成敗セイバー
正義とは何か。
悪とは何か。
議論しても到底答えの出ないこの二つの問いだが、ただひとつ言えることがある。
悪がいなければ、ヒーローは生まれる必要はない。
1
自分で言うのも何だが、私は結構モテる。モテるということは可愛いということである。愛嬌、美貌、その上頭脳まで良しときたもんだから、毎日のように私の机には何通もの紙切れが不法投棄してある。処分は私持ち。ふざけんな。
ただ、およそ女子として順風満帆な高校生ライフを送っている事実だけは、疑いようがないのがこの私、大歩危宙衣だった。
そんな私が、今までの人生で遭遇したことのないイベントに遭遇してしまった。
不審者遭遇である。
一般市民として、そして私の身の安全のため、警察の皆さんにご協力してもらった頃には、とっくに夜だった。
私はケータイで一一〇番通報し、それを見た不審者——否、変態は一目散に、しかし颯爽と逃げていった。「また会おう!」と犯行予告をされたので、より身の危険を感じた。
勤勉な警察の諸兄は、まず私を安全な署まで送ってくれ、事情聴取を優しくて穏やかな言葉でしてくれた。メンタルがイカれそうだった私は、強い正義感と自分の防衛意識によって何とか平静を保ち、警察の皆々様にありのままを話すことができた。
ただ、信じてもらえなかったが。
まだ気が動転しているのだろう、今日は帰ってゆっくり休みなさい——そう言われたが、私はそこでふと我に返った。
確かに、さっきの出来事は夢だったのでは?
現実とは思えぬ、まるで映画のような劇的なハプニングだったが、ちょっと冷静になってほしい。この現代社会において、あんなレベルの変態の不審者がいるだろうか。今の私はちゃんと現実だと認識できているが、あの時気が動転していたのは確かで、それは何かしらのストレス——そう、不審者に遭遇したこと自体による恐怖のストレスによって幻を見ていたのではないか。
つまり、不審者と出会ったことまでは現実で、その後の出来事は幻覚、これなら筋が通る。
なんだ夢か。
そりゃそうか、そんなことあり得ないからな。私の人生で不審者なんて顔見せデビューしたことがなかったんだから、そんな未知の脅威に晒されれば、幻覚も見ようというものだ。
私は生まれてこの方、苦労とか苦痛とか苦難とか、そういった苦しみの類を感じたことがなかった。才能と可愛らしさによってすべての試練を評価Sでクリアしてきたからだ。そんな私が初めて感じた苦しみ、それが不審者——悪意との遭遇だったのだ。
なるほどなるほど、合点がいった。
秀でた分析能力によって自己完結してしまった。ああ、なんて私は優秀なのだろう。
ただし、これは対処すべき事案だ。完璧だと思われていた私という存在は、悪意によって崩れうるということの示唆だ。
考えてみれば、私は頭が良くて可愛くてモテモテで両親が医者で運動神経も良くて美術的センスも抜群なのだが、唯一、足りないものがあった。
それは、力である。
筋力、腕力、脚力、武力、戦力、火力。
権力と財力なら持っているが、私には自己防衛できるほどの力が無いのだ。
何せ必要なかった。人生に必要なことは、どうやって上手く世渡りができるかということであり、私はそれだけなら余りある力を既に持っている。
ただ、漠然とした力、暴力に対しては何も対抗できる術を身に付けていないのだった。女子という性別、現代社会という大きな籠に加護されて気付けなかったが、私は要するに非力だった。もやしである。女子も男子も羨む白い肌である。
迂闊だった。ここが私の弱点かもしれない。満たされ過ぎていて、肝心な足りないものが分からない。これは反省すべきだ。
初めてですよ……。この私をここまで敗北感に陥れたのは……。
あの不審者め。よくもやってくれたな。しかし、もう私に弱点は無い。そうと決まれば、力を付けるため、全力を出す必要がある。
そんなわけで、私は今まで退屈で断っていた部活勧誘を、すべて受けることにした。
目的は当然、筋トレである。スポーツによって鍛えられる筋力はそれぞれまったく別なので、万遍なく体を鍛えるなら全部こなす必要があるだろう。しかし、すべての基本となる体力と柔軟性、そして運動神経は生まれた時から持っている。この辺は流石私といったところだ。
野球、バスケ、サッカー、テニス、卓球、バドミントン、バレー、水泳、柔道、自転車、フェンシング、ゴルフ、体操、陸上競技全般その他諸々と、取り敢えず我が鐘城高校に存在するオリンピックに大体選ばれている感じの運動部を、片っ端から踏破していった。そのうち三人の部長が、私の才能に心折れて引退していった。
日替わり弁当のようにローテーションで運動部を総舐めし、机のラブレターの中に脅迫文が混じるようになった頃、私の身体は十分な仕上がりとなっていた。具体的な数字は乙女のプライバシーの観点から公表できないが、少なくともこの学校に敵はいなくなった。
大人しい優等生なイメージから一転、私は文武両道の学園のヒーローとなった。
やはり私は、自分で何とかできてしまうのだろう。自分の中に溢れる力を感じる。肉体と精神が研ぎ澄まされ、ある種万能感に近い満たされた気分だ。
これで私は不審者に巡り合ったとしても、勝てるかどうかは別として、対抗手段を身に付けたわけだ。以前のような華奢な乙女ではなく、頑健な戦乙女として、天下の往来という名の戦場を歩むことができる。
とは言っても、所詮は付け焼刃。もうこの学校の部活動から得られるものは何も無いが、トレーニングは続けることにしよう。継続は力なり。ジムに通うのも悪くない。
私は最後の運動部となる相撲部の退部届を出すために、生徒会室に向かっていた。
流石の私も、相撲部だけはこなすことはできなかった。理由は敢えて言うまい。残念なことに、女子相撲部は我が校には無かった。あんまり調べずに入部届を出したから、部員の皆さんも、マネージャー希望だと勘違いしていたようだった。いやはや、迂闊だった。
夕暮れの校舎の中、放課後ということもあって生徒の影はどこにも無い。退部届の書類も、生徒会室の手前に置いてある連絡ボックスに投函するだけである。生徒会なんてそんな年中活動しているものではない。
用事を済ませ、さてジムでも探しに散策しようかと思案していたところ、ふと視線を向けた廊下の奥、夕陽でさえ射し込まない陰鬱とした暗がりから、物音がした。
そう言えばこの先は用事も特に無いので行ったことがない。部室棟ではあるので、文化部が使う部室が何個かあるのだろう。だが、我が校は文化部の活動はそこまで活発ではない。具体的に言うと、美術部は作品鑑賞と言う名の遠足がメインで学校では活動していないし、吹奏楽部は部員が足りず去年に廃部、園芸部は教頭先生ひとりである。よって、私の知る限りでは部室で活動している文化部は存在しないはずだ。しかし、そこから物音がするということは人がいるということである。
私は興味本位で、好奇心だけでその方向に進んだ。どうせ暇だ、それに学校に不審者が入り込んでいるのだとすれば一大事。鍛えた私の右ストレートが火を噴く丁度良い機会だ。パトロールと実践も兼ねて、校内探検と行こう。
私は警戒しつつ、かつ内心では自信満々に廊下を進む。音がしたのはそう遠くではない。この階であることは間違いないだろう。突き当りの壁までは教室を三つほど挟んでいる。ここのいずれかだ。
握った拳を構えながら、ひとつめの扉に手をかける。鍵がかかっていた。そりゃそうか。小窓から覗くと、材木や工具などの置き場だった。授業で使うのだろうか。そんな授業は受けたことないが。
ふたつめ、今度は鍵が空いていた。だが、小窓は紙が内側から貼られているため、中はどうなっているのか分からない。私は最大限に警戒して、僅かな隙間から中の様子を窺った。
人がいた。
こちらに背を向けているのでどんな人物かは見えないが、少なくとも制服は男子のものだった。何やら、箱を漁っているようだ。もうちょっと隙間を拡張し、片目が通るくらいまで広げると、箱から何かを取り出したところだった。
あれは——玩具の剣?
それは、子どもがクリスマスか誕生日に買って貰う感じの玩具の剣だった。およそ戦闘に向かないような、何かしらのアイテムを差し込むために歪な形をしている。それを掲げていた。
「出てきたまえ。気付いているぞ」
⁉
「そこにいるのだろう? 腹の探り合いではなく、話し合いをしようじゃないか」
気付かれていた……、自分では気配を消したつもりだったのに……。しかし、こうなっては仕方ない。
私は潔く立ち上がり、扉を開けた。
「あなた、ここで何をしているの?」
「え?」
え?
その男子はこちらを向き、驚きの表情を浮かべた。
「……………」
「……………」
沈黙が流れる。
お互い、見つめ合って微動だにしない。彼は未だ剣を握ったままだ。
先に動いたのは向こうだった。
「お茶でも飲むかね」
「……いただきます」
出てきたのは白湯だった。
トレーニングを始めて以降、甘味料を含んだ飲み物を摂取していない私からすれば親しみやすい飲み物だが、客人に対して出すのはどうなのだろう。
その部屋は、とても学校には相応しいとは言えないものだった。
左右に配置されている棚は合計で五段×四つもあるにも関わらず、そのすべてのスペースに玩具が置いてあった。見たところ、子どもと年を重ねた支持者が好むようなヒーローものばかりのようだ。玩具売り場で売っている、変身アイテムやら人形やら何に使うのか素人には分からない感じのものやらで満たされている。配置がやたら綺麗なので、シリーズとかでまとめているのかもしれない。
私はこういった日曜の朝にやってそうな子ども向け玩具販促番組は視聴したことはない。ひとつ前の時間にやっている魔法少女ものならある程度通過してきたが、それも小学校中期には自然と観なくなった。こちらも玩具販促番組ではあるのだろうけど、両親にねだった記憶が無いので、制作側の思惑は私には届かなかったのだろう。
彼と私は部屋の中央に置かれたテーブルと椅子に座って、向かい合わせになっている。彼——この部屋の主は白湯を一気に飲み干すと、こちらの顔を見て腕を組んだ。
「それで、何か用かな。二年二組、大歩危宙衣くん」
「……! 私のことを知っているの?」
「もちろんだ。俺は全校生徒のみならず、教師陣や事務員に至るまで学校関係者全員の顔と名前を把握している」
「何でそんなことしているの?」
「業務に支障が出るからだ」
業務?
仕事をしているということだろうか。しかし、どう見ても一般男子高校生にしか見えない。
「それに、君の話は最近良く耳にする。何でも、運動部をすべて我が物にしようとしているとか」
「めちゃくちゃ語弊があるわね」
「だろうな。俺が調べた限り、君はあくまで自身の鍛錬のために部活というシステムを使ったに過ぎない。だから依頼もあったが成敗対象ではないと判断した」
依頼? 成敗?
何やら訊きなれない単語が出てきたが、というより。
「私のことを調べた? それってストーカーってこと?」
「違うな。正義のための事前調査だ。慈善調査と言っても良い」
「……正義? あなた探偵か何かなの?」
「探偵はあくまで依頼人の味方だろう。俺は正義の味方だから、決して依頼人の味方はしない。ただ、依頼人から持ち込まれた情報の精査を行い、それが正義か悪かを判断するだけだ」
……何か話が通じないな。出会って数分だが、どうもこいつとは相性が悪そうだ。
「相性が悪い、か。それは果たして悪なのだろうか。いいや違うな。人間関係のこじれ、それ自体は悪ではない。その結果起きる事件や行動が悪なのだ」
「……人の心を勝手に読まないでくれる?」
「心を読むことを悪とした人間は過去存在しない。むしろみんな知りたがっている。かと言って、無理矢理心情を吐露させるのは悪だがな」
何だこいつ。
悪悪うるさい奴だ。どうやら、面倒くさい奴と関わってしまったらしい。
私は、当初の疑問を投げることで状況を一回綺麗にしようとした。
「あなたは何者なの?」
「おっと、俺としたことが、自己紹介がまだだったな。俺は聖善正義。ヒーローだ」
「ひーろー?」
何だその単語は。現実での自己紹介でそうそう訊かないワードだぞ。それを恥ずかしげも無く披露するとは、阿呆か大物か。
「ここは成敗部だ。部員は俺しかいないがな」
「……それってちゃんとした部活なの? 私、この学校の部活は一応文化部も含めて全部調べたはずなんだけど、そんな名前の部活は無かったわ」
「非公式だからな。ここは使われていない物置を、ちゃんと許可は取って使わせてもらっている」
何とも胡散臭い。明らかに私物化しているようにしか見えない。大体何だ成敗部って。
「……そう。なら、次の質問良いかしら」
「構わないぞ。無知は罪と言うが、俺はそうは思わない。何せ、世の中は知らないことがたくさんあるのだからな。無知は罪ではなく、損をするのだと思う」
「…………」
うぜぇ。
「えっと……、仮にあなたが非公認の部活の成敗部? の部員だとして、ここで何をしているの? その……、活動内容は何なのかしら」
「ヒーロー活動だな」
「……現在、今は進行形で何をしているの?」
「うむ。これは十年前に放送された『スペーススペル』に登場する主人公、ギャラクシーちひろが使う剣の玩具だ。悪くないだろう? 最近新しく作り直されて販売されたので購入した。それを開封していたところだな。さっきのセリフは第三十八話で暗黒のスペルを唱えたことで敵勢力に堕ちてしまったちひろが、敵アジトに潜入したかつての仲間たちに向けて放ったセリフだな。暗黒のスペルは禁術とされていて、それを使えば闇の力に飲まれてしまうことは分かり切っていたのに、どうして使ったのかを探るために仲間たちは敵アジトに潜入したのだ。これは、第四〇話で仲間であるムーンライトだいちの妹、ルナティックみゆきを救うためだったと判明するのだが、暗黒のスペルを使った反動で記憶を失っているちひろはそのことを覚えていない。ちひろを正気に戻すために戦闘するこの一連のシーンは、回想が多くてイマイチ迫力が無いとファンの間でも意見が分かれるが、俺はその後の最終決戦に向けた伏線だと考えると何も問題は無いと思っている。一話単体で観ると確かに物語としての動きは少ないが、この三十八話から四〇話までは総合的にラストの展開でキャラクターへの感情移入への助けとなっている。その点に気付けないのは、物語の読み込みが足りないか、ただのアンチだな。そしてこの剣はその時のダーク仕様の特別なものだ。ついシーンを再現したくなった」
英語の長文のテストは、最初と最後を読めば良いという風潮がある。私は普通に解けるので全部読むのだが、今回に限ってはその風潮に従うべきだと思った。
余計なリソースは省いても良い。
「……要するに、ヒーローごっこ遊びをしていたってことね」
「俺は正真正銘のヒーローだから、ごっこではない。玩具で遊んでいたのはその通りだがな」
……やべぇ奴だ。関わってはいけないタイプだ。
別に人の趣味をとやかく言うつもりはないけど、私の交遊関係には追加したくないタイプの人間だ。住み分けは大事。
さっき、私に気付いたみたいなことを言っていたが、ただの劇中のセリフだったのか……。そりゃあ、勝手に覗き見した私にも非はあるかもしれないけど、こんなところでそんなことをしている男子高校生など奇人か変人だろう。できれば距離を置きたい。
「疑問は解消されたか? 大歩危宙衣くん」
「……えぇ、ありがとう。それじゃあ、私は帰らせてもらうわ」
この時、私は一刻も早くこの場を去りたい気持ちでいっぱいだった。焦っていた。彼とこれ以上親睦を深めることをしたくなかった。
ただ、この逸る気持ちが、結果的に彼との関係を決定付けるものとなってしまった。
立ち上がった拍子に、テーブルに身体をぶつけてしまった。そのテーブルの上には、善意で提供された白湯と、何か特別仕様の何とかちひろの玩具の剣がある。
下からの衝撃に、熱湯を入れた器は容易にその安定を失った。
「あ」
「あ」
相性が悪いと思っている人間同士でも、発声を合わせることができる。
それを私は実感したのだった。
誰でも助けてくれる正義のヒーロー。
どうしてあの人たちは、自らの命を顧みず戦うのだろうか。
世界のため?
守りたいもののため?
自分のため?
分からない。特別な力を手にした人間にしか辿り着かない考えがあるのだろうか。
人間の考えていることは分からない。もっと合理的で効率の良い生き方があるのに、そっちの方が得があるというのに、心を優先する。
結局、正義なんて立場の違いでしかない。
だから、絶対正義のヒーローが必要だ。
それが私だ。
2
放課後を告げるチャイムに、私は恨み言を言いたくなった。
なぜ終わるのか。このままずっと授業をしてくれて良いのに。
以前は運動部を巡っていたので放課後が待ち遠しかったのだが、今の私にとっては絶望の音源だ。おのれビッグベン。いやエリザベスタワーか。
「宙衣―。一緒帰ろー」
項垂れる私の肩に手を置くのは、友達の野呂間純粋だった。愛称は純ちゃん。
最近私が構ってあげてないので、久しぶりに相手してもらえると思って来たのだろうけど、生憎、今日もダメそうだった。
「純ちゃん……、悪いけど今日も一緒に帰れないわ」
「えぇー! 部活動破り終わったんでしょ! まだ何かあんの?」
「まだ何かあるのよ……」
昨日のことを話すつもりはない。この幼稚園の時からの友人である純ちゃんに、あの奇想天外なヒーローオタクをぶつけたくなかった。私が守らねば……。
「学校のヒーロー様は大変ですなぁ。私みたいな下々とは遊んでくれないか……。遠くに行っちゃったな……、私はもう必要ないんだね……」
「違うから。えぇっと……、そう。部活は辞めたけど、助っ人を頼まれるようになったのよ」
これは嘘ではない。隠しきれない私の才気溢れた実力を買って、コーチを頼まれるようになったのだ。正式な部員ではないから大会とかには出られないけど、全体能力の底上げを画策した部活からはそういった話が来る。机のラブレターに交じって、嘆願書まで入っている。
「そうなんだ。ま、我が愛しのお姫様はおてんばだからね。やりたいことに正直なのは宙衣の良いところだよ」
「ヒーローかお姫様かどっちなのよ」
「苗字はどっちが良い?」
「私に合わせると、大歩危純粋になってボケてるのか純粋なのか分からなくなるわね」
「野呂間宙衣だと、のろまで広いから移動が大変そうだねぇ」
あぁ、何て中身の無い会話なのだろう。
純ちゃんとの会話だけが私の救いだ。
昔から純ちゃんは、私の傍にいてくれて、助けてくれる子だった。貧弱な私が今までいきてこられたのは、純ちゃんの存在が大きいのだと最近になって思った。純ちゃんは中学時代陸上部で、全国大会にも出場したことがある。ただ一方で、勉強はからきしだった。私たちは、勉強の大歩危と運動の野呂間と呼ばれ、逆だろと何度も突っ込まれた。
そんな純ちゃんは、高校に入ってから陸上は辞めた。理由は私と過ごす時間が減るのが嫌だからだそうだ。
可愛い。
高校受験を機に、彼女も一通り勉強をこなすレベルまで学力を向上させたが、そこで時間が止まっているので、赤点からの追試コースの常連だった。その度に、私が泊まり込みで勉強を見ているのだが、どうもわざとやっている節がある。私と一緒に居たいがために、敢えて勉強をしていないようだった。困ったものである。
しかし、今まで私を力という理不尽から守ってくれていたのは純ちゃんだった。
印象的なのは中学二年生の時、私に嫉妬した同級生が大学生の兄に頼んで暴漢を差し向けたことがあった。私は拉致され、街外れの廃工場まで連れていかれたのだが、そこに純ちゃんが現れ、三人の大学生を相手にものの五分程度で勝利をおさめた。その時の純ちゃんは紛うこと無きヒーローだった。
件の同級生は学校からいなくなり、それ以降、純ちゃんは裏で暴君として恐れられるようになったのは秘密だ。その近くにいる私に手を出してくる輩もいなくなった。
私を守ってくれたのは純ちゃんで、その純ちゃんが私を必要としてくれるのなら、何でも応えたいと思う。
勉強ができないのはわざとなのだが、それを良しとする理由が私にはある。
それに、今は部活動をすべて制覇(ひとつ未達成)した私は貧弱ではなく、女子高校生の平均的な戦闘力を上回っている。流石に、純ちゃんにはまだ勝てないが、いつか肩を並べるくらいまでは強くなりたい。
「まぁ、仕方ない。私は理解のあるパートナーだからね。仕事と私どっちが大切なのかなんてことは訊かないよ」
信じて待ってるよーと、純ちゃんは両手を振って教室を出て行った。
ごめんね純ちゃん……。でもあなたをあいつと合わせるわけにはいかないの……。
そんなわけで、私は鬱屈としながら成敗部の部室へ足を運んだ。
人の気配の無い部室棟、そこに通じる廊下が、まるで地獄へのトンネルに思えてならない。できれば、誰からも目撃されたくないが、これから毎日のように通うことになると思うと、足取りを重くすれば良いのか、足早に駆け抜ければ良いのか分からなくなる。
生徒会室と材木置き場を素通りし、成敗部の部室の扉を開けた。
「む、大歩危くんか。グッドタイミングだ。グッドということは、バッドではないということだ。うむ、悪くないな」
「…………」
「おや、顔色が悪いな。それはいけない。何か薬を飲むか? それとも今日は休んでも良いぞ。なに、体調が悪くなることは悪ではない。生活習慣に問題があるのならそれは悪だが、どうしても避けられぬ不測の事態というものはある。情状酌量の余地ありだ。ゆっくり休むと良い。ただし、君の負債は無くならないがな」
「……大丈夫、全然元気よ」
「そうか。では早速仕事に取り掛かってもらおうか。さっきグッドタイミングと言ったが、ちょうど依頼が来たのだ」
聖善くんはテーブルの上に書類を数枚置いている。わざわざどこからか印刷してきたのだろうか。
何故こうなったかと言えば、私は昨日彼の持ち物を壊してしまった。ただのプラスチックの玩具だと思っていたが、最近のはやたら高度な技術とパーツを使っており、私が壊した剣は音声が鳴らなくなり、LEDを搭載したランプは不規則な点滅を示すようになった。昔の玩具だというのに、無駄に凄い。
弁償すると申し出たが、その値段驚きの五
私の家はお金をそこそこ持っているが、こんな理由で両親に頭を下げるのは私のプライドが許さない。代わりに、彼の成敗部の活動を無償で手伝うことで手打ちとしたのだ。
今にして思えば、こっちの方が屈辱かもしれない。
「別に俺はどっちでも良いのだがな。物自体も買い直しが利くものだから、現金で月一万円払いでも構わないのだが、まぁ君の意見を尊重しよう。この場合、明らかに悪いのは大歩危くんだが、それをどのように扱うかの権利は俺にある。なに、案ずるな。人間は少なからず過ちを犯す。それを正すのがヒーローの俺であり、その後反省してくれればそれで良い」
やっぱり両親に土下座しようかな……。
月三千円のお小遣いでは、今後の高校生活を無一文で過ごすことが確定してしまう。それだったら、多少の労働がマシかと思ったけど……。
「……それで、まず私は何をすれば良いのかしら」
「うむ、この資料に目を通してくれ」
手渡された紙を受け取ると、そこには何個か項目があり、分かりやすく依頼人の氏名、依頼内容、補足、依頼達成時の連絡先が書かれていた。印刷してあるので、ネットからの依頼だろうか。
「ええっと……、名前は金銀財宝。……これ偽名よね」
「プライバシー保護の観点から、ハンドルネームでも可としている。依頼人の名前など区別できれば何でも良いからな。結果報告の場所も、町の掲示板からメアドまでできる限り要望に応える」
「……で、肝心の依頼内容が、鬼退治? 何これ、ただのいたずらじゃないの?」
「そうとも限らない。内容をよく読め」
「……山の畑が荒らされている。カメラを仕掛けてみたところ、鬼が作物と動物を狩っているところを確認した。これを退治してほしい……、鬼? 鬼って何よ」
「鬼を知らないのか? 桃太郎を読んだことないのか」
「いや、それは分かってるけど……」
日本で一番有名なヒーローの話だろうとは思うけど、あれは昔話であって、現実においてそんな鬼がいるわけないだろう。きびだんごをやるとついてくる動物も現実にはいない。
「鬼と一言に言っても、大衆が想像するような角の生えた厳めしい鬼や、どちらかと言うと幽霊に近いものとしての鬼がある。ただ、今回の内容的には巨体の怪物のようだがな」
「……これをどうするの?」
「調べるに決まっているだろう」
あっけらかんと言う。正気かこいつ。
「もしこの鬼が実在し、悪事を働いているなら成敗。何か特別な事情があり、悪とは判断できないなら見逃す。そもそも嘘だったらめでたしめでたしだ。我々の骨折り損で済む」
「それで嘘かもしれないものを真に受けて調査するっていうの? 私も?」
「無論だ。ふたりで調べれば早い」
「いつ行くのよ」
「今からだな」
聖善くんは何やらバッグを横に置いている。準備万端のようだ。
「場所的には電車で三〇分くらいだ。上手くいけば日付が変わるまでに帰れるぞ」
「ちょっと待ってよ。私何の準備もしてないわよ」
「構わない。俺がしておいた」
ぽんぽんと隣のバッグを叩く。
「今日は君の初仕事でもあるから、特に何も言いつけない。後ろで見ているだけで良い。なに、安心したまえ。ちょっとした遠足だ。危険だと判断したらすぐさま帰っても良い。もっとも、ヒーローである俺の傍が一番安全だがな」
「…………」
私に拒否権は無いのは分かっているんだけど、もうちょっとこう、何というか……。
「だいたい退治って何をするのよ。捕獲でもするの? 害獣駆除的な?」
「殺すに決まっているだろう」
またもあっけらかんと言った。
「相手は鬼なのだろう? それが本当なら疑いの余地無く悪だ。知らないのか? 人の畑を荒らしたらいけないんだぞ」
「で、でも、殺すって……、それって殺人じゃあ……」
「鬼は人間ではないだろう。それを殺しても罪には問われない。鬼を殺しても犯罪ではないし、鬼を法律で裁けないだろ。だから俺のようなヒーローが必要なのだ」
「…………」
「ふむ、君の言いたいことは何となく分かるぞ。やり過ぎじゃないのか、ということだろう。俺からしてみれば、悪は悪なのだから、それに見合った罰を受けるべきだと思う。鬼か。俺は見たことないし、実在するとも今のところ思っていないが、本当ならば人間に害を成す悪だろう。本当にいればの話だ。それを確認するために調査するのだ」
聖善くんはまったく迷いとか動揺とか、そんな様子は無かった。ただ淡々と、機械のように事実を述べている、ように感じる。
まるで、それが正しいかのように。
実際正しいのかもしれない。仮に鬼なんて非現実的な存在がいたとして、それが悪事を働いているとして、それを裁くことを誰が咎めるのだろう。
ただ、それを当たり前のように話す、芯の一切ブレない聖善くんが怖くなった。出会って日が浅いが、この変人の変人たる所以を覗いた気がする。
要するに、狂っている。
変人ではなく、狂人。
聖善くんの目は、本当に殺すことに躊躇が無い、そんな澄み切った目をしている。
シンプルに、その姿が怖くなった。
「では大歩危くん。電車賃は自己負担なのでよろしく。必要なら立て替えておくぞ」
…………。
私は心の中で鬼の形相になった。
「ほ、本当に来た……」
依頼人の第一声がこれである。
まるでこっちが鬼みたいじゃないか。
依頼書に記入してあった住所を訪ねてみると、そこは木製の温かみのある家だった。悪く言えば古かった。インフラは辛うじて繋がっているように見える。電柱はあるし、ここに来るまでの途中、コンビニもあった。駅からバスも通っていた。私は歩きを希望したが、一時間に一本しかないことと、すでに日が傾き始めていることで仕方なく公共交通機関のお世話になることにした。バス代くらいは払える。
私たちを出迎えた依頼人は、私たちとそう大差ない、制服を着た学生だった。
「君が依頼した金銀財宝くんで良いか?」
「あっ、はい……。えっと、取り敢えず、上がってください」
招き入れられた私たちは、畳の応接間に通された。お茶まで出てきた。最近できたトラウマが脳裏にチラつくので、手は付けないけど。
依頼人の子は、まさか私たちが本当に来るとは思っていなかったようで、驚きと動揺で若干の挙動不審だ。
「鬼退治が依頼だったな。証拠もあるとのことだが」
聖善くんが単刀直入に、迅速に本題に入った。お茶は既に飲み干していた。
「そ、そうです。家族や警察にも相談したんですけど……」
「けど?」
「……山に入ってから、誰も帰ってきません」
「え、それって結構大変じゃない?」
「地元の猟師も何人か動いてくれたんですけど……、それも成果無しどころかマイナスです。正直、あなた方への依頼もやけくそというか、藁にも縋る思いだったんですが……」
「ふむ。鬼の存在はともかく、行方不明者が出ているのは事実なのだな」
「はい……。あ、これが写真です。映像は、カメラ本体が破壊されてしまったので残ってないのですが、何とかこれだけ復元できました」
出てきた写真は、夜なこともあってはっきりとは写っていなかったが、確かに赤い巨体の輪郭を捉えていた。月夜の下に広がる畑に作物が散乱し、牛の死体が転がっている。
角は……、まぁあるような無いような……、正直分からない。これだけなら良くできたコスプレで片づけても問題無いような。最近のものははやたらクオリティが高いし。
「二日前のものです。その時はまだ作物や家畜の被害だけで済んでいたんですけど……、怒った両親が山に入って行きました。それがつい昨日のことです」
「ふむ。事情は分かった。では早速調査に行くか」
聖善くんは立ち上がって出口へ歩き始めた。
「ちょ、ちょ、ちょっと。え、もう良いの? もっと訊くことあるんじゃないの?」
「無い。実際に鬼を確認するのは俺の目だ。それ以外は判断材料にならない」
何だその自信は……。依頼人ポカーンとしちゃってるよ……。
「行くぞ大歩危くん。付いてきたまえ」
自分のペースを崩さない、悪く言えば協調性が無いとも言えるが、この場合、聖善くんにこそペースを合わせるべきなのだろうか。曲がりなりにも、何度かの実績があるっぽいし、実はこの手の調査はお手の物なのかもしれない。
バスに揺られている間に陽は完全に姿を消し、辺りは暗闇となっていた。電柱に付随する頼りない明かりがあるが、近距離パワー型のスタンドの射程距離くらいまでしか見えない。さらにここから山に入って行くというのだから、いよいよ何も見えなくなるだろう。
「懐中電灯とライト付きヘルメット、どちらが良いかな?」
「……ヘルメット」
「靴も長靴にしたまえ。それと虫よけスプレーだ」
プシャアアアァァァ。
されるがまま、無抵抗に、言いなりになる私。
正直、ワクワクしている自分もいるのだが、それでもやっぱり冒険の相方がこの男であることと、ふと我に返って私は何故ここにいるのか……、と空しくなったりする。
「あれ、聖善くんは懐中電灯とか要らないの?」
「見えるからな」
え、流石にそんなわけ……、と思ったら、聖善くんはズカズカと木々の生い茂る道へ進んでいった。
私は慌てて追いかける。本当に見えているのか? 視力が良いとかの問題ではないくらい真っ暗なのだけど……。しかし、私の心配をよそにどんどん道を行く。私の前を歩いているので、ライトの光はその先を照らしていない。聖善くんの後ろ髪しか私の視界には映らない。
枝と葉っぱが踏みしめられる音と、何かの動物の声が木霊する。人がある程度行き来したことがあるのだろうという道はあるけど、名前の知らない植物が所々で遮ってくる。月明りも無いこんな道を歩くなど自殺行為に等しい。
「む」
急に聖善くんが立ち止まる。危ないが。
「見たまえ、足跡だ」
見ろと言われても、暗くて見えない。背中から顔を出して聖善くんが見ている先を照らしてみると、確かにそこに足跡はあった。
「普通のスニーカーか何かの足跡だな。まだ新しい。それにこれだ」
「これ?」
よくよく足元を照らすと人間の足跡の他に、一回り大きなものがあった。
およそ人間のサイズとは考えられない、不気味なものだった。
「……熊か何かじゃないの?」
「だとすれば縦に長すぎる。それに付き方が二足歩行だ。沈み方も、体重が重くないとこんな風にはならない」
「じゃあ熊が二足歩行で散歩してたとか……」
「随分面白いことを言うな。ただ、これが熊にしろ人間にしろ、ここに人間がいたのは確かなようだし、割と近いかもな」
再び、聖善くんは歩き始めた。
というか、どこを目的として進んでいるのだろう。何の目印も無いけど、帰り道は分かっているのだろうか。この男が、マジで鬼探しをしていることは今までの言動から分かるのだが、イマイチまだ真実味に欠けるというか、やっぱり嘘に騙されているのではないかという考えが浮かんでくる。
こんな夜に森に入ってしまっては、こっちが行方不明になる。案外、こうやって依頼人の家族や猟師はいなくなってしまったのではないだろうか。
「ねぇ、本当に鬼なんているの? とてもそうは思えないんだけど」
「おい、そのセリフはフラグと言うやつで——」
グガガガガ!!!
「!」
「!」
何か、生き物の唸り声のようなものが訊こえた。
私たちは立ち止まって、周囲を見渡す。
この声の正体が何であれ、私たち以外の生き物が存在していることは明らかだ。
「……あそこだ」
聖善くんが走り出す。物凄いスピードだ。
「ちょ、ちょっと!」
私の鍛えた脚力を持ってしても、聖善くんはどんどん先に行く。あんなに速かったのか……。というか、この足場の悪い道をよく平然と走れるな。
何とか音と細い光を頼りに追いかける。体に当たる植物を振り払いながら、見失わないように付いていく。
そうやっていると、急に開けた場所に出た。纏わりついた草葉を最低限振り払い、視界を確保する。
そこに、聖善くんは立っていた。
「急に走り出してどう——」
聖善くんの立っているその正面、そこには焚火があった。キャンプなんかの小さいものではなく、結構大きめの、文化祭のキャンプファイヤーくらいだ。あれ、創作物でしか見たことないのだけど、普通に危険だから実際はやってないんだろうな。
そんな創作でしか見たことのない焚火、それがあるだけなら何も問題ない。山火事にならないよう気を付ければ良いだけだ。暖を取っているだけ、心落ち着く時間だ。
ただ、その火の上で人間としか思えないものが焼かれているので、問題大ありだった。
これまた創作でしか見たことないような、洗濯物を干すときに使うような形の木の棒に、両手両足が縛られて吊るされている。できれば猪とかであって欲しかったが、真下の炎が丁寧に照らしてくれているため、どう見ても人間だった。
加えて、こちらは逆に人間であってほしかったのだが、その焚火を囲んでいる巨大な生き物がいる。人型ではあるので、ワンチャンただのカニバリズム全開の異常者で済むかもしれないと思ったが、しかしこっちの願望も非情にも打ち砕かれた。
それは——まぁ、どう見ても鬼だった。
酔っ払いとか比じゃないくらいの赤い肌。容貌魁偉とした体格。身長のギネスが更新されそうだ。人間だったらの話だが。動物の毛で作られたパンツに、脇に金棒が置いてある。極めつけに額部分から角が生えている。ここまでテンプレだと、初見にも分かりやすい。
鬼——とても見慣れた、子どもの頃から絵本なんかで見てきた鬼の姿が現実にあった。嫌な夢の叶い方である。
さらに嫌なのは、人間の足っぽいものを美味しそうに頬張っているところだった。
丁度良い火加減なのだろうか、こんがり焼けた肌と黒く変色した部分とが混じり合っている。破れた皮膚から覗く肉はまだ赤く、弾力がありそうだった。
「大歩危くん、下がっていろ」
ボンっと聖善くんは背負っていたリュックを投げてきた。
こんな景色を前にして、聖善くんは何ら変わりない様子だった。感情というものが無いのか、それとも冷静なのか。そこまで行くと、もはや冷徹だ。
「『悪事成敗』」
腕を組んだ。その矢先、彼の全身が光りだした。
闇夜を照らす光が辺り一面を包み、昼と見紛うほどに発光している。
その光が収まったと思うと、そこに立っていたのは——何というか、えーと。
うーん、これは私がヒーローというジャンルを詳しくないからかもしれないが、どうなんだろう。かっこ良い……のか?
いや、確かにあの成敗部に並んでいるヒーローのフィギュアと似たような感じだというのは分かるのだが……、どう説明したものか。
取り敢えず言えることは、バイクに乗る時に被る感じのヘルメットにマントを靡かせ、仁王立ちしているということだ。どんな早着替えなのだろう。
とか、現実逃避をしている暇は無かった。鬼が、地響きを立てながら突っ込んできたのだ。
聖善くん——いや、ヘルメットマン? コスプレ野郎? 面倒くさいから聖善くんのままで行くが——は、鬼が振り下ろした拳を軽々受け止めた。
「一応訊こう。あそこにいる人間は君が殺したのか?」
「……ソウダガ」
喋った!
何と人語を介すタイプだ。思ったより良い声である。
「なるほど。ではお前を悪と判断し、正義の名のもとに成敗する」
受け止めた拳を弾く。そうすると鬼は後方に体勢を崩し、正面ががら空きになる。
「対象は仮称鬼。悪事は殺人。懲罰は——」
死刑。
今度は、聖善くんの右手が輝き始めた。そこから、光の剣——実体の掴めない、光を放つ棒状のものが出てきた。
刀だった。日本刀である。
それを握ると、そのまま斜めに切りつけた。
鬼の体は、文字通り真っ二つになった。
そのまま地面に倒れ、ズンと衝撃が起こる。
そして、二度と起きることはなかった。
先程から、目の前で起こっている出来事を何も理解できていないのだが、「あ、終わったのか」とかどこか冷静な私もいた。
一瞬だった。尺稼ぎをするにはどうにも苦しいくらいの一瞬だった。
聖善くんはやっぱり何の様子の変化も無かった。一連の流れの最中も、私と話している時と同じテンション感だった。
目の前に広がっていく血と、動き出すことのなくなったその肉塊を、周りの景色と同等に捉えている。ある意味平等で、絶対的な自然の摂理であるかのような顔をしている。それらが人の形をしているような薄気味悪さを、私は感じた。
「大歩危くん」
思わずビクッとしてしまった。
何に対する恐怖か分からない。私は一体、何に対して怯えているのだろう。
「鬼を退治した。依頼人に報告しに行くぞ」
「え……、この状況をこのままにするの?」
「俺の依頼は鬼退治だ。後処理など知らん。死体となったものは悪ではない」
そしてそのまま来た道へ帰っていく。なんかその姿のままだとやたら目立つ。
色々訊きたいことはあるのだが、私から何か言い出せる雰囲気ではなかった。
私は後ろで見ていただけ、特に何もしていない。何の責任もない。逆に言えば、何かをどうこうできる権利もないのだった。このヒーローを自称し、実際ヒーローとも言える行いをした彼だけが、すべてを背負っている。
これって私必要だったか?
自信喪失、いや純粋な疑問である。ヒーローの活躍する現場にはヒーローだけいれば良い。私みたいな一般人が入り込める隙など無いのだ。わざわざ遠くの山まで来て堪能する見世物としてはまぁまぁだったけど、普通に死ねた。負債の返済のためとは言え、ただ単に命をかける羽目になった。
というか、事前に説明して欲しかった。鬼を見た瞬間、私は何もできなかったし、そのまま美味しくいただかれるかもしれなかった。
その可能性を考慮していないのか、それとも絶対に私を守ってくれるのか。下がっていろとは言われたけど、それってただ邪魔だからだろう。
「何か言いたげだな。大歩危くん」
またしても、見透かしたようなことを言う。
そりゃあるとも。たんまりと。
「鬼を目の前にして下手に動かず、俺に指示に従ったのは良かったな。状況を冷静に分析できるのは良いことだ」
いや、恐ろしくて固まっていただけなんですけど。そして頭で考えるよりお前が一瞬で終わらせてしまっただけなんですけど。
「……説明してくれる? 私はさっきから疑問が止まらないんだけど」
「ふむ。説明とは何を指す?」
「あなたのその格好よ。そしてその刀は何?」
「この格好か。これは俺の中にある正義因子の実体化だ。俺が悪だと判断した存在が現れた際、悪を成敗するために顕現させることができる。身体能力の向上がメインだ。さらにかっこ良い」
いや、主観的なセンスを訊いたわけではないのだけど……。
正義因子? また知らない単語が増えたが。
「この刀は『完全懲悪』だ。悪を成敗する時に対象とその悪事の内容、そしてしかるべき罰を唱えることで、それに見合った殺傷力、および形状に変化する。とてもかっこ良い」
かっこ良いのセンスはやっぱり分からないけど……、いや、確かに説明はしてもらったが、もっと根本的なことを教えてもらってない。
「何でそんな力があるのよ」
「正義因子が強いからだ」
だからそれは何だ。
「人の心には正義と悪が存在する。天使と悪魔のあれだ。要するに人間の心の動きなのだが、それを因子として分けることが可能だ。正義因子と悪因子、これらの比重によって善人と悪人が決まるわけだ」
「それは……、妄想か何か?」
「事実だ。今君が目にしているだろう。まぁ、因子の比重があると言っても、実際は行動で決まるのだがな。頭の中で殺人を考えていたとしても、それは考えているだけで何も行動はしていないだろう。殺人のために準備をしたり実行に移したりして初めて悪となる。世の犯罪者というものは大抵、この悪因子が強くなったせいで犯罪に走る」
いきなり展開され始めたファンタジーな話に、私は当然戸惑っていた。
ただ、一応その話を信じないと、話が進まないので、一旦は黙って聞くことにした。
「ここまでは良くある話なのだが、重要なのはここからで、稀に正義因子と悪因子のどちらかが強過ぎるものが生まれる。具体例は俺とさっきの鬼だ。そういった奴らは特別な力というものが備わっている。俺で言えば変身能力と『完全懲悪』。鬼で言えば体の著しい肥大化といったところか」
「え? ちょっと待って」
流石に止めた。
気になることは増えたけど、質問をしないといけないことを言ったよな? 一時停止して確認しないといけないやつだ。
「鬼? さっきの鬼? あれは妖怪とか怪異とかじゃないの?」
「何を言っている。妖怪なんているわけないだろう。それとも君は幽霊の存在を信じているタイプか」
「そうじゃなくて……」
いや、そう言いたいのだ。そうあって欲しいのだ。
でないと。
「さっきの鬼は、人間ってこと——?」
「そうだ」
聖善くんは至って普通に返した。
私は、どこかでそれに気付いていたのかもしれない。ただ、起きた非日常を遠ざけようと、できるだけ向こうの方にやりたかったのかもしれない。
だって、あんな人を食っていた鬼が——人間?
そんなわけが——。
「妖怪がいる方が、そんなわけがだと思うが」
「だって、聖善くんは鬼を見たことがなかったんでしょう? ならあれがその悪因子とかいうもののせいだって言えないじゃない」
「正義因子と悪因子による能力は、何ひとつとして同じものは無い。似たものはあるが。俺はあんな鬼に変貌するようなやつは見たことは無かった。今回はそうだった。それだけだ」
なんで——そんな平然としているんだ。
人を殺した、いや、まずあの鬼が人だということに対して驚かないのか。
「ああ、因みに」
聖善くんは無表情なままで言った。
「別にあれが悪因子によるものではなくても——俺はあいつを殺していたがな」
私は、そこでようやく明確な恐怖を実感した。
この男、正義が何だとか悪がどうこうとか言っているが、それ以前に。
命をどうでも良いと思っている。
やたら正義を口にし、自分をヒーローだと名乗っているが、そこに命が絡むことに対して何の感情も無いのだ。
悪なら平気で命を奪い、正義なら見逃す。
しかも、その基準は何か絶対的なものではない。彼の基準によるものだ。気分次第——とまではいかないが、彼の判断がすべてだ。
一見正しいように見えるその判断は、どこかで絶対間違っている。
だって、鬼を殺しても罪に問われないとか言っておいて、それが人間だと分かった上で尚殺したのだ。なら、結局本当の鬼か人間かなんて関係なかったってことじゃないか。
「その通りだ。仮に『本当の鬼』なんてものが居たとして、居るだけでは何も悪ではない。人を襲うから悪だ。人間も、ただ居るだけでは悪ではない。人を殺したから悪だ。だから訊いただろう。君が殺したのか? と」
「で、でも。人間だったんなら、人を殺したということになるんじゃ」
「正義のためだ」
やっぱり——こいつ狂ってる。
正義のために人を殺して良いとか本気で言っている。
大体なんだその正義って。法律か? 道徳か? それとも感覚か?
殺すことがおかしいって言っているんじゃあない。何故そんなに平然としていられるのかが分からない。
普通じゃない。一般の常識から大きく逸脱している。
それで正義を名乗っているんだから、より薄気味悪い。
いや、もっとシンプルに、気持ちが悪い。
「話を続けるぞ。因子の強いものが力を持つと言ったが、これは何かしらきっかけがあるというわけでもない。自然現象だ。足が速いとか勉強ができるとかと同じで、生まれつき備わっているものだ。特殊能力、超能力のような形で発現するのは統計的に、百人いたら一人くらいの割合だな」
「……結構いるんだ」
「そうだな。能力と言っても様々で、羽を生やして空を飛ぶやつ、性別を換えるやつ、、時間旅行を可能にしたやつと様々だ。空を飛んだやつは飛行機事故を起こしたので羽を捥ぎ取った。性別を換えるやつは結婚詐欺を繰り返したので陰部を切り落とした。時間旅行をしたやつは大変だったな。俺を倒すために過去に遡って俺の母親を殺そうとしたが、『完全懲悪』がタイムマシンに変化してくれたおかげで何とか殺せた。こいつらはいずれも、能力の発現だけなら何も悪ではない。得た能力により悪事を働くから悪なのだ」
突拍子もない空想上とも思えるその話を、私はちゃんと聞いてはいたが、現実味が無かった。
目の前の男が、何か得体の知れない怪物のように思えてならなかったからだ。
「正義因子を持つから正義ではなく、悪因子を持つから悪ではない。もし悪因子を持っているだけで悪なら、俺と君は今すぐ自首した方が良い。ただ、そうではないことは子どもでも分かるだろう。正義因子を持つからといって、必ず正義の行いをするとも限らないしな」
正義の行いってなんだ。
私には、それが分からなかった。悪だから、人を殺したから人を殺して良いのか?
そんな道理はないはずだ。因子がなんだか知らないけど、命を奪うことは何よりダメなことじゃないのか。
平然と命を奪ったこいつが、正義を語れるのか?
「『完全懲悪』の反応が消えないな」
何か言ったかこの野郎。
「俺の『完全懲悪』は成敗対象を一度認識したら、成敗が終わるまで解かれることはない。さっき鬼を斬ったから、もう対象はいないはずだが消えない。今回の対象は仮称だが鬼だ。つまりまだ鬼が残っているということだろうか」
は? それってどういう。
「……おい」
前方から声がした。
見れば、依頼人の少年だった。
何か様子が変だ。肩を震わせ、物凄い表情をしている。
「……鬼はどうした」
口調もまるで違う。どうしたのだろう、もしかして私たちが帰ってくるのが早過ぎて、まともな調査をしていないと思われたのだろうか。
しかし、鬼は一応いたし、証拠の死体もあるにはある。ただ、これをどう説明したものか。また因子がどうこうの話をしないといけないのだろうか。だとすれば、こいつには任せず、私が何とか穏便に——。
「鬼は退治した。君も鬼か」
聖善くんが刀を少年に向ける。
「ちょ、何言ってんの」
私は強い口調で言った。苛立っていたのもある。こいつの異常性はもう懲り懲りだが、第三者に向けられているのを見過ごせるわけではない。
「俺の『完全懲悪』が消えない。これは成敗対象がまだいることの証拠だ。俺が仮称鬼と呼んだ人食いの化け物がまだ存在しているということだ。『本当の鬼』など存在しない。俺は人を食っている悪を『鬼』と呼んだ。つまり、まだ人を食っているやつがいる。君も人を食っていたのか?」
「何ふざけたことを」
「その通り、俺が鬼だ」
は?
依頼人の少年は、聖善くんの世迷言を肯定した。
「森の鬼を殺したと言ったな。あれは俺の父親だ。昔から人を食う趣味があった。母も数年前に食われた。そうしているうちに段々姿を変えて本当の鬼の姿になった。人前に出られなくなった父は、俺に命令して獲物を誘い込むよう指示していた。お前らみたいなのが何人も釣れたよ。オカルトマニアに肝試しに来た学生。本気で退治しようとしたやつもいたな。全員食われたが」
「君の身の上話はどうでも良い。俺は君も人を食ったのかと訊いている」
「……人食いの父親に育てられたんだから当然、俺も食った。父のような化け物になるのはごめんだから、セーブしているが」
「なるほど。ではお前も成敗対象だ」
「馬鹿を言うな。俺は人間の正気が残っている分、父より強い」
「残念だが、それはつまり悪因子が弱いということだ。正義因子が強い俺には勝てん」
さっきから私の理解の外で話をしないでほしい。頭がおかしくなる。
聖善くんと少年は、しばらく見合っていたが、ほぼ同時に距離を詰めていった。
そしてまたもや一瞬だった。少年がどんな攻撃を仕掛けてくるのかとか、特殊能力の読み合いとか、そんなバトルの醍醐味は一切無かった。
聖善くんがさっきと同じように斜めに剣を振り、少年がふたつに分かれた。
父親と同じような姿になったが、彼はそれを確認することはもうできない。
ただ、明確に違うのは、彼は人の姿だということだ。
さっきの戦闘で、私は鬼の姿だったから平気だなんて思ったわけではない。それが元人間であることを度外視しても、生き物が真っ二つに斬られたことに嫌悪感を抱いたのだ。命が軽々しく奪われた現場に直面し、その行いを忌み嫌ったのだ。
少年は自分を鬼だと言った。しかし、私の目にはただの人間に見える。
彼が人を食べたのは事実かもしれないが、それでもこんな仕打ちをして良いのか?
再び、私は目の前に立っている男が不愉快だと思った。
「ふむ、食人一家だったというわけか。どこかで変だと思っていたのだ。あの写真、今思い返すと月が満月だった。だが今の月は上弦だ。写真は二日前のものと言っていた。矛盾しているな。現地に来た者に説得力を持たせるためにあらかじめ用意していたものだったのだろう。俺は気付けなかったが、『完全懲悪』がそれを示してくれたというわけだな。む、消えた。これで鬼退治は完了だ」
聖善くんはヘルメットとスーツ姿も解き、学生の姿に戻った。
私には、こっちの方が鬼に見えた。
平然な顔をして暮らしている、殺人鬼に。
「それでだ、大歩危くん。今日で君の負債は完済だ。ご苦労だったな」
「……え、何もしてないけど」
したくもない確認だ。何もできなかったの間違いだ。
目の前で起こる異常な惨状に、何もできなかった。
「いやいや、役に立ってくれた」
あの鬼は君を、つまり女性を狙って飛びかかってきたからな。
ここに物差しがある。
これは何をはかるものなのだろう。
正しさ? 悪さ?
そもそも、この物差しはどうやって作られたのだろう。
誰が作ったのだろう。
私はその物差しを壊した。
あるのは、私だけ。
3
学校を休んだ。
初めてのことである。幼稚園から続く私の無遅刻無欠席記録は無意味なものになった。
あのことは誰にも話していない。話せるわけがない。病院にかかることも考えたが、まだそこまでではない、と思いたい。医者の娘が良い笑い者だ。
純ちゃんが頻繁に連絡をくれたり、電話で話してくれたりするのが支えになっている。本当に良い子だ。
最初は気分が悪くなって何度もトイレに駆け込んだ。両親に妊娠を疑われたが、検査薬を突き付けて黙らせた。あの人たちは外科医なので、心の問題は対処に困っていた。まぁ、私は割と人前では平気な顔していたので、そこまで大事にはしてもらってはいない。心配してもらわなくても大丈夫だ。ただ、少しゆっくり休みたいだけだ。
もう一週間になる。光景というか、あの時の感情が湧き上がってくると、どうしても溜息をつく。何もできなくなる。時間は思ったよりあるはずなのだが、気付けば日は暮れている。ベッドに寝転んで、外から漏れてくる常夜灯の光が朝日に変わるのを三回は見た。
掃除や勉強で気を紛らわせようとしても、どこかのタイミングでプツリと糸が切れたように無気力になる。血液の流れと心臓の鼓動だけをやけに意識するようになったり、視界に映ったインテリアをずっと眺めたりする。
怒りや悲しみとも違う、名前の付けようがない初めての感情だ。
一体どうすれば良いのか。
その答えを持っていなかった。
私の人生において、答えの無い問題が出るとは思わなかった。だって才能と努力で必ず何とかなったのだから。何かしらの壁があっても、攻略法と答えを見つける。エンディングに辿り着く。それが私の生き方だ。
私は、この状況の答えを見つけられずに燻っていた。なんて、かっこつけているが、要するにへこんでいるのだ。
割とメンタルクソ雑魚な自分にも、あの忌々しいエセヒーローにも、ほとほと嫌気が差す。明確にここまで人を嫌いになったのは初めてだ。私の環境は恵まれていたんだなぁ、と今更ながらに思う。
家庭や友人に恵まれ、才能と実力に恵まれ、唯一の弱点であった貧弱な体も鍛え上げることに成功した。何か達成したい目標ができれば、必ず達成できる。それが当たり前で、自分は困ることはないと信じて疑わなかった。
でも、実はそうじゃなかったのだと、社会の厳しさを実感した。
いや、あの男のことを社会に組み込んで良いのだろうか。どう考えても社会不適合者だ。社会から爪弾きにしても誰も文句言わないだろう。隔離しろ、追放しろ。
そんなやつにメンタルを破壊されて、うじうじ家に引きこもっている私が言えた口ではないかもしれないが。
ただまぁ、ちょっとくらい良いじゃないか。疲れたら休む。それが当然だ。
来週には学校に行こう。快復したとは言えないが、これ以上周りに迷惑をかけるわけにはいかない。
ここ数日、純ちゃんにさえ会っていなかったのだから、人恋しさも無くはない。体も全然動かしていない。大分鈍ってしまっている。部活動の助っ人に顔出しても良いだろう。あ、いやそうするとまた純ちゃんが拗ねてしまうな。
純ちゃんからは、毎日鬼のようにメッセージが届く。中身は天使のように優しいものだが。
彼女は最初こそ何かあったのかと訊いてきたが、私の反応を見てそれ以上の追及をやめた。良くできた子だ。私は彼女のような友人を誇りに思う。
あのヒーローもどきには埃をぶつけてやりたい。
と、そこで私のスマホが鳴る。
「純ちゃんからだ」
噂をすればというやつである。今はちょうど放課後くらいだろうか。大抵この時間に電話がかかってくるようになった。
私は応答のボタンを押す。
「もしもし」
「あ、宙衣。元気?」
「まぁ、そうね。来週からは学校行こうかなってくらいには元気になったわ」
「本当? 良かった~。宙衣ってば急に休むんだもん」
「ごめんね。心配かけちゃって。ちょっとね……、まぁ嫌なことがあって」
「え、何? 教えてよ。私が力になるよ」
純ちゃんが言うと説得力が違う。何でも力になってくれる。私の味方をしてくれる。
昔から変わらず、これからも私の力になってくれる。
私は、肝心なところはぼかして話すことにした。個人が特定できない範囲で、それとなく、何があったのか具体的なことは言わず匂わせる感じで。
「それがね、ちょっと部活の手伝いをしてたんだけど、そこの人があんまり性格が良くないっていうか、私と相性悪かったのよ。衝突というか意見の違いというか、私の価値観とは大きく違う人だったから、結構ショックを受けてね」
「……ふーん。名前は? どんな見た目?」
「あ、いや。それはまぁ……、良いじゃん。まぁともかく折り合いが悪かったんだよ。私もそんな人に会うのは初めてだったからね、ちょっとビックリしちゃっただけだよ。気にしないで」
妙な語気の強さを感じた。純ちゃんのことだ、文句の一つどころか、殴り込みに行くかもしれない。それは嫌だし、あいつに会わせたくない。
「……分かった、宙衣がそう言うなら。来週は学校来るんでしょ? 宙衣のことだから大丈夫だと思うけど、一応授業のノートを取っておいたよ」
「本当? ありがとう。でも純ちゃんの方が内容は理解してるの?」
「黒板を丸写ししたから問題無し!」
「……それって、大丈夫じゃないよね? テストが近いけど、勉強はしてる?」
「まっさか~。するわけないじゃん」
「そんな当たり前みたいに言われても……」
「だからさ、学校に来て私に勉強教えてよ。このままじゃ私、一緒に卒業はおろか進級もできないかもね~」
「……どんな脅しよ」
まったく、困ったものだ。
まぁ、一緒に卒業できないのは嫌なので、そろそろ学校に行こう。
待っていてくれる人もいるわけだし。
「それじゃあね、お大事に~。愛してるぜ」
「はいはい、私も私も」
いつもの挨拶で通話を切る。
私たちはお互い、助け合って生きている。私は私の力だけで生きているわけではない。そのことを、この一週間で強く実感した。
自分で生き、自分で目標を見つける。自己完結の究極とも言える私に、「助け合う」ことを教えてくれたのは純ちゃんだった。
本当のヒーローとは、ただ一方的に助けるのではなく、助けた人に力を与える存在なのだろう。
世の中には間違ったことをする人がいて、それを正すことが絶対なのだと、昔は思っていた。だが、それだけでは、武力行使で黙らせたに過ぎない。
傍に寄り添い、共に歩く。
それこそが、正義と呼べるものだ。
だがあの男、聖善正義は、それに当てはまっていない。私の正義と次元の違う正義だ。いや、正義の反対は別の正義なんて良く言うが、あいつの正義は正義でも何でもない。自分の行動を正義と言う言葉で正当化し、殺人さえも許容する狂人だ。そんなやつが正義であってたまるか。剰え、あいつは自分を正義の代名詞とも言えるヒーローを名乗った。
私にとってのヒーローは、純ちゃんのような存在だ。
すべてが正しくなくて良い。勉強がちょっとできないくらいどうだって良い。私の傍にいてくれて、寄り添ってくれる。
それが私のヒーローだ。
そんな純ちゃんに憧れたのだ。正義の象徴が純ちゃんだ。私の正義は、彼女だ。
うん、元気出た。やっぱり純ちゃんは凄い。
彼女がいてくれて本当に良かった。私を守ってくれるヒーロー、私の正義。
彼女のためにも、もうくよくよしていられない。あの男と出会ったせいで、私の正義が揺らいだけど、何とか持ち直せた。ちょっと時間かかってしまったが、これも良い勉強ということにしておこう。
久しぶりの、ちょっとだけ晴れ渡った気分になった私は、リビングへ降りてコーヒーでも飲もうと思った。お湯を沸かしている間、テレビを付けて時間を潰す。
ニュースに、私の学校が映っていた。
『依然、外からは中の状況はうかがえません。ただ、少なくとも校内に残っている生徒に死者が出ていることは確かなようです。通報があって僅か五分程度ですが、警官が校舎を封鎖し、報道陣を遠ざけています。一体、中で何が起こっているのでしょう。目撃者の情報によりますと、体育館で大きな衝撃があり、次いでプールの水がすべて赤く染まったとのことです。にわかには信じられませんが、すべてカメラにおさまった事実のようです。警察は、テロの可能性も考え、機動隊の導入も検討しているとのことです』
鐘城高校である。間違いなく、疑いようなく。
一週間前までは毎日通っていた学び舎が、液晶の画面を通して映っている。学校がテレビで流れる場合と言えば、部活動に打ち込む青春の美しい姿を取材したり、文化祭なんかをローカルのテレビ局が取り上げたりする時くらいだろう。
ただ、今回はそのどれでもなく、全国放送の緊急中継で流されていた。
私は人並みにミーハーではあるので、母校がテレビに取り上げられることに対しては普通にテンションが上がったりはするのだが、この報道は一体?
プルルルル。
母からである。
「ちょっと! あんた大丈夫⁉ 家に居る⁉」
「う、うん……、居る……」
「良かった……。テレビ観た? 凄いことになってるわよ。家に居るなら大丈夫だろうけど、私たちも一応早く帰れるようにするわ。大人しくしてなさい」
「は、はい……」
母の訊いたことのない悲痛な叫びが嵐のように駆けて行くと、またテレビのリポーターの声だけが響く。
何だ? どうなっている?
いや、何かしらの事件が起こっていることは確かだ。それは理解できる。ただ、またもやどうしたら良いのか分からなくなった。こんな頻繁に答えの無い問題が出てくると、私の人生の正答率が下がるのでやめてほしい。
「あ……、純ちゃん!」
固まっていた思考がようやく機能し始めた。
そうだ、あそこにはまだ純ちゃんがいるはずだ。電話したのは七分程前、ニュースによると事件は五分前に起きたらしい。まだ校舎に残っているはずだ。
死者? 死者が出ている? 純ちゃんが——まだ。
私はどうした良いのか、そうやって悩むことはもうなかった。私は親の言いつけを破り、家を出て学校へ向かった。
部活動破りで鍛えていて良かった。前までなら倍の時間がかかっていた通学路を、自己ベストを更新しながら駆け抜けて行った。学校既定のローファーではないことも関係している。私はめちゃくちゃ部屋着なのだが、そんなことはどうでも良かった。
信号も無視して、通行人にぶつかりながら走った。がむしゃらに走るのでもなく、ちゃんと速く走った。フォームが綺麗に整っているのを冷静に理解していた。
勿論、メッセージを送り、電話をかけながらだ。電話に出て安全が確認できれば良し。そのまま落ち合って抱きつく。確認できないなら、学校へ行って見つけ出して抱きつく。私の中にあるのはそれだけだった。
思ったよりすぐ着いた。校門は案の定、人の群れで埋まっていた。私は側面に回り、塀を飛び越えた。さっきから私、不良みたいどころか、不良そのものみたいなことばっかしてるな。
ただ、居ても経っても居られない。理屈ではなく、感情だけで動いていた。
行って何ができるのか。危険を冒してまですることがあるのか。
私は何もできない——。
そんな考えは一切浮かばなかった。純ちゃんがいる。それだけで動く理由には十分過ぎる。もしかしたらもう逃げだしているかも。それなら連絡がくる。でもこない。ということは、まだ居る可能性が高い。連絡が取れない状況なのだとしたら、余計見つけ出さないと。
外と通じる渡り廊下から校舎内へ入る。電話をかけているが、あちこちから着信音がする。どうやら、他の生徒の携帯電話も鳴っているようだ。
私は取り敢えず、自分のクラスの教室へ向かうことにした。まずそこだろう。
校舎の二階へ登っていく。さっきから生徒の姿が見えない。何故だろうか。我が高校は大半の生徒が部活に所属している。運動部がほとんどだ。だから、放課後に校舎に残る生徒は少数だ。それを加味しても、生徒どころか教師の姿も見えないのはどういう——。
教室に付いた。お隣のクラスは空っぽ、我がクラスも空っぽだった。
ただ、純ちゃんのバッグは置いてあった。お揃いのキーホルダーがぶら下がっている。
ここにはいない——けど、さっきまでいた。バッグなんか置いて逃げたということだろうか。だとすればどこへ? 私との通話直後に何かしらのアクシデントが起きたのだとしたら、携帯は持っている可能性が高い。でも応答が無いということは、やはりのっぴきならない状況に追い込まれているのだろう。
早く見つけないと。一刻も早く、純ちゃんを助けないと。
当てはないが走り出した。何でも良い。何か手掛かりは無いか。
そうだ、ニュースでは体育館がどうこう言っていた。校舎とは離れた場所にある。我が校は運動部が盛んな分、部活ごとに設備が充実しているのだ。陸上トラックに柔道場、水泳部専用のプールもある。そっちなら。
私は校舎を出て、まず体育館へ向かうことにした。グラウンドに出る。
そこで初めて、人の姿を見た。
このグラウンドは主に野球部が使用し、サッカー部と陣取り合戦をしている。少し離れたところにテニス部のコートがある。この場所からなら、その三つの部活風景を一望できる。
ただ、人の姿はあったが、立っているものはいなかった。
グラウンドに出て、私の目に入ってきたものは、確かに人だった。
全員、上半身と下半身を真っ二つにされている、人の死体だった。
私は一瞬のうちに色んな考えが巡った。
人が死んでいる。それはニュースでも言っていた。ただ、何故死んでいるのか。本当に死んでいるのか。何かたちの悪いドッキリじゃなかろうか。そうだ、人形かもしれない。マネキンだ。赤いものはトマトかケチャップかトマトケチャップだろう。そうだ、そうに違いないああダメだ。人だ。紛れもなく人だ。この人たちは部活動破りの時にお世話になった。見覚えがある。名前まで覚えている。あれは野球部部長の下関さんで、こっちは副部長の近江さんだ。ふたりとも女子の私に関係無く特訓してくれた。おかげで下関さんは自信喪失してピッチャーを降りてしまったが、まだキャプテンとして頑張っているのだろう。おや、あそこに居るのはサッカー部部長の靑武さんじゃあないか。プロからスカウトが来ているらしかったが、その話が私に回ってきたことに怒っていた。サッカー部は半ば追い出される形だった。しかし、一時期は一緒に汗水流した仲だ。テニス部は……、ちょっと遠くて見えないな。でも、部長の椰子庭さんは熱い人だったから、多分居るんだろうなぁ。みんな、倒れている。そしてもう汗を流すことはないんだろうな。血は流しているけど。ハハッ。どうしたものか。多分私が駆け寄ったところで何もできないのは確実なんだろうけど、将来有望な警察官を夢見る少女としては、現場検証を行っておくべきなのだろうか。それとも、助けを呼ぶために大人を、教師を呼ぶことが必要かもしれない。そう言えば教師は何をしているんだ。生徒を守れよ。お前らも公務員だろ。まさか逃げたなんてあるまいな。部活の顧問はいるのだろうか。あ、なんだいるじゃないか。ひとり日陰の涼しい場所で休んでいる。おやおや、生徒と同じようになっている。流石だ、地面に顔を付けて生徒と同じ目線だ。それでこそ顧問だ。教師の鑑だ。でも惜しいな、説明責任も果たしてくれないと。生徒の疑問に答えるのが教師としての大前提じゃないのか。おーい、せんせー。ここで何があったんですかー。
「あ、宙衣。来たんだ」
応えたのは、聞き馴染みのある声だった。
私は顔だけ動かすと、そこには愛しの、探し求めていたヒーロー、そして助け出すべきヒロインの純ちゃんが立っていた。
右手に、人間の上半身だけを持って。
サッカー部の椰子庭さんだった。
「学校来るの来週だって言ってたのに、どうしたの? あ、忘れものとか? それだったら私が届けるのに」
「————」
「それとも、体を動かしたくなった? 良いね、今丁度グラウンド空いてるから。体育館とプールはちょっと使い物にならないかもだから、ここが良いよ」
「————」
「他は陸上部のとこも空いてるし、トレーニング室は自転車部が使ってたけど誰もいなくなったよ。一台くらいはマシンが残ってるんじゃないかなぁ」
「————」
「まさか相撲部じゃないよね。ひとりでぶつかり稽古でもする? 私が相手しても良いよ。いやぁ、宙衣と抱きつくなんて照れちゃうなぁ」
「————」
「あ、そうだ。悪いけど私、これから元吹奏楽部の部員を探さないといけないんだよね。万が一ってこともあるし、文化部もやっとかないと」
「————」
「宙衣が教えてくれたら早かったんだけど、言いたくないみたいだしさ。無理強いはしないよ、強引な性格は嫌われるからね」
「————じゅ、純ちゃん」
絞り出した。掠れた、震えた声で名前を呼んだ。
「ん? どうしたの」
「その人——は」
人に指を指してはいけないと教わった私だが、果たして純ちゃんの手にあるものは人なのだろうか。
「ああ、これね。何でもないよ。なに? 手を握っていたからやきもち? 宙衣ってば可っ愛い~」
「そうじゃなくて——えっと、一体、何が」
「何って?」
「何が、起こったの」
純ちゃんが知っているはずはない。彼女は被害者なのだ。
ここに倒れている生徒たちと同じように、何かしらの事件に巻き込まれた、哀れな犠牲者のはずだ。
だから、この惨状に対して、何も知っていることは無い。
「私が殺したんだよ。全部」
何も変わらない口調で、純ちゃんはそう言った。
最近、似たような経験をしたような気がする。
「宙衣、部活で酷い目に遭ったんでしょう? ちょっと変だったもんね。極めつけに一週間も学校休んじゃって。これはもう絶対何かあったよね。だからさ、私が宙衣を守ってあげるの。もう大丈夫だよ。みんな死んだから。あ、吹奏楽部はまだだったね。じゃ、殺してくるね」
「待って!」
どこかへ行こうとした純ちゃんを呼び止める。
「何かの冗談よね、純ちゃん。だって、純ちゃんがこんなこと——人を、なんて」
震えが止まらない。言葉にならない。出したくない。
「宙衣、私はね、宙衣だけがいれば良いの。それ以外はどうでも良い。勉強は宙衣と一緒に居るためのツールだからちょっと頑張るけど、それ以外はどうでも良い」
純ちゃんは、口調こそいつも通りだったけど、僅かに言葉に感情が乗っていた。
あの男のような無機質なものではなく、機微が読み取れる。
だからこそ、これが純ちゃんの偽りのない本心だと分かった。
「宙衣は可愛くて勉強ができて、私なんかに優しい。どっちが先だったとかもう忘れちゃったよね。傍にいて当たり前だったから。それくらい、私たちはお互いのことが好きだし、お互いのために何でもできる。私だけのお姫様——」
笑顔。
純ちゃんは笑顔だった。
私といつも話している時の笑顔だ。この笑顔に、私は支えられてきた。
「正直ね、宙衣が部活破りをすること、あんまり嬉しくなかったんだ。会えないし、弱々しくて可愛い宙衣じゃなくなるのが嫌だった。でも、宙衣がやりたいって言うから我慢した。宙衣のことだから、とっても強くなったけど、私よりまだ弱いから安心したよ。私が必要無くなっちゃうんじゃないかと思って。これからも、私が守ってあげる。ずーっとずーっと」
「まも、る」
「うん。宙衣は私のことヒーローだって言ってくれたことあったよね。だから私、宙衣を守るためにヒーローになったの。ほら見て」
そう言うと、純ちゃんは光り始めた。
これもまた、最近見たような気がする。
趣味の悪いヘルメットに、冗談みたいなスーツだ。
「ほら、凄いでしょ。この姿になるとね。宙衣を守るための力が溢れてくるんだ。あとこれ、剣も出るんだ。宙衣の敵だけを斬ることができるんだよ。名前は『人情沙汰』っていうの。かっこ良いでしょ」
やっぱり、そのセンスは分からない。
何で——純ちゃんも、あいつと同じ。
「いつから、なの」
「出会った時から」
純ちゃんは言った。
「幼稚園の時、初めて出会って、すぐ仲良くなって、外の砂場で遊んでたでしょ? その時、蜂が飛んできて危ないって思ったら、私の手は蜂を殺すために輝いたの。幼い私ははっきりとは認識できてなかったけど、多分その時からだよ。それ以降は、宙衣が何か危ない時やピンチの時に、私は力が使えるようになったの。まさに、宙衣を守るためだけの力。それ以外の時は普通の女の子。副作用というか副賞みたいなもので、身体能力が普通の人よりちょっと高いくらいにはなったけど、それも宙衣のためだよ。わざわざ力と剣を使わなくても、宙衣を守れるように。いつでも傍にいられるように」
純ちゃんの話は覚えている。あの時は、純ちゃんが蜂を追い払ってくれたのだと思っていたけど——。
「逆に言えば私の力は宙衣がピンチの時にしか使えないの。さらに逆に言えば、私が力を使えるってことは、宙衣がピンチってことなの。今この瞬間、宙衣がピンチに晒されているってことなの。それってつまりさ、この学校に宙衣の『敵』がいるってことじゃない? 実を言うと一週間前から力は使えたの。毎日毎日、力を得た日からずっと確認してるからね。宙衣が何かしらのピンチに陥ってることは分かっているけど、何をどうすれば良いのかが分からない。何から宙衣を守れば良いのか分からない。だって宙衣、教えてくれないんだもん。意地悪だね。焦らしプレイが好きなの?」
教えてくれない。
それは、私こそ言いたいセリフだった。
「でもついさっき分かったの。部活の人たちが悪いんだよね。誰かまでは分からなかったけど、全員殺せば良いやって。この剣、凄いんだよ。一振りで一つの部活全員を殺せるから、とっても効率良いんだ」
私が、さっき——。
私の、せいで——。
「それじゃあ、待っててね。あと部活に入っているのはどれくらいかなぁ。まぁ、時間をかけても良いんだけど、宙衣の敵は一刻も早く殺さないと、私の気が済まないからね。本当、この一週間大変だったんだから。ずっとイライラしっぱなしだったよ。生理の時より辛かったね。でももう安心。宙衣の敵はいないし、私たちはこれからも一緒。ね?」
ヘルメットで顔は見えないのだけど、純ちゃんは多分笑顔なのだろう。私の前で笑顔を崩したことは無い。私の前でというのは、私と話している時という意味で、例えばあの時、純ちゃんが大学生三人を相手にしていた時は——。
笑顔だった。
いや、そうだ、純ちゃんはずっと笑顔だった。
あの時も、あの時も、あの時も、あの時も。
ずっと笑顔だった。
私を助けてくれるヒーローは、どんな時も笑顔だった。
「あれ、宙衣。何で泣いてるの?」
え?
私は頬に手を当てる。
確かに、瞼から水滴が流れていた。
無意識のうちに、何故か零れていた。
「え、何。何で泣いてるの? ねぇねぇ、何で? 宙衣を悲しませるようなことがあったの? 何があったの? 誰がやったの? そいつらみんな殺すよ。だから教えて。何があったの? 許せない、宙衣を泣かせるなんて。流石の私も怒っちゃうよ。ねぇ宙衣。大丈夫だよ。何があっても私が守るから。私は宙衣だけのヒーローだからね」
「君がヒーローなわけないだろ」
二度と聞きたくない、聞き覚えのある声がした。
グラウンドには人だったものが転がっている。みんな、地面に這っている。
立っているのが私と純ちゃん。
そして、聖善正義だった。
相変わらずの無表情で、そこに立っていた。
「それでヒーローを名乗らないで欲しいな。ヒーローとは、俺のことだ」
「……誰、あんた」
「俺は聖善正義。ヒーローだ」
「……そう。どうでも良いけど、あんた、元吹奏楽部の人?」
「違うな。俺は成敗部だ」
「成敗部? 何それ。そんなのうちの高校にあった?」
「非公式だからな。だが、問題は無い。俺さえ居ればそれでヒーロー活動はできる」
「何こいつ……。でも、部活に入ってはいるのか。丁度良かった。あんた、宙衣に何かした?」
「何もしていない。一週間前に、鬼退治に一緒に行ったくらいだ」
「……は? 何それ。つまりあんたが宙衣を酷い目に遭わせた張本人ってこと?」
「酷い目とは何を指す?」
「とぼけてるの? 宙衣を傷つけたかって訊いてんの」
「知らないな。俺は君を殺しにきた。正義の名のもとに」
聖善くんは腕を組んだ。
一週間前と同じように。
「『悪事成敗』」
その掛け声とともに、聖善くんは変身した。
この場に、ヘルメットを被った人間がふたりも居る。ここはサーキット場か何かだろうか。
「……あんたもそういう力を持っているの。驚いた。で、どうするの? 私を止めに来たの?」
「その通りだ。一応訊こう。この学校の生徒を殺したのは君か?」
「そう。全員、宙衣の敵だと思ったからね。でもどうやらあんただったのね。向こうから出てきてくれて助かった」
「なるほど。ではお前を悪と判断し、正義の名のもとに成敗する」
聖善くんは一週間前と同じセリフを言った。
私のヒーローに向かって。
「対象は野呂間純粋。悪事は大量無差別殺人。懲罰は死刑」
聖善くんの手に、光が宿る。それを掴み取ると、あの刀が出てきた。
ただ、前と違うのは、聖善くんの身長よりも大きいということだった。
「おお、でかいな。これほどでかいのは、飛行機をジャックして空港に突っ込み、自分だけ逃げたテロリストを殺した時以来だ」
「……何それ、私がテロリストと同じだって言いたいの?」
「そうだな。『完全懲悪』は俺の正義心に比例して変化する。つまり俺がお前を世紀の大悪党だと思っているということだ」
「悪党? 私が? 私は宙衣を守っただけ」
「違うな、お前は悪だ。知らないのか? 人を殺してはいけないんだぞ」
何をいけしゃあしゃあと——。こいつ、やっぱり狂っている。
「どうやらお前は正義因子が強いようだ。大歩危くんを守る、なるほど。それは正義だな。その守りたいという心は正義だ。だが、お前は人を殺した。正義のためではない。お前のために殺したのだ。大歩危くんはお前に殺してくれと頼んだか? その様子だと違うようだな。まぁ、仮にそんなことを大歩危くんが頼んだのだとしたら、大歩危くんが悪であり、俺が成敗するのは大歩危くんということになる。勿論、共犯のお前もだが」
「何知った風な口を効いてくれてんの。私たちのことに口を出さないで」
「お前と大歩危くんの関係性など知らん。お前が人を殺した、その事実だけで良い」
「うざい、こいつ。宙衣、こんなやつに振り回されてたの? 可哀想に……。私が殺してあげるからね。私が守ってあげる。ヒーローだからね」
「そのヒーローというのをやめろ。ヒーローというものは正義の象徴だぞ。お前に正義は無い」
初めて、聖善くんが感情的になったのを見た気がする。相変わらず無表情ではあるが、口調も特に変わっていないが、聖善くんの心を感じた気がする。
「……本当、鬱陶しい。正義だか何だか知らないけど、さっさと死ね!」
純ちゃんが動く。手に持った剣を振り、斬撃が飛ぶ。
大きい、目に見える斬撃だ。これで部活のみんなを殺したのだろう。
それを聖善くんは巨大な剣で受ける。物凄い衝撃が、爆音となって響いた。
砂埃が宙を舞い、やがてはけていく。
「妙だな。当たった」
「当然でしょ。私の剣は宙衣の敵を殺すためのもの。敵を逃がさない。絶対当たるのよ」
「そうではない。俺の『完全懲悪』は正義を通し、悪を斬るものだ。もしお前が正義なら、この剣はさっきの斬撃を通して、俺の体を裂いたはずだ。しかし、当たったということは、刀がお前の攻撃は悪だと判断したということだ」
「何を言っているの? その剣はあんたが悪だと思ったやつに反応するんでしょ。なら、あんたの思い込みでどうにでもなるでしょ」
「違う。それは形状の変化であって性質ではない。根本的に、『完全懲悪』は正義を斬ることはできず、悪以外は斬れない。斬ることができないから、捕縛した悪も何人もいる。悪の基準は確かに俺自身だ。だが、『完全懲悪』の正義は絶対だ。そこは俺にもコントロールできない」
「……何が言いたいの?」
「やっぱりお前は悪で、ヒーローではないということだ」
再び、純ちゃんが剣を振るう。
何度も、何度も、何度も。あっちこっちに斬撃を飛ばす。校舎まで飛んで行った斬撃が、無骨な外壁を砕き、轟音を立てる。倒壊した瓦礫が地面に落下し、より大きな煙を上げる。
私は立ち竦んでいた。逃げ出すことも、崩れ落ちることもできず、ただその場に居ることしかできなかった。行方を見守ることしかできなかった。
「おい、全部当たったぞ。そんなに自分が悪だと証明したいか」
「……何なんだお前。さっきから、私を苛つかせて楽しいか? こっちは早くお前に死んで欲しいんだけど」
「いや……、そうではない。うむ、えっと……、何と言ったものか」
「急に歯切れが悪いな。何だ、言ってみろ。遺言くらいは訊いてやる」
「大歩危くんの前でお前を殺すと、大歩危くんが悲しむんじゃないかと」
ブチッ。
そんな音がしたような気がした。
「は? 何言ってんの? え? 本気で何言ってるの?」
「どうやらお前は大歩危くんの友人らしい。俺はお前を殺すことには何の躊躇いも無いが、もし今お前を殺してしまうと、大歩危くんを泣かせてしまうのではないかと思ってな。ヒーローがもっともやってはいけないことを知っているか? 女の子を泣かせることだ」
聖善くんは、考え込むように顎に手を当てた。
あの平気で人を殺せる男が、無機質な男が、躊躇っている。
いや、殺すことはやっぱり躊躇っていないのか。
「お前はさっき、大歩危くんを泣かせていたな。だからお前はヒーローではないと言ったのだ。それは何よりもやってはいけないことだ。大歩危くんを守るヒーローだと? その大歩危くんが泣いているんだぞ。お前はヒーロー失格どころかヒーローですらない。ゴミだ」
何だこの男は——。何で急に人情に厚いことを言ってるんだ。違うだろ。お前は人殺しを迷いなく実行できるサイコだろ。何でここにきてポイント稼ぎにきてるんだ。無理だろ。お前のせいで私は学校休んだんだぞ。泣いては——確かに泣いてはなかったけど、よりたちの悪いトラウマを残していったんだぞ。
だからどうして——そんなに平然としているんだ。
「……あんたは知らないだろうけどね。宙衣は昔から厄介事に巻き込まれやすいの。そういう星のもとというか、宿命というか、体質なのかな。だから私が守ってきたの。ヤクザに狙われたこともあったし、殺人事件の犯人に仕立て上げられたことや、あげくにどこかの研究所にサンプルとして攫われそうになったこともあった。可愛いから、何人もの変態が寄ってきた。数えるのを途中からやめるほどに。そしてその度に、私が殺した。全部、全部、全部全部。殺してきた。宙衣は私が守るの。私が守らないとダメなの。私が宙衣のヒーローなの」
純ちゃんまで、突拍子もないことを言い出した。
何だそれは。全部初耳だ。
「お前が過去、どれほど人を殺してきたのかは知らん。それは確かに大歩危くんを守るために悪を殺したのだろう。立派なことだ。だが、今のお前は道を踏み外している。何の罪も無い人たちを殺した。大歩危くんを泣かせた。そこに正義など無い。もう一度言おう、お前はヒーローではない」
ヒーローを名乗られたことそんなに嫌だったのか。狂人の地雷が分からない。
「それに、お前の力は大歩危くんを守るための力だと言ったな」
「そうよ。宙衣の守るために、宙衣の敵を全員殺してきた」
「違うな。お前の力はただの殺人能力だ」
え。それをお前が言うのか。
「大歩危くんを守る力がどうして俺を攻撃できるんだ? 俺は大歩危くんに何もしていない。むしろ助けに来た」
「……あんたが宙衣の敵だからよ」
「違う。だとすれば、『完全懲悪』はその攻撃を通す。お前が正義ということになる。だがそうではない。考えてみろ。俺は大歩危くんを傷つけにきたわけではない。殺された運動部員たちもだ。彼らは無実だ。しかし、お前の力は彼らを殺せた。つまり、単純に、お前は殺したかったんだ。殺したくて仕方なかったのだ」
聖善くんはやたら饒舌だった。何故かは分からない。あの鬼の親子のように、有無を言わさず斬り伏せば良いのに。
それはやっぱり、私のことを考えているから——? それとも、ヒーロー像に対して並々ならぬ情熱があるのか。どちらにせよ、普通の精神ではないが。
「大歩危くんに関わるすべての人物が気に入らないのだ。大歩危くんに誰も近付かないで欲しいのだ。そして近付いてくる者すべてが憎くて仕方ないのだ。だからそいつらを殺せる力が欲しい。お前の力の正体はそれだ」
「……だったら何。宙衣を守っていることには変わりない。あんたの言う通りかもね。だって宙衣の敵なら憎くて憎くて仕方ないもの。殺してやりたい。それがどんな相手だろうと、殺す。それで何か問題ある?」
「あるに決まっているだろう。お前の力が大歩危くんを守るためのものではなく、ただの殺人衝動なのだとしたら、その力は正義因子ではなく悪因子によるものだ。つまり」
大歩危くん、こいつが死んでも泣かなくていいぞ。
…………。
え?
私?
「今から俺はこいつを殺すが、どうか泣かないでくれ」
え、え、いや。あの、確かに私を巡っての話だったかもしれないんですけど、蚊帳の外というか、私抜きで話を進めていたんじゃあないんですか?
「目の前で見るのが辛いと言うなら場所を移そう。友人の最後を見届けたいと言うならこのままだ。ただ、こいつは完全な悪だと証明された。だから悲しむことはない。泣くことはない」
いやっ、そんな急に私に委ねられても。
泣く? 純ちゃんが死ぬ? 殺される? そして私が泣く?
この男は、さっきからあれこれ理屈をこねていたが、私が泣くかどうかだけを基準にしていたのか?
命はやっぱりどうでも良く、殺すことは決定事項だとしても、私が——女の子が泣くことだけが唯一の懸念点だと、そう言いたいのか?
何で? 気にするところがおかしいだろ。純ちゃんを咎めるにしても、殺人の方だろ。いや、殺人も咎めているのか。だから悪だと判断したのか。あれ? じゃあ何が問題なんだっけ。何がおかしいんだっけ。
この男は正しいんだっけ。純ちゃんが悪なんだっけ。
いや、そんなわけないじゃん。だってあの純ちゃんだよ? 私をずっと守ってくれていた。
表でも、裏でも、堂々としながら陰ながら。出会った時から助けてくれていた。
私は知らなかった。純ちゃんがそんなに頑張ってくれていたなんて。本当にヒーローだったのだ。不思議な力を持って、私の敵を——。
敵? 敵って何だ?
そんなのがいることさえ私は知らなかった。そりゃそうか。純ちゃんが全部殺して——。
殺した。純ちゃんが。
そうだ、純ちゃんが殺した。
人を、殺した。殺していた。私の知らないところで。
人殺しは——ダメだろう。
「宙衣」
純ちゃん。
「大丈夫、私が守るから」
それが純ちゃんの最後の言葉だった。
聖善くんの剣が、純ちゃんの胸を貫いた。
隙を付いたとか、機会をうかがっていたとか、そういう狙いで聖善くんはベラベラと演説をしていたのか定かではないが、一瞬だけ純ちゃんは私の方を向いて、聖善くんに背を向けていた。
そして後ろから、巨大になった刃が純ちゃんの体を穿ち、純ちゃんの変身が解けた。
純ちゃんは驚いた顔をしていた。程なくして私の方を見て、やっぱり笑顔になった。
剣が引き抜かれる。純ちゃんは地面に落下し、倒れて動かなくなった。
赤いものが広がっていく。何かこの景色も、最近見たような気がする。
動かなくなった純ちゃんに、覚束ない足取りで近付く。触って良いのか一瞬迷う。これって、どうするのが正解なんだっけ。まぁ、良いか、触っても。最近触れ合ってなかったし。
仰向けにし、両手で掬い上げるように純ちゃんの頭を抱える。目を閉じて、口からも血を流していても、笑顔だけは崩していなかった。妙に生温い感触が手のひらに伝わってくる。
最近合わなくなってきたと言っていた制服は、もう使い物にならなくなった。お揃いで買った彼岸花が描かれたヘアピンは、全体が赤く染まった。
私のヒーローは、もう私を助けくれなくなった。
「刀が消えた。成敗完了だ。今回は久しぶりに正義因子が強い相手だったから面倒だったな。とは言え、被害が出過ぎたな。まさか五分程度で皆殺しにするとは、これも初めてのパターンだ。だから本校舎の近くに部室を置いてほしいと再三言っていたのに。しかしこれでしばらくは学校を拠点にできないな。こうしている間にも、成敗すべき悪が生まれていると言うのに」
聖善くんはやっぱり、無表情で、無感情で、無感傷だった。
人が死んだこと、人を殺したことに対して、何も思っていない。
正義があるかどうかだけ。それがすべてなのだろう。どんな状況になっても、その姿勢が崩れない。どうやったら、そんな性格になるのだろう。
少なくとも、女の子を泣かすことが悪いことだと分かっているはずなのに。
「おや、大歩危くん。泣いているのか」
え?
さっき純ちゃんにも言われた涙が、またしても流れていた。さっきの涙の理由は分からないが、今の涙の理由は分かった。
純ちゃんが死んで悲しいのだ。
大好きな人が死んで悲しいのだ。
ボロボロと、とめどなく溢れてくる。嗚咽をしたり声を挙げるようなものではない。言いようのない悲しみだけが、私の中にあった。
「ふむ。女の子を泣かせてしまったな」
どうだ。どうだと威張るのも変な話だが、この冷血漢に一泡吹かせてやった気になった。
自分で言ってたもんな。女の子を泣かせるやつはヒーローではないと。
ここに涙を流す女の子がいるぞ。お前のせいだ。お前が純ちゃんを殺したから——。
「まぁ、いいか。ハンカチ使うか?」
は?
お前、さっき自分で言ってたじゃあないか。ヒーロー失格どころか、ゴミだとまで言っていたじゃあないか。
女の子を泣かせるなと——。
「そんな性差別が正義なわけあるか。女の子に限らず、男も泣かすな。それに泣かせるだけで悪なら、感動ドキュメンタリーなんか全部悪だろう。悪事をする人間がいて、それで泣く人間がいるだけだ。悪いのは悪事をする人間だ。正義の結果泣くなら、それは嬉し涙というやつだろう」
何言ってんだこいつ。
頭おかしいのか。
「あれは野呂間純粋の動揺を誘い、隙を作るための詭弁だ。泣かせること自体が悪になることも勿論あるだろうが、ヒーローの正義はそんなものでは揺らがない」
こいつは——マジでおかしい。
「野呂間純粋の力が正義因子による力だったのは本当だ。ヘルメットがその証拠だ。俺の『完全懲悪』が悪しか斬れないのも本当だ。ただ、それは俺の正義なのだから、コントロールできるに決まっているだろう。そんな不便な力で正義が務まるわけがない」
じゃあ、こいつは。
自分の正義が絶対ではないと知っていながら、それでもなお、他人を悪だと断じていたのか。のうのうと、当たり前に、それが勝利に必要だからと、正義やら悪やらの自論を展開して誤魔化し、相手を殺すタイミングをうかがっていたのか。
正義のためなら、正義も覆す。
それをあっけらかんとやってしまうのか。
恐ろしいとか、あり得ないとか、嫌うとかのレベルじゃない。
こいつが同じ人間であることに、私は絶望した。
理解できない。何故純ちゃんが死んで、こいつが生きているのか。何故純ちゃんが悪として成敗され、こいつが正義として立っているのか。
こんなやつがヒーローなのか。
こんなやつが、私を救ったのか。
みんな困っている。
みんな不幸だ。
みんな助けを求めている。
大丈夫だ。私が——正義のヒーローが来たから。
4
「ありがとうございます。助かりました」「本当、うちの娘を救ってくれて、ありがとうございます」「いやぁ、感謝してもしきれないよ」「ありがとうねぇ。手が届かなくって」「もうちょっとで大事故になるところだったよ。教えてくれてありがとう」「勇気出たよ。俺、受験頑張ってみる」「凄い! 病気が治った! あんた一体どんな魔法を使ったんだい?」「事件発生を未然に防止できました。後ほど感謝状を」「俺さぁ……、自殺しようと思ってたんだけど……、ありがとな。がんばってみるわ」「こんな金、どこから……。え? 競馬で当てた? なら……、良いか」「決めた! 今の会社辞める! 後押ししてくれてありがとう」「これ、うちの畑で採れた大根だ。持っていきな」「ありがとう! これで原稿が間に合うよ!」「もうギャンブルはやめるよ。それより、家族が大事だってあんたに教えてもらったからな」「テレビのリモコン! どこにあったの?」「ポチ! 探したんだぞ!」「夫の不倫は本当だったのね……。ありがとう、教えてくれて」「新商品が大ヒットだ! 君のアイデアのおかげだよ」「こんな美味しい料理は初めてだ。満足したよ」「笑顔を守ることが一番だからな。君は凄いよ」「子どもの面倒見てくれてありがとうね」「記憶が戻った! そうだ、俺は学者だった! ありがとう」「風邪の俺にお粥を作ってくれるなんて……、涙が出てきたよ」「未来はそうなるのか……、教えてくれてありがとう。覚悟したよ」「組織から手を切れたわ。逃がしてくれてありがとう」「これがあの失われたと思われていた絵画か! 良く復元できたね」「この世界に神はいない……、なら、俺が神になる」「助かったよ、急にパートが休んじゃってさ」「心が洗われるようです。反省します」「地雷で吹っ飛んだ足が……。何をしたんだ?」「俺、見えるよ。見える! やった!」「夢を見つけたよ。おかげさまで」「あぁ水だ……。助かった……」「ワンワン!」「あの手術を成功させるなんて……。君は何者だい?」「村が以前の活気を取り戻したよ。ありがとう」「遠足晴れた! おねぇちゃんの言った通り!」「失くしてた結婚指輪! どこで見つけたんだ?」「なるほど、こうすれば最適な形で組み立てられるのか……。サンキュー」「草刈りがこんなに早く終わったよ。ありがとう」「あいつが犯人だったのか。すぐ捕まえてやる!」「助けて良いのかよ。俺は逃亡犯だぞ?」「片手でダンプを止めるんなんて……、平気?」「あぁ、この味だ。亡くなったお袋の味だ」「危うく人を殺すところだった。思いとどまったよ」「欲しかった玩具だ! わ―い!」「車のへこみが直った! あんた業者かい?」「理想の筋肉を身に付けたよ」「武道館に立つのが夢だったんだ。ようやく叶ったよ」「十連でピックアップを当てるなんて、凄い運だね」「彼女ができました」「鳴かず飛ばずの詩人だったが……君のおかけで就職する気になったよ」「世界大会で優勝できた。君のおかげだ」「懐かしいなぁ。ここは確かに五〇年前のふるさとだ」「ありがとな、証拠隠滅手伝ってくれて」「これで母親に恩返しできる」「元カノと復縁できたよ」「元カレと復縁できたわ」「部屋の掃除してもらって悪いね~」「近所にコンビニができた。これで便利になる」「友達と仲直りできたよ。おねぇちゃんありがとう」「新曲のメロディが浮かんできた! 傑作だ!」「うちの高校、全員志望校受かったって!」「楽しかったよ。良いゲームだった」「ダイエット成功したよ! 僕は何もしてないけど」「何だか晴れやかな気分だなぁ。楽しくなってきたぞ」「チャレンジしてダメだったけど、悔いは無いわ!」「何⁉ 軍事用の兵器が全部消えた⁉ どういうことだ!」「パパと誕生日を過ごせて幸せだわ」「推しのコンサートチケット当たった! え? 全員当選?」「飲酒し運転してたけど、何かアルコール抜けたなぁ」「ゆでたまごが綺麗に剥けたよ」「援軍来た! これで勝つる!」「この世に未練は無い……、死は救済だ」「え、荷物が一瞬で届いた! 一週間かかるはずだったのに」「例のブツ、運んでくれてありがとな」「ありがとう……、私の免罪を晴らしてくれて」「あんな男と別れて正解だったわ。背中を押してくれてありがとう」「生き別れた兄弟と再会できた。見つけてくれてありがとう」「タイムマシンは作れない? そうか、それが真実か。夢から醒めたよ」「数量限定のまんじゅう! 確保してくれてありがとう」「武力でしか解決できないと思っていた紛争だが、話し合いで終わったよ」「男に生まれ変わることができた。これからは第二の人生だ」「廃棄するしかないあの汚染物質を、どこにやったんだい?」「こんな俺でも天職があったのか……」「死んだじぃちゃんの声が聞こえたよ。聞けて良かった」「スマホの使い方を完全に理解したよ。これで孫に写真を送れる」「空を飛んでる! あはははっ!」「険悪だった先輩と仲良くなったよ。今では飲み仲間さ」「凄い! 無くならない煙草だ! 一生吸えるなぁ」「ボロボロだった肌がこんなに綺麗に!」「プロポーズが成功した! これからハネムーンだ!」「この子の飼い主が見つかって良かったわ」「一日でこんなに絵が上手くなるなんて……私は天才だ!」「新作漫画の売上好調だよ」「テスト百点だった! これでママに怒られない!」「水虫が治ったよ」「一度来てみたかったんだよなぁ、南極」「これで食うものに困らないよ。一生かけても食べ尽くせないね」「お茶をこぼすところだった。ありがとう」
「もうやめておけ」
聖善くんが立っていた。
純ちゃんを殺した時のように。
ここは……、日本か。
世界中を飛び回っていると、国境とか人種とかどうでも良くなる。
人間は等しく人間だし、悪も等しく悪だ。
どうして彼が私を止めたのか。その理由は分からなかった。
「見るに耐えかねん。全人類を救って悪を滅ぼすなど正気じゃないぞ」
正気じゃない? まさかそれを聖善くんに言われるとは。
私は私の正義を実行しているだけだ。余計な口出しは無用だ。
君は正義が大好きだろう。なら、私の行動をもっと喜ぶべきだ。
「君は確かに多くの人を救った。到底、全世界の国々が結託しても救えないような数の人間をだ。無差別に、見境無く、分け隔て無く救った。ヒーローの理想だ。賞賛しよう」
やけに晴天だった。
ヘルメットのおかげで日光は眩しくないが、空が澄み切っている。
吹き抜ける風が、大きくマントを揺らす。
「俺の正義は悪を殺すこと。生まれた傍から殺して、悪を消し去る。正義とはそういうものだ。何故なら悪が生まれなければ正義は必要ないからだ。正義があるから悪が生まれるのではない。法律があるから犯罪者が生まれるわけでもない。悪が最初なのだ」
またお得意の善悪論か。
いい加減飽きた。
君の正義など知ったことではない。
私は人々を救う。
そうすれば、悪は滅びる。
これが答えだ。
「違う。悪は滅びない。人類が、人間が生きる限り、悪は生まれ続ける。何の生命もいなくなった時にこそ、真の平和は訪れる。だが俺はそこまで極端な話はしない。何故なら俺は人間で、この世界は人間の世界だからだ。人間がいなくなったらの仮定など無意味だ。つまり、悪が無くなったらの仮定も無意味だ。人間は悪から生まれ、人間は悪を生み出す。それが真理だ」
私は別に悪そのもの、人間そのものが存在することを嫌っているわけじゃない。
ただ、悪いことが無くなれば良いなって思っただけだ。
七夕で、世界平和を願うようなものだ。
それで試しに全人類を救ってみようとしただけだ。
その後また悪が生まれたら、それも救う。その繰り返し。それが私の正義。
「そんなもの、キリがないぞ。君は神にでもなったつもりか。俺は無神論者だが、神を信じて救われる人間がいることは分かっている。信じることは悪ではない。やっぱり、何か行動を起こすことが悪なのだ。世界では君を神の使いとして崇める人たちも出てきた。これもひとつの『救い』なのだろう」
そうなんだ。
知らなかった。
私はただピンチを救っていただけ。
その後再びピンチにならなければ行かないので、後のことは知らない。
関係無い。
「ただ、もし君が死んだらその人たちはどうなる? 拠り所を失い、不幸になる。もしかしたら神格化されて宗教として体系化されるかもしれないが、それで救ったと言えるか? 第一、神は全部は救わない。信じるものだけを救う。そして信じるものさえ救わないこともある。そんなものが神なわけあるか」
無神論者じゃなかったのか。
神か。
それも悪くない。
ヒーローとは、人を救うものとは、最終的には神になるかもしれない。
しかし、私はちゃんと人間だ。
「君が今、その神になろうとしていると言いたいのだ。君は人間だ。ただ正義とヒーローに憧れた人間だ。神などという、絶対的なものになるな。不完全でいろ。それが人間だ」
妙なことを言う。
正義は絶対だ。
絶対ではない正義は正義とは呼べない。
私が人間かどうかも関係無い。
そこに正義があれば、人間の形も存在も、何も関係無い。
そして君はさっき、この世界は人間の世界だと言った。
それは違う。
世界は世界だ。人間が勝手に区切っているだけだ。
勝手にはかったのだ。
真理があって、それを人間側から解釈しているに過ぎない。
正義だけが真理だ。
「……やはりダメか。君はもう、人間の殻を捨てた『正義』となった。正義因子そのもの、真理になろうとしている。人はそれを神と呼んだりするが、実際はそんな神々しいものではない。人間ではなくなったナニかだ。そして、人間の世界にそれは存在してはいけない。不完全な世界が人間の世界で、完璧な世界は人間の世界ではないからだ」
私が正義になれば、悪は存在しなくなる。
私以外は存在しない、それが真理。
悪いことが起こらない、何も起こらない世界。
「俺の父親もかつてそうなった。正義感の強い人だった。当然俺の憧れだったのだが、気付いてしまったのだ。悪は滅びないと。正義をこの世界では成し遂げられないと。だから今の君のように『正義』そのものになろうとした」
神も人も必要ない。
私だけ。
私だけいればいい。
「だから殺した。殺さざるを得なかった。そうしないと世界を救えなかったからだ。自分の父親を殺すことは悪だろう。だが、あれはもう人ではなかった。この世界を、人間の世界を脅かすナニかだった」
何もかも、全部が無ならば、それが正義。
生きることも、死ぬことも、存在しない。
究極的には、私も要らない。
「この世界が不完全なんて当たり前だ。完璧な世界とは何だ? スケールがデカすぎる。中学生か。もっと細かく見ろ。目の前を見ろ。やるべきことをやるのだ。どいつもこいつも、絶対的なものばかり求める。そんなものあるわけないだろ。正義が絶対であってたまるか」
消さないと。
全部、存在するもの全て。
それが正しい。
「だから俺は正義のために君を止める。まだ君が正義を名乗る間に、人間である間に。俺の正義とは違う正義、つまり悪を成敗する。『悪事成敗』」
えっと、どうすれば良いかな。
また分かんなくなっちゃった。
もう迷わないって決めたのに。
「一応訊こう。君はこの世界を滅ぼそうとしているか?」
この世界?
まぁ、滅んじゃえばいいんじゃないかな。
だって純ちゃんいないし。
「ではお前を悪と判断し、正義の名のもとに成敗する」
純ちゃんがいない世界なんて、悪だよね。
世界の方が悪いよ。
純ちゃんは悪くない。
「対象は大歩危宙衣。悪事は世界滅亡。懲罰はこの世界からの消滅」
純ちゃんが悪だって言われたから、世界から悪を消そうとした。
悪がなくなれば、純ちゃんは悪じゃなくなるから。
でも、よくよく考えたら、もう世界に純ちゃんはいないんだった。
「さらばだ、大歩危くん。いや悪党よ。君は世界を救うヒーローだった。だが、お前は世界を滅ぼす悪党になった。正義として、ヒーローとして見過ごせない」
正義でさえあれば。
私が正しければ。
純ちゃんを、止められたのかな。
「俺がこの世界を守る——」
世界が消えていく。
生命が消えていく。
正義が消えていく。
「ただ、俺は君を救うことができなかった。かつての父のように。世界でたったひとり、君だけを、救えなくなってしまった。君を救うためにどうすれば良かったのか、俺には分からない。いつか俺も、君のように、父のようになるかもしれない。その時は、また別の正義が俺を殺してくれるだろう。今は、目の前の悪を滅ぼすことが、俺の正義だ」
あれ、聖善くん。泣いてるの?
「え?」
ほら、涙出てるよ。
「……本当だ。これも初めてのパターンだ。ヒーローが泣くとは、これでは面目が丸つぶれだな」
何で泣いてるの?
「……君が泣いているからだな。女の子を泣かせるやつは、ヒーロー失格だ。俺はヒーローではなかったのかもしれない」
それは割と最初の方から思ってた。
「ふむ。ではこれからはヒーローを名乗るのをやめよう。別の呼び名が良いな」
呼び名の問題ではない気がするけど……。でもそうだね、成敗成敗って言ってるから、成敗マンは?
「ダサ過ぎるな。もっとかっこ良いのが良い。刀を使うから成敗セイバーとか」
やっぱり、そのセンスは分からない。
でもそれでいいや。
「ではな、大歩危くん。いや最初で最後のヒーローよ。世界は俺が守っておく」
うん。じゃあね。
何もかもが消え、私という存在が無くなることをやけにはっきりと感じていた。
一体、この話は何だったのだろう。
変わったことは特に無い。世界は守られ、日常を取り戻した。
私を動かしたものは何だったのか。純ちゃんのため? 世界のため? 私のため?
私ひとりが何かしたところで、何かがどうにかなるものでもない。世界はそんな単純にできていない。
聖善くんは正義として、私を成敗した。
悪が栄えた試しはないというが、多分そうではない。
栄えたものが正義になるのだ。
それ以外が悪として、忘れ去られるのだろう。
だから、聖善くんは、私のことを忘れて良い。
世界を守る、正義のヒーローとして。
「俺様がお前らのヒーローだぜ。だからあの連中を、全員ぶっ殺してやろうぜ!」
「それでヒーローを名乗らないで欲しいな。ヒーローとは、大歩危くんのことだ」
「あ? 誰だよ。お前」
「俺は聖善正義。成敗セイバーだ」
「は? 何それ」
「うむ。やはりちょっと名乗りにくいな。しかし、大歩危くんと一緒に考えた名前だから大事にしたい。かっこ良いしな」
「何だこいつ。舐めてんな。いいか? 俺様には神より授かった力があんだよ。これで世界を征服して俺様のものにするんだよ」
「スケールがでかいな。中学生か。知らないのか? 世界を征服したらいけないんだぞ」
「うるせぇ! 死ね!」
「おい、そのセリフはフラグというやつだ。まったく、俺は何時になったら正義を引退できるのだろうな、大歩危くん」
悪がいなければ、ヒーローは生まれる必要はない
悪が生まれる限り、ヒーローはいなくならない。
〈完〉