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「ねえ……あなた、もしかして……」


 何か知っているんじゃないかって、そう尋ねようとした。刹那。


 炎が、唐突に燃え上がった。


 海にいれば火なんてほとんど無縁だから、私は恐怖しか感じない。思わず数歩退く形で避ければ、消えた炎に代わる形で、新たな影が私と航海士さんを遮るように躍り出た。それが誰のものかなんて、思考を巡らせるまでもない。この国で、私が最も良く知る相手は、この人を置いて他にいない。

 眼前に現れたあの人は――海賊のフック船長は、今まで私が一度たりとも経験したことのない程の張り詰めた空気を纏いつつ、私達の間に舞い降りた。


「下がり給え」


 それは、私と航海士さん、どちらに向けての言葉だったんだろう。凍てついた声音に、私はその場で固まった。

 ワスレナグサ。あの花と同じ、綺麗なブルーの色をしていたはずの双眸が、今は炎よりも深い赤色に燃えている。はっきりと宿されている一対の光が示すのは、鮮烈なまでの敵意。或いは、生まれて初めて向けられる、極めて強い、殺意だった。

 あの人はそれ以上は続けることなく、自分の身で航海士さんを隠しながら、鉤爪とは逆の手で私から庇うように遠ざける。そして、嗚呼、と私は気付く。さっきの言葉は、きっと私に向けてじゃなくて、仲間である航海士さんに……大事な相手に対して告げたものだったんだと。

 細められた双眸が、私を鋭く睥睨する。あんまりにも視線が強過ぎて、怖くて、胸の辺りが圧迫されているかのように、自然と呼吸が止まってしまう。


「単なる幽霊のようだが……場合によっては――」


 続く言葉は、想像するに難くない。この人はきっと、今の私を私だと認識出来ていなくて、危険な〝敵〟と成り得る相手だと警戒しているんだって事実も。すぐに分かった。理解せざるを、得なかった。


 怖い。


 ただ、それしか感じられなかった。悲鳴を上げなかったのが奇跡だ。もしくは、恐過ぎて声が出なかったのか、はたまた、声にならない悲鳴を既に上げてしまっていた可能性も否めない。自分が自分じゃないみたいに全身の感覚が掴めずに、がたがたと震え続けることしか出来なかった。呼吸すらも上手く出来ている気がしない。それでも目が反らせないのは、そんな僅かな動きすら許されていない気がしたからだ。身動きをしたら駄目だ。きっと逆鱗に触れてしまう。何も言われていないのに、自然とそう思わされてしまっていた。

 ああ、きっと。この人を恐ろしいと噂したのは、その主がこちら側に立たされていたからだ。懐に入れている相手と、忌避すべき相手。この人はきっと、あちらとこちらの境界線が明確で、その一線があまりにも重い意味を持っているんだ。そんな簡単なことですら、今更になって思い知る。


「船長」


 場違いな程の穏やかな声をかけながら、航海士さんがぽんとあの人の肩を叩いた。恐怖心が微塵も感じられないのは、彼が海賊でこういう状況に慣れ切っているのか、或いは、あの人の敵意が自分に向けられているわけではないから、余裕があるのかもしれない。あの人もまた、航海士さんのそんな態度を特に咎めることもせず、こちらに意識は傾けながらも、視線はしっかりと彼に向く。決して隙を見せることはないあの人に、私は震えが止まらないまま、航海士さんに望みを託した。きっと世界中探したって、今のこの人を止めてくれるのは、彼以外には一人もいないだろうから。


「大丈夫だよ、悪霊じゃない。知ってる奴だ」


 落ち着かせる為なんだろう。比較的優しげな口調で語る航海士さんに、あの人は僅かに困惑を浮かべた。きっと、幽霊の知り合いに心当たりがないからだろう。それでも私の方に改めて視線を向けたのは、きっと航海士さんの発言を疑う理由がなかったからに違いない。それだけの繋がりがあるんだろうと、示された事実に、こんなときなのに寂しくなった。

 その上、どうやら今の私の姿は、そんなにはっきりとした形を保っているわけではないらしい。しばらく目を凝らすようにして私を見据えていたこの人は、ある瞬間に何度か瞬きをして、それから僅かに瞠目した。


「…………オーレリア?」


 驚きになのか、或いは、警戒する必要はないと悟ってくれたからなのか。赤く揺らめいていた炎が、あっという間に消えて行く。ワスレナグサを湛えた瞳は、明らかな戸惑いに揺れながら、説明を求めるかのように、目の前にいる私と背後の航海士さんとを交互に見遣った。


「否、しかし……彼女が何故……」

「わ、私……人間に、なりたくて……薬で、それで……」


 途切れ途切れに紡ぐ言葉に、この人はやっぱり困惑したような表情を浮かべて、こちら側を見詰めるばかりだ。私の望みが理解し難いものだったのか、或いは、声すらもきちんと届いていないのか。どちらだって構わなかった。今の私は、自分が置かれた状況が一番把握出来ていないんだから。もう半泣きになりながら、透けた掌で顔を覆う。


「ちゃんと願ったのに……叶うはずだったのに……なのに、どうして……!」


 こんなことになってしまったのか。その問いに、答えなんて返されない。……そう、思っていたのだけれど。


「確かにこの国じゃあ、強く願えば夢は叶う。人間にだってなれるだろうさ」


 冷静に、淡々と。感情的になる私とは正反対の声を奏でるのは、あの航海士さんだった。どうやら、彼にだけはしっかりと私の姿も声も分かるらしい。どうしてなのかはちっとも分からないけれど、それが今の私にとって幸運なことだけは確かだ。

 歪んだ視界で彼を見る。航海士さんはほとんど無表情なのに、どうしてだろう。何故だかその顔が、何処か痛むようなものに思えてならなかった。


「だがな、オーレリア」


 再びそう切り出しながら、あの人の隣をすり抜ける形で、航海士さんが前に出る。赤い瞳に、探るような色はない。それはきっと、私の気持ちを詮索する必要なんて、既に見抜いている彼には必要ないものだったからだ。少なくとも、私にはそう感じられた。

 彼からの言葉がとても恐い。だけど逃げ出すことも出来ず、私は身を堅くしながらも発言を待つ。ほんの数秒も置くことをせず、彼は躊躇なく唇を開いた。


「お前、本当に人間になりたかったのか?」


 それは言葉の上では問いかけだけど、響きは完全に否が前提の確認だ。ついさっきそう主張したばかりなのに、真っ向から否定してかかる航海士さんに、思わず怒りがかっとこみ上げる。


「当たり前でしょう!? それ以外に、私が何を……!」

「人間になることがお前の望みか?」


 遮るなんてとんだ無礼だ。そう言い放ちたかったけど、それより早く彼の方がその続きを紡ぎ出す。


「それとも、お前は人間になって、何か別のことがしたかったのか?」


 再びの確認に、息を飲む。否、と即座に唱えることは、今の私には出来なかった。そんな私の反応が、航海士さんには予想出来ていたんだろう。彼は一分たりとも表情を変えずに、静かな眼差しを湛えたままで言葉を続ける。


「一体どっちが、お前の本当の願い事だ?」


 見透かしたような深紅の瞳が、私を真っ直ぐに映し出す。心の中が、建前として纏っていたものが全て無意味になってしまったようで、必死に被っていた殻を剥がされてしまったようで、それがとても恐ろしかった。

 そもそも、図星だ、と、思わされてしまった時点で、私の負けだったのだけど。

 すんなりとそれを認められる程、私は大人じゃあなかった。


「……ちがう」


 気付けば、唇からはそんな音が零れ出す。分かってる。そんなのは偽りで、必死の虚勢が生み出した強がりなんだということは。だけど、どうしても、認めることは嫌だった。今の私を形作っているものが崩れ落ちる気がしたから。例え、それがただの虚像なんだと、頭では理解していても。


「違う……違う違う、違うわ! 私は、ちゃんと、本当に……っ!」

「ねえ!」


 響き渡ったのは、また違う誰かの声だった。誰か、なんて表現するのは意地悪だろう。私が分からないはずなかった。だけど、そんな。お姉様と同じくらい、あの子が来るはずがないのに。動揺を隠し切れないまま、それでも私が声のした方――水辺へと視線を滑らせれば、岩場に身を乗り出すようにして、末妹があの人と航海士さんを見詰めていた。何時だって無邪気さを振りまくあの子の、あんなに切羽詰まった表情なんて、今まで一度だって目にしたことがなかったのに。

 どうして。此処に来ることは、お姉様に固く禁じられているはずだ。あの事件以来、流石にきちんと守っていたはずの言い付けを破ったことに疑問が頭を擡げたけれど、答えはすぐに与えられた。


「あなた達、お願い事が叶うお薬を持ってない!?」


 まくし立てるような早口で、末妹は二人に真っ直ぐに問いかける。あの人に私が問いかけたときのような、夢に満ちた雰囲気なんて欠片もない。本当に切実な――私だって真剣に必要としていたのだけれども、急を要するような、という意味ではそれよりもずっと勝っている――口調に、よほどの事情があることが瞬時に察せられた。一体何に使うのだろう? 抱いた疑問には、すぐに回答が与えられた。


「オーレリアお姉様が、眠ったまま起きないの……!」せっかくの可愛い顔をくしゃりと歪めて、あの子は必死に言い募る。「この国のどこかにあるんでしょう? ねえ、知らない?」

「ちょっと!!」


 次いで聞こえたのは、もっと有り得ない声だった。誰よりも有り得ない。だって、あの人のことを……お姉様は、何よりも恐れていたはずなのに。

 ああでも、可愛いあの子の為だったら、それすら耐えられるのかもしれないな。なんて、暗い考えが頭を過ぎって、思考が闇に沈んでいく。驚きに染まっていたんだろう表情が、すっと感情を失っていくのが自分でも分かった。

 そんな私の今の姿は、二人には見えていないんだろう。お姉様は人目をはばかる余裕もないまま、先に来ていた末妹に声を放った。


「来てはいけないと言ったでしょう!?」

「でも、でも……!」


 更に言い募ろうとしている末妹の肩を掴んで海中に戻したお姉様は、自分が前に出ることであの子の姿を隠してしまう。きっと、あの人のことを未だに警戒しているんだろう。信頼しきっている末妹とはまるで違う。抱いている警戒心を隠そうともしていないお姉様は、鋭い眼差しでもって、未だ閉口したきりの二人を睨んだ。


「あんた達がオーレリアを誑かしたんでしょう!? あんな迷信を信じて……!!」


 言い放たれた内容に、私はようやく、気を失う前、お姉様が私を追ってこの国に来ていたことを思い出した。とんだ薄情者だ。勝手にお姉様のことを忘れて、勝手に失望するなんて。きっと、私の身体だけを連れて帰って、目覚めないことに慌てた末妹がこの国にやって来たんだろう。ようやく一連の流れを理解した私の前では、依然として誤解したままのお姉様が、海賊である二人に対して、軽蔑と怒りの入り混じる眼差しを向けている。


「良い!? 人魚の肉を食べたって、不老長寿にはなれないのよ! 捕まえたって無意味なの!!」


 とんだ言いがかりだ。あの人も航海士さんも私には何もしていないし、きっとそんな噂なんて嘘だと理解してるのに。それでもお姉様に対して抗議するどころか苛立つ様子すらないのは、私の陥っている状況を把握しているからだろう。


「……生憎と、我々は彼女に危害を加えてはいない」


 静かに返すあの人は、何時もよりも憂いの色が深い気がした。ううん、きっと思い違いじゃない。地へと落とされた視線。それを向けているワスレナグサは、普段よりずっと明るさが欠けている。目蓋が伏せがちになっているのは、仮にも私の姉妹であるお姉様達に、これから告げる内容のことを思って、気落ちしている為なのか。


「推測するに、彼女は自ら……」

「嘘!!」


 裂くような声で、お姉様が遮った。妹達がどんなにとんでもないことをしても――それは末妹がこの国に来て、あの人と関わったことを叱り付けたときですら――ここまで感情的になることはなかったのに。怒っているのか、泣きたいのか、曖昧で分からない程の勢いで。


「そんなの嘘よ! あの子はずっと昔から妹達の中で一番しっかりしてたもの!!」


 ああそうだ。お姉様の口振りに、思わず私は唇を噛んだ。痛みがないのが、却って苦しいと感じるなんて、知りたくもなかったけど、そんなことはどうでも良い。お姉様の気持ちは頭ではきちんと分かっていたし、こんな風に傷付けることも承知の上で全てを行ったはずなのに。いざその姿を目の当たりにすれば、その信頼を裏切ったことに強い罪悪感を覚えずにはいられなかった。私はお姉様にとっての妹達の中で、誰よりも聞き分けが良くて、言い付けを守って、しっかり者だと思われていて……だからこそ、一番気にかけて貰うことがなかったんだから。

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