エルフをトイレに突っ込んでみたい
「なあ」
ぼんやりとしながら、何気なく対面に座っているやつに向かい声をかける。
会話をする気なぞ毛頭なく、なんなら反応しないのならそれでいい。その程度の声量だったのだが、長く先の尖った特徴的な耳をピクリと動かし、ジッと食い入るように読んでいた本に向いていた人間離れして美しい顔面が、こちらに向けられる。
如何にも特徴的。フィクションの世界ではありがちな、しかし、この世界では見慣れないその容姿。
それもそのはずで、彼女はこの世界の者ではない。
この世界で一般的に、エルフと呼ばれる異世界人種である。
「なんだ?」
翡翠色の瞳に怪訝そうな色を宿しながら、如何にも不満であるということを隠そうともしない様子の返事に、ため息を吐きたくなる。
仮にもこの家で世話をしてやっている家主に、なんて態度を取りやがるんだ、この女。 言いはしないが、面倒臭いし。
それに、特に話題もなく、暇すぎて声を出しただけなので、反応されたのは少し困る。 話しかけるようなトーンで、実は特に用はなかったなんて、うざいにもほどがあるだろう。
適当な話題を可及的速やかに、用意する必要がある。 その時、たまたま彼女の手元にある本に目が行った。
タイトルは『狭魔の食文化について』か。
異世界から来たエルフさんは、どうやらこっちの食事に興味津々らしい。
「それ、読む必要あんのか?」
「ある」
即答かよ。
「必要ないだろ」
「いいや、ある。私はまずこの地域の文化から知っていく必要があるからな」
「どうせ必要なくなるのにか?」
「ふふん、まだ二十歳の小僧にはわからんだろうが、知識と言うのは意外なところで役立つものだ」
彼女はいつの間にか着慣れたらしい俺のパーカー越しに、胸を張って見せる。
豊かだ。実に豊かである。 が、そこだけは俺の知っている特徴とはちょっと違っていた。
「流石、見た目年齢詐欺のババアは仰ることが違うな」
「おい、ババアとか言うな。これでも、私は人間年齢では二十二とかそこらだ」
「じゃあ、小僧とか言うなよ。年増」
「ぐぬぬ……」
そんな唸り方しても、お前が百歳を優に超える大年増であることに変わりはない。
なんなら、この家を残してくれた俺の婆さんよりも年上なので、出会った当初は関わり方に少し迷ったりもしたが……日がな一日、人の部屋で本を読むだけの実質ニートなエルフに、敬意なんぞ持てるはずもない。
「お前、本当に元の世界に帰る気あんの?」
「何を言うかと思えば……もちろん、帰る気はある。そのために、こうしてこの土地について調べているんだぞ」
そう言って、本をぐっとこちらに見せて来るが、付箋に書かれた文字を見る限り、そうは思えない。
「食べてみたい、ねえ?」
「うぐっ……」
やっちまったと言わんばかりの反応を見せる彼女に、ため息を吐く。
まあ、そうだよな。食べてみたいよな、狭魔名物「山くじら飯」。俺も食ったことないし、そんなもの今この瞬間まで知りもしなかったが。
山くじらってのは猪の古い呼び方らしい。食おうと思えば、猟師の知り合いに頼めば作ってくれるのかもしれない。
もっとも、そんな知り合いどこにもいないのだが。
目の前で、耳をぴくぴく動かして続く俺の言葉を待つエルフ。百は年下の小僧に叱られると思って、怯えているのだろうか。
「帰る方法、探すんだよな?」
「そ、それはそうだが、如何せん、手掛かりすら無くてだな……その……」
へどもどしながら答える食い意地の張ったエルフ。哀れだ。哀れすぎて、怒る気も起きない。
仕方がないので、ここは俺の方から案を出すことにしよう。
「これはこっちの民間伝承にある話なんだが、古来よりトイレと言うのは異世界に繋がるとされていたそうだ」
「……ほう」
ピンッと耳を鋭く伸ばして、エルフが居住まいを正す。 どうやら、聞く気になったようだ。
「これに関して伝わっている話としては、トイレで用を済ましている時、便器の中から何かに尻を触られた。しかし、慌てて、立ち上がってもそこに人の姿はないってのが代表的だ。当時の人々はそこがこの世とは別の場所に繋がっているのではないか、と考えたわけだな」
「……なんか、アレだな。ちかん? だったか、それっぽい話だな」
「現代で起きたらまあ、まず間違いなく便器の下に誰かがいるって考えそうだよな」
だが、トイレ異世界に繋がっている説には他の話もある。
「そういうわけで、昔の人はトイレとは異世界に繋がる場所であると考えた。だからなのか、当時の人々はトイレに落ちることをずいぶんと怖がったそうでな。足が少し入っただけでも、自分の名前を変えてしまうことにした」
「名前? どうして名前を変える必要があるんだ、トイレに落ちたぐらいのことで」
「トイレってのは不浄な場所だ。衛生的にじゃなく、観念的にな。異世界っていうのも、そういうわけだからあの世……つまり、死者の国であると考えられていたわけだ」
「なるほどな。と、するとトイレに落ちることは一度死んだことになる。あるいは、死者の国へと足を踏み入れたことになるわけだ。それを死者の魂が現世に蘇ったと考え、名前を改める、というわけだな」
「おお、よくわかったな」
ぴたりと当てられるとは思わなかったので、感心してそう言うと、彼女はまた胸を張ってドヤ顔になった。
「トイレではないが、似たような伝承が私の世界にもあるからな。色々なところを旅した都合、そういった話は聞くことが多かったんだ」
ああ、そういえばこいつは旅エルフだったんだ。以前、その旅の話を面白おかしく話してくれたっけか。特に面白かったのは、魔族の王を退治するために勇者一行として旅に出た話だ。RPG染みていて、ワクワクした。
「流石、長生きなだけあるな」
「おい、それは皮肉か? エルフに対して、年齢の皮肉は戦争だぞ?」
「まあ、そんなことはどうでもよくてだな」
「そんなこと? 私の年齢がそんなこと?」
食い下がる年増エルフを無視して、立ち上がる。
「ちょっと付いてこい」
「お、おい待て。まさか、お前……」
ちっ、勘が良いな。
動揺が確信に変わってしまうと、力づくでも拒否られてしまうので、無理矢理彼女の腕を引き、居間を出る。
廊下を少し歩いたところにある扉を開いて、その前に彼女を立たせた。
「そういうわけで、我が家のトイレからでもお前の世界に帰ることが出来るかもしれないと、思った」
「いや、待て、どうしてそうなった」
疑問を提示するエルフに、俺は首を捻る。
「さっき言っただろ。トイレは異世界に繋がっている、かもしれない」
「それは死者の国ではなかったか?」
「異世界を死者の国、という呼び方にしているだけで、お前の世界である可能性は十分あると思うぞ?」
「繋がってなかったらどうする……」 その時は、その時だ。
「何事も試してみなきゃわからないだろ?」
「待て、待ってくれ。それはつまり何か? 私に便器へ突っ込めと言っているのか?」
「そうだけど?」
そう答えた途端、一瞬にして辺りが静まりかえった。
時が止まったかのような静寂。セミすらも居眠りでもしているかのように、いつもは喧しい声を引っ込めていた。
しかし、それでも俺の目の前には、マジで何を言っているのかわからない、と言いたげな表情のエルフがいる。
ふと、そのエルフが威勢よく声をあげた。
「いや、いやいやいや! 正気か? 嫌だぞ私は!」
断固拒否という姿勢を言葉ではなく、身振り手振りで表現をするエルフ。
しかし、こうなる事は見越していた。トイレに顔を突っ込むのなんて、多少、文明的な生活をしていたのなら、誰でも嫌だろう。だが……。
「嫌だろうがなんだろうが、可能性はあるんだ。安心しろ、日頃からトイレは清潔に掃除してある。それに今なら洗い立てで未使用だぞ?」
「綺麗だろうがなんだろうが体を突っ込むとなると話は別だろうが!」
我儘だな。家主がやれと言えばやらなければならない。それが、家を間借りしている存在の立場だ。居候という自覚がないのだろうか。
「文句を言うな。そして、トイレから元の世界に帰れ、便所エルフ」
「誰が便所エルフだ! 誰が!」
話していられないとでも言うように、俺を押しのけてトイレから出ようとする彼女の肩を掴む。
「今日こそ、絶対に帰って貰う」
「や、おい! やめ、ああ! どうして、こういう時だけ無駄に力が強いんだお前⁉ せめて、心の準備ぐらいさせてくれてもいいんじゃないか⁉」
はっ、そう言って逃げる気なのはお見通しだ。情け容赦なく、便器に顔面からぶち込んでやる。
「ちょ! やだ! 本気でやだ! トイレだけはやだ!」
ぎゃーぎゃーと騒ぐエルフをトイレへと万力の力を込めて押し込んでいく。
拮抗。そして、体勢を僅かにエルフが崩した。
勝った、そう確信する。今日こそ、この忌々しい異世界エルフを元の世界へと追い返せる。
しかし、俺は忘れていた。
いや、忘れてはいなかったのだ。いなかったのだが、どうにも頭から抜け落ちていた。
今は居候だが、彼女は異世界からやって来たエルフ。それも、魔族の王……魔王の討伐に参加した人物。
いくら女性とはいえそんな相手に、インドア派の大学生が、力で勝てる訳がないのだということを……
勝ちを確信した俺に、キッと彼女が鋭い視線を向けてくる。
そして、右拳をぐっと握りしめるのがわかる。
やっべ。
そう思ったのも束の間、回避を考え始める前に力強く握りしめられた拳は、俺へと向けて発射されていた。
「嫌だと、言っているだろうがああぁぁぁぁぁぁ!」
「かぺっ」
顔面に重たい衝撃を感じ、妙な全身の浮遊感を覚えたその瞬間、俺の意識も一緒に吹き飛んでいく。
背中が堅い何かにぶつかる。木が軋む音がして、あ、これやったなと虚ろな意識の中で考える。
意識を手放すその寸前に見たのは、顔を耳まで真っ赤にしてお冠のエルフと、若干凹んだ家の壁。
壁の修理費は絶対に払わせやるからな、と思った。