(前編)
昼下がり、体育の授業の前の着替えの時間。
「ねえ、何でいつもそんな所でコソコソ着替えてるの?」
いつものように、教室の片隅で身を隠すように着替えていた葦沢奏がその声に振り向くと、ショートヘアの逞しく日焼けした少女が立っていた。
「あ、羽村・・・さん」
奏は戸惑った。ソフトボール部エースの羽村葵。本来なら、自分とは会話することすらほぼ無いと思っていた存在である。
「だって、恥ずかしいよ。結構、腹筋付いちゃってるし・・・」
「へえ、どれどれ・・・」
「きゃっ・・・」葵に体操服を捲り上げられ、奏は反射的に手で体の前部を隠した。反動で彼女のおさげが軽く揺れる。
「へー、きれーなお腹してんじゃん。さすが吹部」
葵の言うとおり、一見文化部らしく華奢そのもののような奏だが、手の隙間から見える腹部には綺麗に縦のラインが入っており、余計な肉も付いておらず適度に弾力もありそうである。
一言で言うなら、鍛え抜かれた腹筋だった。
「なんで人の体・・・」
そう呟きつつも、奏はセーラー服を脱ごうとする葵に目を奪われていた。
こちらは、うっすらと四つに割れて隆起して、なおかつ硬く引き締まった、一目でスポーツに打ち込んでいると分かる腹筋である。
・・・が、奏の目はその上の、スポブラに包まれたふたつの豊かな膨らみに引き寄せられていた。
「・・・なんて見る必要ないよね、そんないい体してるのに・・・」
「ええ?確かに鍛えてはいるけど、私なんて肩幅も広いし、腕もゴツいし・・・そんな事言ったら、葦沢さんの体も女の子らしくて素敵だと思うよ」
「・・・そういう意味じゃなくて・・・」
「女の子らしい」のはどっちなんだろうと、自分の胸に手を当てながら奏は思った。
「そんないい腹筋持ってんなら、今みたいに隠れて着替えることないのに」
そう言われて、奏はますます戸惑った。
確かに、彼女の担当しているフルートは優雅な見た目とは裏腹に管楽器でもトップクラスに腹筋を酷使する楽器である。冗談めかして、「フルート奏者の大半は腹筋が割れてる」などと言われることさえある。
しかし、運動部員、それも花形選手に腹筋を誉められるなど、全く想定していないことだった。
「わ、私みたいな地味でドン臭い子がこんな腹筋してたら、みんな引いちゃうよ…」
「そんなことないよ、葦沢さんは葦沢さんで可愛いと思うし。それに、そんな鍛えられるまで音楽に打ち込んだのは私から見ても格好いいよ。腹筋は勲章でしょ」
「・・・・・・」
その夜。
奏は、鏡の前で昼間の葵との事を思い出していた。
こうしていると、中学生時代からの吹奏楽に打ち込んだ日々のことが甦ってくる。
文化部なのに課せられた腹筋運動、何度も繰り返したブレストレーニング、外が暗くなっても続いた合奏練習・・・。決して楽しいことばかりではなかったけれど、それでも続けられたのは、もちろん彼女が音楽を好きだったからである。
だが、元々奏は、「運動が苦手な自分には運動部は無理そう」という理由で吹奏楽部に入ったのだった。
五年前に入部した直後は、毎日のように運動部の練習を憧れの目で見ていたものである。
そんな彼女も次第に身体は鍛えられて行ったが、結局は文化部。運動が出来るようになるわけではない。
彼女の運動部員に対する引け目は消えることはなかった。
だが、自分にとって憧れだったスポーツ万能でクラスの中心にいる子が自分の鍛えられた身体を「勲章」と言ってくれた。
それは、自分の憧れていた存在に届くとは思っていなかった彼女の頑張りが認められた瞬間だった。
(いつの間にか、こんなに鍛えられてたんだな・・・)
奏の中で、今の自分の姿を受け入れたいという想いが強まる。
奏は鏡の前で、長い間直視することのなかった腹筋を出して見せた。
改めて見ると、葵の言うとおりに、長年にわたって部活で鍛えられたそれは逞しく、そして美しかった。
(もしかしたら、もっと凄いのかも・・・)
さらに奏は、腹筋に力を込めてみた。筋肉の作り出す陰影が際立ち、皮膚の内側で腹筋が硬く引き締まったのがわかる。帰宅部の華奢な女子のパンチくらいになら耐えられそうだった。
(うわ・・・)
それを見ていた奏の顔に、戸惑いとも喜びともつかない表情が浮かんだ。
「お姉ちゃん・・・壊れちゃったの?」
部屋に入ってきた、三つ下の妹の華が言った。
「ち、違うよ、これは演奏に必要な腹筋が仕上がってるかどうか見てるだけで・・・」
「ふーん・・・」
華は怪訝そうな目を向けたが、すぐに頭を切り替えて言った。
「それにしても、中学で入部した当初は、毎日のように筋肉痛が辛いと嘆いていたお姉ちゃんも逞しくなったもんだ」
「そ、そう・・・だっけ」
(やっぱり、鍛えられてたんだな・・・)と奏は改めて思った。
「そうだ、お姉ちゃん、腕の筋肉はどう?」
何だかんだで、華もアイドルや漫画キャラの筋肉が気になる年頃なのだ。
「え・・・ええと、どう・・・かな」
そう言いつつ、奏は力を込めて腕を曲げてみた。すると、子持ちシシャモとまでは行かなくともオスのシシャモを思わせるような筋肉が二の腕に浮かび上がった。フルートは、その構え方から意外と腕の筋肉も鍛えられる楽器なのだ。
それを見た華が、「おお・・・」と感嘆の声を上げる。
奏は、我に返って「も、もういいでしょ!」と腕を元に戻した。
(後編に続く)
読んで頂きありがとうございました。後編はなるべく早く上げるつもりです。