5 夫の知らない彼女の微笑
忙しい執務の間、ふと顔を上げると窓から夫と夫の愛人とおぼしき女が見えた。
別館からも見える中庭で夫と仲良くお茶を飲んでいたのだ。
愛人は私が想像していた以上に美しかった。
さらに、皮肉な事に、私と同じ銀髪にアイスブルーの瞳だ。
ただし、人に与える印象は真逆だ。夫の好みだという、可憐さや儚さがあった。
衝撃を受けたのは、愛人が想像以上に美しかったからではない。
夫が私には一度として向けてくれなかった柔かな笑顔を愛人に向けていた事だ。
あれだけ言われても、心のどこかでは信じていた。私への情も多少あったから結婚してくれたのだと。
けれど、あの愛人に向けていた笑顔を見ると、今まで自分に向けていた笑顔が表面的なものだったのだと理解できてしまった。
公爵夫人として相応しい身分と才覚を持った女だから結婚しただけ。
求めているのは、その能力だけ。
自分の役に立つのなら多少優しくしてやるが、ただそれだけ。
結婚し、愛人が妊娠したから、もう正妻に優しくする必要もなくなった。
だから、夫は、私を気遣わなくなったのだ。
「何の御用でしょうか? 奥様」
私が正妻だと分かるのは、夫といた所を見たからか、明らかに貴族夫人だと分かる格好のせいか。
今日、夫はおらず、中庭で一人でお茶を飲んでいた愛人は、前触れもなく現れた正妻に訝し気な視線を向けた。
アダムや使用人達の目を盗んで中庭にやってきたのだ。
「あなたと仲良くなりたくて」
私はテーブル越しに愛人の向かいに立った。
「わたくしと?」
まさか正妻が愛人にそう言うとは誰だって思わない。愛人は当然ながら意外そうな顔になった。
「旦那様の御子を宿したと聞いたわ。その子は戸籍上は私の子になるし、子の生母といがみ合いたくないもの」
「そうですか」
愛人は納得したというよりは、他に言いようがないから言ったという感じだった。
「私、これでもお茶を淹れるのは得意なの。お近づきのしるしに、どうか飲んでちょうだいな」
私は愛人の返事を待たずに、離れた所に置いてあった新しいティーポットを手に取った。
カップに紅茶を淹れると愛人からは見えないように握っていた小瓶の蓋を開け中の液体を注いだ。
「さあ、どうぞ」
にこやかに飲むように勧める私に、愛人は優雅な仕草でカップを取り上げたが――。
「あっ⁉」
愛人は驚いた顔で私の斜め後方に視線を向けたので、私もつられて、ついそちらに目を向けてしまった。
何もない。いつも通りのジョンソン公爵邸の中庭だ。
怪訝な顔で向き直る私に、愛人は申し訳なさそうに言った。
「申し訳ありません。旦那様のお姿が見えた気がして」
「そう」
愛人が一口飲んだのを確認すると、私も自分のカップに口をつけた。
愛人の様子を注視する。
一分、二分、三分。
何も起こらない事に疑問を持った私に強烈な眠気が襲ってきた。
眠気に耐えられず椅子ごと地面に倒れた私を立ち上がった愛人が冷ややかに見下ろしていた。
「旦那様は、あなたが聡明だと言っていたけど、それは勉強においてだけのようね。今回のように、万が一カップが入れ替えられた時のために多少見分けがつくようにもしない。保険で自分の分にも毒を盛っておく事もしない。最悪な事態を想定して解毒薬も用意してないなんて、間抜けにも程がある」
愛人は地面に這いつくばる私に妖艶な微笑を向けた。それは、私が彼女に抱いていた、そして、夫が抱いているだろう印象とはかけ離れていたが、見惚れるほど美しかった。
「本気で人を殺す気なら、こんな杜撰で犯人がすぐ分かる方法を取るべきではなくてよ」
見抜かれていたのだと私は覚った。
夫の心を奪い夫の子を産む、この女をどうしても許せない。
だから、殺そうと思った。
彼女のお腹に夫の子がいようと関係ない。
いや、むしろ、自分以外の女が夫の子を産むのを、どうしうても許容できなかった。
……本当なら、憎むべき相手は、愛人ではなく夫なのだろう。
私の想いを知りながら利用するフェリクス・ジョンソン公爵こそ憎むべき相手だ。
それでも、私を愛していないと明言した男だのに、私には彼を憎む事がどうしてもできなかった。
私を愛さず虐げていた両親は、簡単に憎み嫌い、躊躇わずに報復する事ができたのに。
「……お前も、いずれ旦那様に捨てられるわ」
夫が彼女の美しい外見だけに心奪われているのなら、老いて美しさが衰えれば、いずれ捨てられる日がくるだろう。
「そうかもしれないわね」
愛人は淡々と返した。
彼女にとって夫の愛など心底どうでもいいのだと私は気づいた。
捨てられるのなら仕方ない。
臨機応変に対処するだけだという、思い切りのよさが透けて見えた。
それは、愛人という不安定な立場がそうさせるのか、彼女という女の本質か。
(……私の負けね)
外見通りの、男に縋っていかねば生きていけないか弱い女だと思っていた。
だが、正妻が自分を殺すのに気づき、それを淡々と対処できる、狡猾で、したたかな女だった。
夫は、きっとこんな彼女を知らない。
それを思うと、彼女に殺される自分がいうのも何だが、哀れに思えた。
いつも夫に向ける可憐な微笑よりも、今、死に逝く正妻に向ける妖艶な微笑のほうが何倍も美しかったからだ。
夫は、そんな彼女の微笑みを生涯知る事はないのだ。