第十六話 知能
巨猿の表情が苦悶のものと変わった。
水弾のダメージというより、毒による傷口への刺激が大きいだろう。
ミリスの水弾では、巨猿の筋肉を貫くことはできない。だが、毒で体内を汚染させるならば、表皮を傷つけるだけで十分である。
巨猿は、撃たれた肩口を手で覆った。さらに険しい表情に変わる。口端からよだれが垂れる。
(――麻酔の痺れのうえに、樹液の毒でさらに動きは鈍くなったぞ! ……もう一発、ぶち込んで完全に動きを止めてやる!)
ミリスは、ふたたびそばにある木から毒を〈凝縮〉して取り出そうと手をあてた。
そこで、ガクリ、と膝が折れる。気付けば自分の体から汗が滝のように流れ出ており、さっきの攻防からほとんど息を止めていたことに気付いて、思いきり息を吸い込んだ。そして荒々しく呼吸する。
かなりハイペースでの水弾の連射で体に悲鳴が上がっていた。今すぐ倒れてしまいたくなるほど体が重く、腕を上げるのもつらい。
「うぅぐうう――っ! まだだ! ヤツを止めるまで! ヤツを止めさえすれば、ジルがとどめをさしてくれる!」
ミリスは自分に言い聞かせるように声を荒げて言った。天を仰ぎながら体を起こし、歯を食いしばり、腕を上げ水弾の狙いを定める。
――その時、巨猿は駆けだした。足取りが重く、ふらついていたが、ミリスに向かって確実に近づいてきた。
(――ッ! 毒が回る前に私を仕留めにきたか!)
一瞬で距離を詰められる。その短い間では、ミリスは攻撃を防ごうと腕を前に構えるので精一杯だった。
そして、そのまま巨猿の体当たりを食らい、ミリスの体は弾き飛ばされた。
盛大に地面に転げまわり、三度ほど空と地面が交互に目に入った。地面をすべり、ようやく体が止まると、必死に体を起こそうと腕に力を込める。
(ああああぁ! ――追撃がくる! 避けられない!)
バッ、と顔だけ上げて、巨猿の姿を確認すると――、巨猿は、倒れるミリスをよそに、まっすぐ通り過ぎていた。
「な、なに……? に、……にげた――?」
ミリスは一瞬安堵したが、改めて状況を理解すると、顔を青くした。
(いや、――逃がすのはまずい! これで人間への警戒心を高めたら、いままでよりも周到に身を隠すかもしれない! ……とどめを! 今、とどめを刺さなければっ!)
ミリスは必死に体を奮い立たせて立ち上がると、苦悶の形相で足を前に出して駆けだす。
すこし離れたところで、木にもたれかかっていたジルも、同じように察したのか猿を追って動き出すのが見えた。
ジルは肩を抑え、ふらつきながらも、走り出し、口を開く。
「ミリス! 逃がすな! 今、決着をつけないとまずい!」
「わかってる!」
と、答えながらミリスは巨猿を追った。
巨猿の走り出しは例のごとくかなりの勢いだったが、徐々にペースダウンしていくのがわかった。
「毒が回ってきているはず! ――衰弱している! 今なら私たちでも追いつけるっ!」
毒のほかにも、リックの猛攻による傷痕や、ジルの銃撃を防いだ傷などで、巨猿の体はズタボロだった。
それぞれが致命打ではなくとも、体中から血が流れ、時間とともに体力を失っていってるのは間違いない。
ミリスが声を上げると同時に水弾を固めた。ジルも走りながら銃を構える。
――その時、巨猿はピタリ、と止まった。
ミリスは、なんだ? と、不信に思いながらも、追いかける。
よく見ると、その傍らに小さなモンギィが一匹いた。手下だろうか。何を伝えようと身振りをしている。
そして、巨猿が手下の手からなにかを奪った。
(なんだ? 何を受け取った? ――だが、そんなことどうでもいい!)
ミリスは水弾を構え、狙いを定める。
「とにかく、撃ち込む――っ!」
「――ミリス! 避けろ!」
「えぇ?」
ジルの声に驚き、視線を動かす。
すると、なにか小さな物体がこちらに向かって飛んできていた。
巨猿が投げてきたのか。
その物体が何か理解できなかったが、しっかり見据えると、どこか見覚えがあるものだった。
(筒のような……。――いや、あれは……まさかっ!)
〝――――カッ――――〟
――と、一瞬で周囲が白に染まった。
ミリスたちは反応する間もなく、光に包まれた。
それの発火があまりに近すぎて、為すすべがなかった。
「せ、――閃光弾だ――っ!」
ミリスはそう叫んだが、その声はもう自分でも聞き取れなかった。
――正面からまともに喰らってしまった。
何も見えない。あまりのまばゆさで目を開けていられない。
キーン、と耳をつんざく耳鳴りで周囲の音が何も聞こえない。
ミリスはただ一人、白い空間に閉ざされてしまったように、周囲と隔絶されるのを感じた。
(――なんで! あんな猿が閃光弾なんてものを持っているんだ! どこかから盗み出した! しかも、使い方も効果もわかっているのか? 人間の道具の! ――たかが、猿のくせに! この知能! これも……、FRAN化――適応進化によるものなのか――っ!)
ミリスはこの状況に、様々な思いが入り交じり、心の中で叫ぶ。
(――いいや! 余計なことを考えている暇はない! 巨猿があのまま逃げたのか、こっちに向かってきているのかだけでも把握しなければ!)
なんとか自分の位置を把握するため、手探りで周囲のものを探すが、木ひとつ触れられなかった。
さらにやみくもに手を振り回す。だが、手は空を切るのみ。
――その時、振り回した腕が、何かに捕まれた。
「――うわああぁぁ――っ! なんだああぁ――!」
ミリスは体が飛び上がり、声を荒げた。
ゾッ、として体が冷えるのを感じた。巨猿が攻めて来たのなら、これ以上にまずい状況はない。
「ミリス……っ! 落ち着け!」
――すぐ背後からジルの声。――声が聞こえた。
「――落ち着いて、俺の声を聞け!」
「ジ、ジル……?」
「今、巨猿は逃げている! このままだと逃しちまう! ――ミリス! お前だ! お前が追うんだ! 俺のライフルじゃ、ヤツを追いながらは撃てない! ヤツを止められるのは、装填も反動もなしに、走りながらも撃てるお前の水弾しかないっ!」
「……そ、そんなこと言われても、まぶしくてなにもみえない! なにもきこえない!」
「だから、落ち着けって言ってるだろ! 今、俺の声が聞こえているだろ!」
「……あ」
たしかに、聞こえる。
「――すでにお前の、目と耳の神経細胞を〈進化〉させてある! 目を開けてみろ!」
ミリスは、ハッ、として、まぶたをひらくと、元の森の景色が目に映った。
白い光はなくなっていた。そして、耳鳴りもない。
「――今のお前は、鼓膜が破れようが、目に墨汁を入れられようが、聞こえるし、見える! 早くいけっ! 今、動けるのはお前だけだ!」
と、ジルが耳元で叫ぶ。
ミリスは首だけを回し振り返ると、ジルは目を閉じたままミリスの腕を抱き寄せていた。こちらの位置がわからないのか、顔はそっぽを向いている。
(ジルは見えてないのか。自分は聴覚だけを〈進化〉させて、残りの体力を私に託したのか――?)
ジルの気持ちを受け取ったミリスは、スッ、と顔を上げ、覚悟した表情で前を見据えた。
そして、小さくなりゆく巨猿の背中を捉えた。
「――わかった。ジル。ヤツを止める ――必ず、だ!」
と、声を上げると同時にミリスは駆けだした。
「ミリス、足だ! ヤツの足を狙え! 一撃で動きを止めるには、足しかない――っ!」
と、後方でジルが叫ぶ。
その直後に、ジルが地面に膝をついて倒れる音が聞こえた。
ミリスは、巨猿を追って、広い広間を抜けた。
木々が生い茂る険しい道を駆けていく。
かろうじて巨猿の背中が見えるが、徐々に遠のいていく。
(……足が重い……。 巨猿も弱ってはいるが、こっちの体力も、もたない……っ!)
そもそもの体力差があるうえに、草木をかき分けて進むミリスに対して、巨猿は木などおかまいなしに折り倒しながら駆け抜けていく。
どんどんと巨猿に離され、その姿が小さくなっていく。そして――、
(――くっ! 見えなくなった! 草木が邪魔で遠くまで見えない!)
走るペースを速めようとするが、膝が震えて思うように走れなかった。
(だめ、か……、私だと……)
と、頭によぎると、腰を折り立ち止まってしまった。
――その直後、後方からガサガサ、と音をかき鳴らして何かが近づいてくる気配。
そして、それは、瞬く間にミリスの横に飛び出してきた。
「――あっ! リック!」
ミリスは目を見開いた。中型犬ほどのサイズに縮んでいたが、まさしくリックの姿だった。
リックはそのままミリスの横を通り過ぎ駆け行く。巨猿が去っていった方向へ向かっていくようだった。
「――においで追っているのか! でも、リックが動いてるってことは、レインが目を覚ましたってこと……? まだ体力が回復していないのにまた無茶を!」
ミリスは後ろを振り返ったが、レインの姿はない。リックだけを巨猿を追わせたのだろうか。
レインに、無理をするな、と伝えに戻りたい。――だが……。
すぐに思い直して、前方に向きなおした。
「……いや、今は、追うしかない。 無駄にはできない。すべてを!」
リックの跡を追うようにミリスも走り出した。
リックの通った道は草が踏まれて、心なしか巨猿への道筋となっているようだった。




