5 ファーストキスは紅茶の香り
自然と、小岩剣は目が覚めてしまう。
時計を見ると6時を少し過ぎたところ。
赤城南麓地区で鳥の囀りを聞きながら、ログハウスで迎えた朝。だけどまだ、誰も起きておらず、小岩剣はとりあえず2階の寝室から1階の洗面所で顔を洗って来て寝室に戻る。
しかし、洗面所はさっきまで使われていたような形跡があったので、奇妙に思いながら寝室に戻る。
(朝メシまで世話になるのはな。)
と、思いながら寝室に戻った時、なぜ洗面所にさっきまで使われていたような形跡があったのか分かった。
玲愛が起きて、小岩剣の寝室に入る前に顔を洗ったのだ。そして、玲愛は今、小岩剣の寝ていたベッドの上で仰向けになって目を瞑っている。
小田急60000系ロマンスカーNSEを思わせる青と水色に赤いラインが入った服。
安らかに、人形のような寝顔に触れるとモフモフしそうな頬。
(考えられる事は、添い寝してビビらせようとしたが、俺が居ないのでベッドにとりあえず入ったら寝ちまったってパターンだろう。触ってはならない。埼京線や武蔵野線の痴漢冤罪で遅延って話になる。)
と、小岩剣は思う。
しかしながら、どうするべきか?
JR貨物では貨物列車をメインに扱うため、接客対応の研修は必要最低限しか受けておらず、このような時の対処法が分からず、ベッドに腰を下ろして考える。
だが座った瞬間、ベッドが揺れた。
(いっけね!)
と思った時、小岩剣の左手が玲愛の右手に掴まれていた。そしてそのまま、小岩剣の左手を自分の口元に持って行くと、玲愛は小岩剣の左手を食べようとするので慌てて、
「玲愛さん!ちょっと!」
と、空いている右手で玲愛の頬を抓る。
「ダメだよワンコ君。」
「えっ?」
次の瞬間には、小岩剣の身体は一回転していた。そして、視界の先にはニヤリと笑う玲愛の顔、その向こうに天井。玲愛に引き倒されたのだ。
「起きていたのですか?玲愛さん。」
「ダメだよワンコ君。寝ている女の子にイタズラしちゃ。」
「してないです!自分はー」
「でも、ワンコ君なら許しちゃうなぁ。お姉ちゃん、ちょっとエッチなワンコ君も好きだなぁ。」
「何をー」
「そんなワンコ君には、お仕置きの変わりに、いいことしてあげる。」
玲愛の綺麗な顔が一気に近づいてきて、小岩剣は対処出来ず、次の瞬間には、言葉を漏らすことはできなくなった。
唇が、重なったためだ。
咄嗟に衝突事故を想像した小岩剣はその瞬間に思わず目を瞑り、衝突に備えたが、波型連結器に優しく連結するように玲愛は唇を当てた。が、それでは済まないらしく、なすがままにそれを受け入れる。抵抗はしない。いや出来ない。
(ジャンパ線-。ブレーキホース-。貫通幌-。何?これ?)
そのどれとは分からない。
(連結器は何?密着連結器?それなら、新幹線用密着連結器?)
どのくらい、そのような滅茶苦茶なことが頭の中を駆け巡っているだろうか。
状況確認のため、目を開くと目の前には薄く瞑っている玲愛の目。そして可愛らしい顔。
玲愛は両手を小岩剣の頬に添えている。
小岩剣はベッドに手を伸ばしたまま。なぜなら、力が入らないのだ。
何分、何十分していたのか分からない。もしや1時間近くしていたのかも知れぬ。階下から日奈子か恵令奈が上がって来るらしき足音が聞こえてようやく、玲愛は唇を離すと、なにか味見でもするかのように唇を舌で舐めながら、「今度はこの続きもね。」と、いやらしく笑った。
唇が離れてから、小岩剣は玲愛にキスされたことに改めて気付いた。
「おはよ!」
と、日奈子の声。
「へへっ。可愛いから、ちゅーしちゃった!日奈子もする?」
玲愛はクルクルと回りながら部屋を出るが、小岩剣は全身の力が玲愛にキスされた際に吸い取られたようで、なかなか起き上がれなかった。
ログハウスを出発する際、東郷三姉妹全員と連絡先を交換したが、玲愛は出発間際に「普段は50号沿のAK50ってチューニングショップ兼カフェ・カートコースで働いてるから、よかったら来てね。」と言った。
からっ風街道を一度三夜沢まで行った後、三夜沢から大間々までのワインディングを攻める。
時折、タイヤを鳴らせるくらいになっていた。
「タイヤを鳴らすのは、タイヤのグリップ。つまり、踏ん張る力を最大限に発揮出来ていること。」
と、昨夜、恵令奈に教わった。
「そして、タイヤを横滑りさせながら走行させるのをドリフト走行。ラリーや峠道で行われるヒルクライムやジムカーナでは、速く走るために、積極的にドリフトを行う必要があって、特にタイトコーナーやヘアピンなどでタイムを出すのにドリフトが有効なテクニック。」
昨夜教わった事を復唱しながら、コーナーを攻める。
(FFオートマ車の場合は、スピードに十分乗った状態でDレンジから2レンジにシフトダウンしてフェイントを入れ、ドリフトへのきっかけを作って-)
見事に失敗した。
「あっちゃー。」
と、溜め息。
そして、からっ風街道を駆ける間には消えていた、玲愛とのディープキスの感触が、停車するとまた身体の中から思い出される。
それは、「見ず知らずの年上の女性にファーストキスを奪われた淫乱野郎」と言う烙印のようだ。
再度発進しようとしたところへ連絡が入る。
相手は同じN-ONE乗りの先輩である、加賀美咲。
「今日はお休み?桐生のベーカリーカフェレンガってとこでモーニングするんだけど来る?」
二言返事で行くと言った。
からっ風街道の大間々側起点から大間々の町まで降り、渡良瀬川に沿って走り、桐生市の水道山の裏の吾妻山の麓の小さな峠道に、ダークグリーンの車体にに金帯を巻き、リアの窓ガラスにゼッケンナンバーが書かれた加賀美咲のN-ONEが入るのを見ると、小岩剣もそれに続く。
加賀美のN-ONEは、N-ONEオーナーズカップ仕様。更に加賀美はN-ONEオーナーズカップに参加するレーシングドライバーだ。
と言うと聞こえはいいが、N-ONEオーナーズカップ参加車両はエンジンのチューニングやECUのリミッター解除は認められていないため、加速性能はノーマルのN-ONEと何ら変わり無い。そのため、小岩剣が加賀美と同じタイミングでブレーキを扱い、同じタイミングでアクセルを踏み、同じようにステアリングを扱えば、加賀美と限りなく同じ走り方になって行くのだ。
しかし、加賀美はバックミラー越しに後ろを走る小岩剣のN-ONEの走りが少し変わっているのに気がついた。
(旋回している状態で一瞬、サイドブレーキを蹴っ飛ばしてる?)
それは、昨夜、玲愛から映画を観ながら教わった、サイドブレーキドリフトをやろうとしていたのだが、足踏み式のサイドブレーキではうまく行かない。
桐生が岡遊園地裏手のS字。
(FFは横を向いてスライドしようとする力よりも、直進しようとする力が強いから、アクセルコントロールで車を内側に向かせる技術も有効。この方法をタックイン。)
日奈子から聞いた、タックインをやろうとしたら思い切り内側に巻き込まれる挙動を示してスピンアウト。
(あっちゃー。)
と、加賀美は止まり、スピンアウトした小岩剣に歩み寄る。
「タックインやろうとして、失敗しました。」
「落ち着いて。もう着くから、紅茶飲んでリラックスしよ。」
と、加賀美。
ベーカリーカフェレンガに入る。
元は大正9年に建てられた、イギリス積みのレンガ造りののこぎり屋根工場の建物だったが、それをカフェスペースのあるパン屋にリノベーションしたのだ。
「紅茶でいい?飲み物は私が奢る。」
「ありがとうございます先輩。自分は紅茶でお願いします。コーヒーは苦手なので。」
実はコーヒーを飲めない小岩剣。
これもまた、大人になれない一因なのかと思う。
「さっきのは、オーバーステア。通常レベルの直進安定性を持った車が、定常円旋回で一定の舵角のままスピードを上げていった際、後輪の接地摩擦力が遠心力に負けちゃって、車が円の内側に巻き込まれること。」
ふむふむ。と、小岩剣は頷く。
東郷三姉妹もレーサーであるが、乗っている車が違いすぎる。故に同じN-ONEでレースをしている加賀美の方が、直ぐに小岩剣の身に入る。
「オーバーになったら、コーナーの向きと反対側にハンドルを切って当て舵を当てる。この当て舵が、カウンターステア。」
と、自分の身体と腕で表現する。
「えっと、こうなったら、こう?」
小岩剣も自分の身体を動かして、カウンターステアのイメージトレーニングをしてみる。
後ろから、加賀美が小岩剣に手を当てる。
「はいここでオーバーステア気味になって、はい!」
その感覚にまたも、玲愛のディープキスの感触まで思い出してしまい、思わず紅茶を飲んだがまだ熱く、口の中を火傷してしまった。
異性の身体に触れることもまるで無く、おまけに性知識はほとんど欠落している小岩剣には、今朝の玲愛の行為は刺激が強過ぎたらしい。
「今日は、カンナとアヤ仕事。なんだけど、私はお休み。」
そうだ。
今日は土曜日だった。
土日祝日関係ないエッセンシャルワーカー故に、曜日感覚が無くなってしまったようだ。
「カンナから頼まれたのよ。「つるぎ、かなり無理してる。俺達の話について行こうとしても、教科書の知識だけだし、話題がズレてしまっててついて行けず、もどかしい思いをしているかもしれない」って。」
図星だった。
だが、それを聞いて、小岩剣は三条神流が自分の事を気にかけてくれていると安心した。
「その通りです。車の話をしようにも、自分達の車の改造や走行経験に関する内容。故に、ノーマルのN-ONEに乗っている自分が入れないのです。」
「貨物列車の話の時は盛り上がれたよね?」
「そうですね。」
「ふーむ。何か車関連で新しいことはあった?タックインしようとして失敗してた感じからして、何かあったように思えるけど。」
小岩剣は考えた。
が、嘘を隠せないのも小岩剣の強みでもあり、弱さでもあった。
「あったね。」
小岩剣、頷いた。だが、真っ先に浮かぶのは、玲愛にされた事。
首を横に振ってから、
「実はー」
と、昨夜、からっ風街道を走っていたら東郷玲愛と会って、そのまま東郷三姉妹のログハウスに招かれ、一泊過ごしながら、車の知識を学んでいたと伝えた。しかし、髪はセミロングで光に当たると蒼みがかった色に見える髪質に顔つきは人形のように可愛らしいが少し童顔の玲愛の顔を思い出すと、反動で、玲愛の綺麗な顔が近づいてきて、盛岡駅や福島駅で秋田新幹線「こまち」や山形新幹線「つばさ」が東北新幹線「はやぶさ」「はやて」「やまびこ」に併結するように、玲愛と自分の唇が思い切りくっ付いた上、その後の事を思い出してしまい、言葉に詰まる。未だ、口の中にはその時の感触に加え、その時からずっと渇きに似たような感覚が残っている。おまけに身体には、玲愛の身体の温もりまで刻まれてしまっている。
「つるぎ君。私は隠し事嫌いよ。少なくとも、私には言いなさい。エッチなことしたならしたで構わないから。怒りはしないよ。」
「ー。」
どちらかと言うと、玲愛では無く、加賀美の方が小岩剣にとって大切に思っているし、加賀美の方に気がある。
その加賀美に嫌われるかもしれない。
それでも、やはり隠し切れず打ち明けた。
加賀美は最後まで、黙っていた。
話している間、加賀美は冷たい目をしていた。それだけに、小岩剣は一つ一つ話す度に怖い思いをした。だが、加賀美は終始無言。
全てを話した。
小岩剣は身構えた。
怒鳴られて、罵詈雑言を言われ、加賀美に嫌われるのだと思ったからだ。
「なるほどね。」
と、加賀美は冷たい溜め息。
「やっちまったのは仕方ない。怒っても、やっちまった事実は消えない。人によっては確かに変な目向けながら、うるせえ事言うだろうけど、私は言わない。もちろん、カンナも。」
「ー。」
「私に言って、少しは楽になった?」
正直、小岩剣はこの後が怖い。
だが、言った事で少しだけ身体が軽くなったのは感じた。そういえば、今朝、からっ風街道を走っていた時には玲愛の行為の事は忘れていた。なのでそれも引っくるめて言う。
「つまり、玲愛のやった事は、つるぎ君にとってその程度のこと。変な気を起こさないで、つるぎ君はつるぎ君であり続けるのよ。それが大事。」
と言う加賀美の顔は笑っていた。
「ちなみに今までにキスの経験は?」
「無いです。」
「えっ?って言うことはファーストキス奪われちゃったんだ!しかもそんな形で。おまけにディープとは。ありゃまぁ。」
加賀美は笑いながら言う。
そうすることで、萎縮してしまう小岩剣を和ませようとしたのだ。
加賀美に釣られ、小岩剣も「加賀美さんが相手だったらー」と苦笑いを浮かべる。そうしている内に、今朝の経験したことの現実味は急速に薄れていき、「全て想像の産物による幻だったのでは?」と思ったのだが、ようやく飲める温度になった紅茶を口に運ぶと、押し倒された時の玲愛のニヤリと笑う綺麗な顔や、玲愛に唇を重ねられたと感じる間もなく、自分の中に捩じ込まれて行く物や、玲愛の息遣いが思い出され、それが小岩剣の身体を火照らせる。
それによって、「見ず知らずの年上の女性にファーストキスを奪われた淫乱野郎」と言う烙印が、より強く押されたように感じた。