僕は幽霊が見える 第12話 約束
暗がりの中、眠る彼女を見ていた。カーテンの隙間から僅かに光が差している。ほのかに照らし出された彼女は、あまりに白く、そのまま溶けて消え行きそうなほど存在感が希薄だった。
「本当にいいのか」
僕はその声に頷いた。
息を吸って、吐く。
上手くいくかなんて知らない。これが正解だなんて確証もない。目をつぶりたい。逃げ出したい。何も知らなかったことにして眠りたい。
それでも。
彼女は僕の初めての友達だった。
彼女は僕の世界を変えた。
僕はただ彼女を守りたかった。
守る方法が欲しかった。
だから、僕は――『呪い移し』をする。
それに、約束したんだ。
何かあったらすぐに駆けつけるって。
「ちょっと遅くなったけど……」
僕は誰にともなく呟いてから、七星さんに向き直りはっきりと告げた。
「お願いします」
僕は凛子の肩に手を置いた。かつて七星さんがそうしていた光景が蘇る。病院までの車の中で一通りの説明は聞いたが完全に理解出来たわけではない。むしろ聞けば聞くほど意味が分からなくなった気もする。
それでもやるしかない。やると決めたんだ。
「名前を呼ぶまで目を開けるなよ。いいな」
七星さんが僕の肩に手を置く。それを合図に僕は目を瞑った。
――深い、海の中を漂っているようだった。
僕は静かな暗闇の中にいた。
目を閉じた。僕がしたのはそれだけだ。けれどそこにあったのはいつもよりも深い深い闇だった。
言われた通りに呼吸を整え、感覚を凛子に触れている右手に集中させる。緊張のあまり大きく聞こえていた心臓の鼓動はもう聞こえない。不思議な感覚だった。緊張が解けたわけでもないのに、どうしてかすごく静かだった。
ここがどこだか忘れそうになる。自分が何をしていたのか忘れそうになる。
「――ッ」
急に襲ってきたおぞましい気配に思わず叫びそうになり、慌ててそれを飲み込む。
まどろみを一気に覚ましたその気配を追いかける。全身にぞわりとした寒気が駆け巡る。不安と恐怖に一瞬で侵食される。
すぐに分かった。『あれ』だ。
どこだ。どこにいる。
逃げ出したくなる気持ちを押し込め気配の在り処を探る。あまりに強い気配は全方向から感じられて居場所が掴みにくい。
どこにでもいて、どこにもいない。
探せ。探すんだ。絶対に掴まえる。
七星さんは出逢えばすぐに『あれ』だと分かると言っていた。そしてその言葉通りに『あれ』の気配を見つけた。ここまでは順調なはずだ。この気配の在り処を見つけて、捕まえる。そうしたら七星さんがそれを僕の中へと引きずり込んでくれる。
気配を探るうちに自然と神経が研ぎ澄まされていく。僕はずっと動いていない。ただ立っているはずだ。それなのに『あれ』を追ってどこか奥深くへと入り込んでいく感覚がある。
近づいている。視覚的には何も変わらない。けれど感じる。重苦しい気配が大きくなっていく。
そこで僕はひとつ疑問を覚える。
東海林さんに憑いていた化物のものとはまるで違う、奇妙な感覚。あの化物からは明らかな悪意が感じられた。でもこれは違う。そんな分かりやすいものではない。
なんだ、これは。
確かに拒絶したくなるような嫌な気配を感じる。けれど、どこかで感じたことがあるような、何かを知っているような不思議な感覚も同時に存在している。
あまりにもそこにあるのが当たり前のような――。
そう感じると同時に、僕は暗闇の中でひとつの光を見つけた。
『あれ』との対峙は思ったよりもずっと穏やかなものだった。不安も、恐怖も、おぞましい気配も確かにあるはずなのに、今はどれも気にはならなかった。凪のような空間で、僕は光を見つめていた。光はそれ以上逃げも隠れもしなかった。
それは最初からずっとそばにあったかのようだった。あまりに当然のように存在していたから、僕は思わずその光を見逃すところだった。
そっと近づき、それを掴む。
瞬間、ふわふわと暗闇を漂っていた意識が急に鮮明になっていく。意識を内側から引っ掻きまわされるかのような乱暴な感覚に吐き気を覚えたかと思うと、それもすぐに止み――そして、何かが僕の中に入ってきたのを感じた。
言われなくとも分かる。あの光は今、僕の中にある。自分ではない何かを感じる。
見つけた。見つけられた。成功したんだ。
身の内に巣食っていた恐怖と不安がしぼんでいく。もう何も心配ない。
良かった。全部、終わった。
僕は凛子を取り戻した。全部夢だったかのようだ。とても穏やかな気持ちだ。ずっとずっと張り詰めていた緊張の糸がようやく緩む。
何か、声が聞こえた。
――なんだろう。
少しだけ疑問を抱いたが、すぐに他の感覚にかき消されていく。どこか懐かしい感じがする。すぐさっきまで凛子を救うために『あれ』と対峙していたなんて思えないほど僕は安心しきっていた。このまま眠ってしまいそうだ――。
白い空間に僕は立っていた。まるで霧に包まれているかのようにもやもやとして視界がはっきりとしない。
「かがりー?」
懐かしい声が聞こえて僕は慌てて振り返る。
「凛子!」
僕は叫んだ。そして、黙った。
そこにいたのは紛れもなく凛子だった。凛子だった、が。
――あれ。なんだ。
「どうしたの? 早く行こうよ」
りんこが僕の手を引こうとして、それでも動かない僕に不満げな表情をつくる。
「ねー! 行こうってばぁ!」
「う、うん……」
渋々と彼女につられて歩き出す。引っ張られるまま進んでいく。
気がつけば霧は晴れ、僕たちは雑草に覆われた空き地に沿った歩道を歩いていた。上を見ると雲ひとつない青空だった。とても天気が良い。暑くて溶けそうだ。
でも――ここはどこだ? どこに行くんだっけ。何をするんだっけ。
僕よりも少し背の高い彼女の後ろ姿僕よりも少し背の高い彼女の後ろ姿を見ながらぼんやりと考えていた。けれどそれも、少しするとなんでもないことのように思えてきた。
そうだ。行かないと。駅に行くんだ。初めて自分たちだけで電車に乗るんだった。そういえばそういう約束だったはず。
いつ約束したんだったかな。もうずっと昔のことのようの気がする。
「かがり、まさか約束忘れたんじゃないでしょうね?」
「そんなこと、ないよ」
僕は咄嗟に嘘をついた。忘れていたと言ってはいけない気がした。
近所で唯一のコンビニを通り過ぎる。郵便局があって、駅はさらにその向こうだ。
どこかで誰かの声が聞こえた気がして足を止めて振り返る。名前を呼ばれている気がする。でも、もう誰の声だったか思い出せない。
「かがり?」
彼女が不思議そうに僕の名を呼ぶ。
まあいいか。急がないと。時間が無くなってしまう。
前を向く。
歩き出す。
「――篝」
小さな声が、聞こえた。
少しずつ意識が鮮明になっていくのを感じる。僕ははっとしてまた足を止めた。目の前の彼女も僕につられて足を止め、僕の顔を見つめる。
そうだ、僕は。
また振り返ろうとする僕の手を彼女が引っ張り、静かに首を横に振る。先へ行こうとどこか泣きそうな目で訴える。
「凛子」
それでも、僕は一緒に行けない。
「ごめん」
「どうしたの?」
彼女は不思議そうに丸い目で僕を見つめていた。
僕にはまだやらなければやらないことがある。
「僕はあの時、ちゃんと話をしなければいけなかったんだ」
りんこは少し考えてから笑った。
「もういいよーそんなの」
僕は胸が締め付けられるのを感じた。
「いや、良くないんだ」
りんこは小首をかしげていた。
そうだ。きっと彼女ならそう言ってくれたはずなのに。遅いと思っても、後からでも、ちゃんと話をするべきだった。
だから。
「ごめん。僕は戻らないと」
「一緒に行ってくれないの?」
「……うん。ごめん。僕は、」
寂しげな様子のりんこにあの頃の凛子が重なり胸が痛む。けれど僕はしっかりとりんこの瞳を見つめて言った。
「僕は凛子のところに戻るよ」
「そっかあ」
りんこは少しだけ寂しそうに笑った。
「じゃあ、ばいばい」
「うん――ばいばい」
瞬きをする。最後に今よりも少しだけ小さなその姿を見下ろしてから、僕は彼女に背を向ける。
彼女が僕の名前を呼んだ。
僕はもう、振り返らなかった。
はっとして目を開けた。
さっきのは凛子の声だ。「本物の」凛子の声だ。
体が、脳が、急速に現実感を取り戻す。物凄い勢いで心臓が脈を打っている。
「篝……良かった……戻ってきてくれた……」
ベッドで寝ていたはずの凛子が微かに目を開けて微笑んでいた。凛子の肩に乗せていた僕の手を握る。鼓動が少しずつ落ち着いていく。
「私ね、ずっと……ずっと言いたかったことがあるの……」
うわ言のようにそう呟くと、凛子はすうっと目を閉じた。そして何事もなかったかのように、また静かな寝息をたて始めた。
僕はそっと彼女の手を外す。
僕は確かに病院にいた。真っ白なベッドに凛子が横たわっている。この手に僅かに残った感覚は、紛れもなく現実のものだった。
「篝」
振り向くと七星さんが立っていた。彼女の深刻な表情を見るなり、僕は自分の身に起きたことを鮮明に理解し始めた。そして理解し始めると同時にぞくりと気色の悪い寒気が体を支配した。
「七星さん、今、僕は……」
「行くぞ。時間だ」
七星さんが用件だけを短く言う。時計を見ると午後八時を少し過ぎていた。ここに来たときから時間はそれほど経っていなかった。
静かな夜だった。僅かな機械音だけが小さく響いていた。
「――ありがとう」
凛子のおかげで僕は戻ってくることができた。
汗ばんだ手を握りしめ、すやすやと眠った凛子を残して僕たちは病室を去って行った。




