお母さんは嬉しそうに笑う。
「うちの子も海が大好きで、隙あらば入ろうとするから止めるのが大変で……」
ドンちゃんのお母さんが振り返った方を見ると、ドンちゃんは砂浜にどっしりと座り、物憂げに遠くの海を見ていた。
「ご家族、仲が良いんですね」
「この歳でひとり息子なもんだからなんだか甘やかしちゃって。ダメねえ」
ちっともダメとは思ってないようで、ドンちゃんのお父さんとお母さんは笑った。
一緒に笑いながら航はうらやましいと思った。もし両親が存命なら、こんな風に一緒に海辺を散歩した日が来ただろうか。一緒に歩くだけでも親孝行になっただろうか。
「くまさん!」
可愛らしい子供の声がした。
「くまさん!」
小さな子供がドンちゃんの背中を叩いた。ドンちゃんはゆっくりと振り返り子供を見た。
「あ、こら!やめなさい!」
子供の母親らしき女性が慌てて子供を引きはがす。そしてドンちゃんのお母さんに向かって頭を下げる。
「すみません……!」
ドンちゃんのお母さんは怒るでもなくにこにこと会釈を返した。
身体も大きく、長い髪も髭ももじゃもじゃとしたドンちゃんは幼い子から見ればくまさんに見えなくもないのだろう。気持ちはわからなくもないが、本人を前にして言われたら親としてはたまったものではなかろう。言われた本人も家族も少しは怒っても良さそうだが、ドンちゃん一家は言われ慣れているのか全然怒らない。それどころかにこにこしている。ドンちゃんの身体の大きさは、そのまま器の大きさに直結しているのか。航は感嘆と共に尊敬の念を表した。
「優しいんですね」
ドンちゃんのお母さんは胸を張って笑った。
「ドンちゃんのドンはポセイドンのドン。海より広い心の持ち主なのよ」
「ポセイドン。素敵なあだ名ですね」
ポセイドンと言えばギリシア神話の海の神様である。それくらいなら航も知っていた。泳ぎの上手なドンちゃんにはぴったりだ。
「ううん。名前よ。本名」
「本名?」
おや?と航は思った。なんだか雲行きが怪しい。
「え、もしかしてドンちゃんは外国のご出身……?」
恐る恐る航が訊くとドンちゃんのお母さんは空を見上げた。
「たしかもともとはカナダだけど、ドンちゃんのお父さんとお母さんは日本で生まれ育った子じゃなかったかしら」
「えーと、ドンちゃんはもしかして……」
ドンちゃんのお母さんは驚いた顔で航を見ると、次の瞬間笑いながら言った。
「あらやだ、あなたも熊だと思ってたの?ドンちゃんはニューファンドランドっていう種類の犬よ」
ドンちゃん、おまえもか。
航は天を仰ぎ、額を押さえた。




