19 気が済むまで傍に置けばいい
悲鳴を上げていたエヴァンジェリンの様子が変わった事に、目の前の「妹」は気づいたようだ。
悲鳴を上げていた姉が、先程までのように畏怖でも恐怖でもなく、ただ静かな眼差しで妹を見ているのだから。
「お姉様? いえ、貴女は、りあ?」
「りあ」は「彼女」しか呼ばなかった毬愛の愛称だ。
それだけでなく、今の自分は、姿や声が違っても、彼女が「彼女」であれば分かるのだ。
とはいっても、彼女のように、前世の人格が目覚める前の段階で、魂を同じくした人間だと気付くのは、さすがに無理だと思うが。
「ええ。『私』よ」
誤魔化そうが彼女には無駄なのは分かっているので素直に認めた。他人に興味ないくせに観察眼が優れているのだ。隠し事をするのは無意味だ。まして、「りあ」に関する事で彼女が見抜けないはずがない。
「まあまあ! まさか『貴女』になるなんて!」
頬を紅潮させ、満面の笑顔を浮かべ、素直に嬉しさをあらわにする彼女は何とも愛らしい。
彼女が両親や姉、そして、姉の夫にした仕打ちを知らなければ、誰もがその様子にほっこりするだろう。
「エヴァンジェリンが『私』だと分かっていたようね」
「ええ。私が『貴女』に気付かないはずないでしょう?」
たとえ、姿が違っても、前世の人格が表出していなくても。
彼女であれば気付くのだ。
それだけ、彼女は自分に執着している。
それは、前世の最期に、嫌というほど分かってしまった。
前世でも今生でも、可憐で虫も殺せないようなか弱そうな外見とは裏腹に、誰よりも酷薄で冷酷で狡猾で、したたかで他人を蔑んでいる彼女。
そんな彼女が前世で「姉」の夫の求婚に応じたのは、彼を愛していたからなどではない。
そもそも、自分を愛した男だろうが、愛し返せる人間ではないのだ。
彼女が「姉」の夫を奪ったのは、今生と同じ理由だ。
愛する夫を奪ったら、毬愛は、どんな顔を見せてくれるだろう?
彼女にしてみれば、最悪、自分が殺される事態も覚悟していたのだろう。
だが、まさか、毬愛が自分ではなく夫を殺すとは思っていなかったようだ。
だから、前世の最期で「貴女だけは私の掌の上で踊ってくれなかったわね」などと言ったのだ。
今生の自分は、夫を奪った愛人を殺そうとした。
けれど、毬愛は自分を裏切った夫を殺そうとしたのだ。
夫しか眼中になかった。
あの頃の毬愛の世界は「凌とそれ以外」でしかなかった。
夫を奪った女だろうと、唯一の友で「妹」だろうと、毬愛にとっては「凌以外」、その他大勢と変わらなかったのだ。
「エヴァンジェリンをここまで追い詰めたのは、『私』を引っ張り出したかったから?」
消えてしまった今生の人格は可哀想だが、どちらにしろ、彼女が今生の姉を「玩具」だと認識している以上、人格崩壊に追い込まれる結果は変わらなかった。戯れに、男をけしかけられる前に、前世の人格になったのは幸いだった。
「そうなればいいなとは思ったけど、お姉様のままでも構わなかったわ。お姉様はお姉様で、私の愛する玩具ですもの」
やはり「お姉様」が「玩具」と重なって聞こえる。
そして、それは間違いなどではない。
彼女にとって、今生の姉、エヴァンジェリンは、まさに「玩具」なのだ。
「けれど、エヴァンジェリンは消えたわ。『毬愛』になったの。『私』をどうしたいのかしら?」
世間的には死んだ事になっているエヴァンジェリン・ジョンソン公爵夫人。
それが、今の自分なのだ。
こんなエヴァンジェリンを思い通りにする事など、彼女でなくても簡単な事だ。
前世で殺した仕返しに殺されるかもしれない。
また、エヴァンジェリンにしようとしたように尊厳を踏みにじられるかもしれない。
けれど、おそらく、彼女は毬愛には、そんな事はしない。
魂を同じくした前世でも今生でも「姉」である女。
それでも、おそらく、彼女のエヴァンジェリンと毬愛に対する想いは違うのだ。
エヴァンジェリンは、彼女にとって、まさに「玩具」だった。
けれど、毬愛は彼女にとって――。
「別に、私は貴女にも何も望まないわ」
望まないなどと言いながら、エヴァンジェリンは玩具扱いしようとしたくせに、都合よく、それを忘れているのか。
「様々な顔を見たい」が、彼女にとっては「何も望まない」になるのだろう。その結果、今生の姉の心が壊れようと何の痛痒も感じないのだ。
「私は、ただ貴女に傍にいてほしいだけだもの」
「分かった。気が済むまで、私を傍に置けばいい」
いくらエヴァンジェリンとしての今生の記憶や知識があっても、世間的には死んだ事になっているのだ。この先をたった一人で生きていくのは困難だ。目の前の「妹」に頼るしかない。
だが、毬愛があっさり了承したのは、そうするしか今生で生きられないからではない。
今生の人格は、妹に恐怖を覚え、この先の自分の未来に絶望して消えた。
けれど、今の毬愛は「妹」に恐怖しないし、未来に絶望もしない。
それは、彼女が決して毬愛だけは「玩具」扱いしないと確信しているからではない。
いずれ、彼女が毬愛に対しても「玩具」だと認識し、人格崩壊させられる未来が待っていても構わない。
それだけ、今の毬愛にとって、彼女は特別になっていたのだ。
前世の最期、文字通り、彼女は、その命を懸けて想いをぶつけてきた。
それが、毬愛の彼女に対する想いを変えたのだ。
「あ、そうそう、貴女の愛する『凌』も転生しているわよ」
ふと思い出したように、天気の話をするかのように、彼女は言った。
「凌も?」
前世の人格になってから気付いた事がある。彼女だけでなく前世で係わった人間達も転生していると。「彼」まで転生していても不思議ではない。
「チャールズが『凌』だったわ」
チャールズ・ウィリアムズ侯爵令息は、エヴァンジェリンの元婚約者で、現在は彼女の婚約者だ。
どういったきっかけだったのか、彼も自分のように、ある日突然、前世の人格になったのだろう。
「彼に会いたいなら手配するわ」
彼女のこの発言は、自分の目の届く範囲であれば、大抵の事は叶えてあげようという寛大さや余裕からくるものなのだろう。
普通であれば、誰より何より執着している人間を、その人間が愛する者に会わせようとは思わないはずだ。
「別にいいわ。会わなくても」
これは、彼女を慮って言っているのではない。
前世の自分、佐藤毬愛が凌を愛していた大半の理由は、彼の外見の美しさからだった。あの外見だったから、彼の傲慢さも受け入れられたのだ。
今生の彼、チャールズ・ウィリアムズ侯爵令息は、まあ美形ではある。だが、良質な環境故に美形が多い貴族の中では、さして目立たない容姿だ。あの程度では毬愛は惹かれない。
今の毬愛に、「彼」に対する想いがないのは、転生し彼の容姿が変わったからだけではない。
前世で彼を殺そうとさえした。
それだけ、彼に対して、強い愛と憎しみがあった。
けれど、それが失敗し、転生して「佐藤毬愛」でなくなった事で、彼に対する想いも消えたのだ。
今の毬愛は、かつて凌を愛した以上に、彼女を想っているのだ。
「あなたに会って『凌』は喜んだでしょうね」
毬愛は凌の人格よりも、その外見を愛していた。けれど、凌は、まりの外見や中身、その全てを愛した。愛らしくか弱そうな外見とは裏腹な冷酷で狡猾な中身も含めて、彼女の全てを愛していたのだ。
姿形が変わっても、彼女が「彼女」であれば、凌は喜んだはずだ。
「それがね、彼、私に気が付かなかったわ」
彼女は、くすりと笑った。
「は?」
毬愛は思わず間抜けな声を上げてしまった。
「……気が付かなかった? 凌が、あなたに?」
とても信じられなかった。
エヴァンジェリンとは違う。
彼女は胎児から「彼女」だった。
エヴァンジェリンとしての今生の記憶があって、前世の人格になったから、それが分かる。
エヴァンジェリンやチャールズのように、途中から前世の人格になったのならともかく、胎児から前世の記憶と人格を保持している「彼女」に、最愛の女に、どうして気付かない?
「彼の私への想いなど、その程度だったという事でしょうね」
どうでもいいと言わんばかりに、彼女は言った。
実際、凌の想いなど、彼女には、どうでもいいのだ。
「『お母様』には無意識下で気づいて、嫌悪していたのに」
今生の彼の母親、ウィリアムズ侯爵夫人。
彼女こそ、前世の母親だ。息子の婚約者として交流して気付いた。
彼も気付いたからこそ、あれだけ、「母親」に嫌悪していたのだと今なら分かる。




