第二十一話 加速
「離れていてくれ」
隊長はそう言った。
ファランクスからは殺意混じりの覇気が空気を伝って感じられた。
凍り付くような緊張に、ミリスの額からは冷たい汗が垂れるほどだ。
それに対して、隊長は声は冷静だった。
「先手を打つ。君たちは少し下がっていてくれ」
「先手だと? ヤツはもう攻撃態勢に構えているぞ! 今、出ていったら何しでかしてくるかわからねえっ」
クラエルは声を抑えながら叫ぶように訴えたが、ミリスは隊長の言葉に素直に従い、二歩下がる。
すると、隊長はミリスたちを一瞥し、ふたたび口を開く。
「……もうすこし。あと、一歩――いや、二歩、後ろに下がってほしい。修道士、君も、だ」
その表情と声色は物静かなものだったが、どこか圧のようなものを感じさせた。それに圧されたのか、クラエルは黙ってミリスと同じ位置まで下がった。
「……そう、そうでいい。それと、仕掛ける前に、私のプリムスを告げておく。――私の能力は、〈加速〉。自身の動きを瞬間的に〈加速〉することかできる。最高速度はおよそ、マッハ1。すなわち、音速。――だが、注意すべき点は、この速度に達すると衝撃波が生じ、周囲の者を無差別に吹き飛ばしてしまう。だから、能力を使用するときは『加速する』と、宣告してから行うことにしている、それを私から距離を取る合図と思ってくれ」
「……わ、わかった」
クラエルは戸惑いを見せつつもそう返した。ミリスもはい、とうなづいた。
「では、――〈加速〉する……」
その瞬間、爆風が膨れるように巻き上がり、周囲の草木が弾けるように散り、隊長の姿が消えた。
「――うわっ!」
ミリスたちがその風にひるんでしゃがみこんだ時には、隊長がファランクスの眼前にまで到達しているのが見えた。
「まるで瞬間移動……」
ミリスは思わずそうつぶやく。隊長の動きは決して目で追える速度ではなかった。
今にも飛び掛かろうとしていたファランクスも、意表を突かれたのか、わずかにたじろぎを見せる。
――ビッ!
その一瞬の隙をつくように、隊長は左の拳を突き出し、ファランクスの鼻っ柱を殴った。
しかし、ファランクスはひるむことなく、瞬時に前足を振り回し反撃に出る。そして、その巨大な爪が隊長の頭部に触れようとした時、
――ウゥン!
爪はただ、空を切る。そこに隊長の姿はない。ふたたび風を巻き上げ、姿を消したのだ。
次の瞬間には、隊長はファランクスの真横に現れ、その横っ面――こめかみ部分にめがけて隊長の蹴り足が伸びていた。
――ゴッ!
と、鈍い打撃音が響き、ファランクスはたまらず体をかたむかせた。
ファランクスが反撃しようと即座に振り返る、が――やはり、隊長の姿はない。
跳躍したのか、今度はファランクスの真上にその姿があった。
「――そして、〈加速〉――」
そうつぶやくと、隊長の落下速度が急激に加速し、その勢いのまま、ファランクスの頭頂部へ一直線に拳を叩き落した。
――ゴッ!
鈍い音とともに、人間の数倍はある巨体が、叩き潰されるかのように頭部が地面に打ちつけられた。
「……あの巨体が、殴られるままにひるんでる! なんて力だ……」
と、遠巻きに見ていたクラエルがつぶやく。
「力だけじゃないと思う。あのスピードでありながら、的確に急所を狙っているんじゃないかな。……それと、すぐに反応されないように、死角から攻撃しているようにも見える。知識と経験があって、そしてそれは確実に活かされているんだ」
と、その隣でミリスは言う。
――オオオォ――ォン!
その時、ファランクスは地鳴りするほどの雄叫びを上げた。すると、その場で爪を立てながらの宙返りを放つ。周囲全方向へ爪が空を切り裂く。巨体を全く感じさせない軽やかかつ、巨大な爪による風切り音が重々しく轟いた。
隊長はとっさに跳躍し避けたが、その豪快な動きに次なる攻撃へ転じることができなかったようだ。
ファランクスと隊長が着地し、互いに構えなおしたその時、
――ウォン!
ファランクスの背後から数匹の犬が出現した。体の端々がゆらゆらと揺らめく、どこかおぼろげな存在。
「――出たぞっ! 幽霊の犬ども! まずいんじゃないかっ!」
クラエルは叫ぶ。
幽霊犬たちは姿を見せたと同時に、弾丸のように隊長に向かって飛び込んできていた。
隊長はそれを、瞬間、〈加速〉し、身を引いてかわした。
間髪を入れず、幽霊犬が次々と飛び掛かってきたが、隊長はそれを右へ左へ、瞬間加速ですべて避けていく。
「そうか! 幽霊だろうが、実体がなかろうが、当たらなければなんてことはねえ!」
クラエルは顔を上げて言うと、続けて叫ぶ。
「隊長さん! そのゴーストどもに攻撃は通じない! だが、あんたなら、そのまま本体――ファランクスを叩くことができる!」
その声を聞くと、隊長は再び忽然と姿を消した。すると、幽霊犬たちの間を風が抜けていった。
そして、隊長は、ファランクスの死角――その巨体の頭部のすぐ下、斜め後方に出現し、その位置から踏み込み、腰を入れて拳を振りぬく。
――その刹那、
――ガクンッ。
と、隊長の腰が落ちた。
「――なんだ! 隊長さんの動きが止まったぞ!」
クラエルは眉をひそめて声を上げた。
隊長はその場でひざをつき、振り抜こうとした拳が地面にまで落ちた。――まるで、なにかに押さえつけられているように。
「あぶないっ!」
ミリスが叫んだ。その時、ファランクスが隊長に向かって前足を振りあげていた。
「――まかせろ!」
クラエルはそう言って飛び出し、
「届けぇぇオラアァ――ッ!」
サーベルを抜くとともに、一閃。何もない宙に全力を解き放つように振り抜いた。
すると、切り裂いた空気中に歪みが生じ、その歪みの塊が前方へ勢いよく飛んで行った。
「――〈振動〉の波は空気中を進み、あの位置まで伝わり到達するっ!」
――ビシッ!
振り下ろそうとしていたファランクスの前足に歪みの塊が命中し、弾く。
前足の動きは反れ、何もない地面に振り落とされた。
そこで、クラエルはハッ、顔を上げて、
「――あ! おい、見ろ! 隊長さんの腕をっ!」
と、何かに気づき、叫ぶ。
隊長の腕には、幽霊犬が食らいついていた。それにより、隊長は体勢を崩し、動きを止められたのだろう。
隊長もその存在に今、気付いたのか、あわてて振り払う。
「バカな! 見えなかったぞ! 隊長さんに幽霊犬が迫って来ていたことも、腕に噛みついたところも、全く見えなかったぞ! ……ま、まさかあいつら、姿を消せるのか? ――透明になって襲いかかることができるのかっ! だとしたらマズい! あの隊長さんでも、見えないものは避けられないぞ! どうするっ!」
クラエルはうろたえを隠せなかった。攻撃が通らない上に、姿を消せるとなれば、さらに為すすべがない存在となる。
その時、クラエルは後ろから服を引っ張られた。
「クラエル! 落ち着いて! 何を言っているんだ!」
と、ミリスは慌てた様で言う。
「ああ? 何って……! 隊長さんがあぶないんだぞ! もうすでに透明の幽霊犬に囲まれているかもしれねえ!」
「だから、何を言っているんだ! クラエル! 私はあぶないって言ったんだ! 隊長は囲まれていないし、幽霊の犬は何匹もこっちに向かってきているっ! ――あぶないのは私たちだっ!」
「な、に……?」
クラエルが振り返ると、すぐ目前に一匹の幽霊犬が大口を開け、鋭い牙をすべて晒していた。
「う、うおおおぁぁ――っ⁉」
――ビシュッ!
と、水弾が放たれる音とともに、幽霊犬が弾かれて飛んだ。
ミリスはすぐに次の水弾を構えて叫ぶ。
「次が来るっ! クラエル下がってっ!」
そして、数発の水弾を放つ。しかし、弾はそれぞれ風を切り、何もない空間を通り過ぎていくだけだった。――そう見えた。
「……ミリス、何を撃っているんだ……これは……」
ミリスは確かに、何かに狙いをつけて、撃っている。何かと戦っている。
目を凝らすと、水弾が通った箇所からモヤのような、ひずみが起きているような気がした。
「……見えているのか。ミリス、お前には。……いや、それよりも、幽霊犬に対して攻撃できているのか……?」
「クラエルの言っていることが、本当にわからなかった。幽霊犬は最初からすべて見えているし、一度も消えてない。透明でもない。……ただ、これは自分でも驚いてるんだけど、さっきは効果のなかった水弾が、今は命中する。――幽霊犬は今! 水弾に撃ち抜かれて退いていっている!」
「すごい、けど……一体、なんだ? お前に何か変化があったのか?」
「魂が見える……、魂を感じる。あの幽霊の犬はまるで魂そのもののようだ。そして、直接手で触れられるんじゃなかってほど、身近にも感じる。――そう感じさせる何かが、変化、なのだろうか。……いや、そんなことよりも今は、エリオ隊長を援護しないと!」
「ああ、そうだな。幽霊犬を克服したのはでかいぞ! このまま隊長さんの力を借りてファランクスを討ち取れる!」




