犬がすっかり兄弟になりまして・1
やっと保険が下りた。
一時はどうなることかと航は焦った。
生保レディに山奥の火事場から犬逃がしていたらケガしましたと言ったら、なんなんです何してたんですなんでそんなところ行ってたんですと問い詰められ、さんざんっぱら調査されそうになったが、どうやらあの火事はニュース沙汰になったらしく、それ以上の追及も無く、時間は多少かかったが無事に入院・通院費まで支払ってもらうことができた。
なにせ美馬の祖父『柱国』に立て替えてもらっている以上、なるべく早く返済しなければと航は気が気ではなかったのだ。
きっちり十円単位まで封筒に入れ、現金だけではなんなのでお礼のお菓子など添えて美馬の部屋へ向かおうとしていた。
たしかに立て替えてくれたのは『柱国』なのだが、病院で支払ってくれたのは美馬である。というか、現金持っていきなり『柱国』の部屋へ突撃するのもヤバかろう。見る人が見たら一番ヤバいパターンである。かといって一人暮らしの独身美女の家にのこのこ現金持ってお邪魔するのも人から見れば、それこそ『柱国』なんぞに見られたら一発アウトのような気もするが、相手は航のことを『小次郎』の生まれ変わりと思っている天然美女の美馬である。美馬の横には強面護衛の『曹操』も『パーカー』もいるはずである。こっちも焼き鳥大好きイケメン『リク』と『カイ』を連れているのである。そうそう誤解はされないであろう。
『5階です』
エレベーターの音声に一歩踏み出すと、すぐに美馬家の門扉がある。
「今日も美馬さんちでごはんなの?」
ついて来たリクとカイがワクワクとした目で航を見た。
「ちげーわ。そうそう人様の家でメシが食えると思うなよ。立て替えてもらってた入院費を返しに来たんだよ」
「おれたちの入院費?」
インターフォンを押そうとした航の指が止まった。
「え?」
「お兄ちゃん、人間だから自分の分自分で払ってきたんでしょ。ぼくたちの入院費高いってお父さんとお母さんも言ってたもんね。なのに美馬さんがずーっと面倒みてくれてたから」
「だよね。お礼しなきゃね」
犬とは思えない義理堅いことを言いながら、リクとカイはうんうんと頷きあっている。
『……動物病院代……』
そういやそんなことを美馬さんもちょいワル紳士・藍沢も言っていたと航は思い出す。火事場のケガと保護犬からの感染を検査するために病院に入院していると。そして退院してからも、航が退院する日までしばらく美馬がリクとカイを預かってくれていたのだ。
全然そこまで考えていなかった航は蒼白になった。
『……どうしよう……足りない……』
封筒に用意したのは自分の入院費分。リクとカイの入院費等々はわからないが、動物病院の費用はとんでもなくかかるとうすうす知ってはいる。脳裏にすぐさま貯金の残高を思い浮かべるが、いやこれいったん定期を解約するとかしないとなどと考えているうちに、なぜかピンポーンとインターフォンが鳴ってしまった。
「!?」
リクとカイが航の手に手を重ね、インターフォンを押させていた。
「はーい!」
すぐに美馬の返事が聞こえ、少しもしないうちに扉が開いた。
航は鬼の形相でリクとカイの頭上に振り上げた拳をいったん下げるとすぐに眉を下げ、門の外側から美馬に言った。
「あの、突然すみません。遅くなりましたが、立て替えていただいてた入院費をお返ししに来ました」
航が両手でお菓子とその上に乗せた封筒を差し出すと、つっかけを履いた美馬は「まあまあ」とおばさんのような相槌を打ちながら出てきた。
美馬は両手でそっと押し返すといたって真面目な顔で言った。
「受け取れません。これは助けていただいた私が支払って当然のことなので」
「そうはいきません。僕からではなく、掛けていた保険が出たということで受け取っていただかないと。それに、犬たちの治療費も立て替えてもらってるのに。……すみません……。実はそのことすっかり忘れてて、今日はお支払いできないんですけど、そちらも近いうちに持ってきますんで……」
頭を下げてなおもお菓子と封筒を突き出す航に、負けじと美馬も防御する。
「いーえ!それも私が払って当然なんです!私は命を助けていただいたんですから!」
「駄目です!美馬さん!」
航は顔を上げ、全然周りに誰もいないのはわかっているが、一応声をひそめて美馬に言う。
「お金のことはきちんとしておかないと、おじいちゃんに迷惑がかかるでしょう……!」
美馬は明らかにムッとした。
「なんでおじいちゃんが出てくるんです。お金払ったの私です」
「え。だって藍沢さんがおじいちゃんが立て替えてるって……」
「おじいちゃんだから気にしてたんですか?だったら大丈夫です。支払ったの孫の私ですから。私なら大丈夫でしょう?」
「それでも駄目です!」
危うく丸め込まれそうになり、航はぐいとお菓子を押し出した。
「孫も駄目だし、孫じゃなくても駄目です!受け取ってください!せっかく保険が下りたんですから!」
「おじいちゃんも私もダメなら、施設から出たと思ってください!会社が出してくれたと思ったら楽でしょう!?」
「なんでそうなるんですか!施設はなんの関係も無いでしょう!?」
「ありますよ!社長の私の窮地を救ったんだから労災です!労災で出ます!」
「いや、聞いたことないです、そんなの!」
「受け取りなさい、沁。門の前でいつまでもうるさいわよあんたたち。ファミレスのレジ前の主婦じゃあるまいし」
妙に貫禄のある冷静な声の方を見ると、ドアの中から黒のパンツスーツを着た、背筋の伸びたただものではない風格のあるご婦人が航を見ていた。