2
†
身に纏っている、私の持っている中で一番上等な衣を念入りに整えて、海からそっと顔を出す。あの人の海賊船が少し離れた場所に停泊しているから、あの人自身も絶対にネバーランドにいるはずだ。ただ、何時もの海岸にあの人の影は見当たらない。時間が少し早かったのかと、夜空を見上げて確認しかけた、そのときだ。
「船長なら、今日は仕事で来れないぜ」
かけられたのは、まだ若く、それでいて男の人にしてはわりと高めの声だった。私と交流がある人間は残念ながらあの人ぐらいのものだから、振り向いた先にいた男の子にも、もちろん見覚えなんてなかった。
高い位置で括られている真っ白な髪と、それと同じぐらい白い肌、火よりも鮮やかな赤色の目。綺麗な顔立ちをしている彼は、目にしていると不思議とあの人……フック船長を思い出させる。どうしてだろう。考えていけばすぐに分かった。着ている真紅の外套が、あの人ととても似ているからだ。
「……あなたは、あの人の仲間?」
「おう。航海士だ」
気さくそうな笑顔を見せた彼……航海士さんは、夜の海辺を丁度散歩していたらしい。時折何かを拾っているから、綺麗な小石でも見付けたのか、或いは流れ着いた物の中に珍しい何かがあったのか。ある程度歩いて満足したのか、大きな岩に腰掛けた。
人好きのする笑顔を浮かべていたからだろう。その子に何だか少し興味が沸いて、静かに近付いてみる。目立った武器は持っていなさそうなのが少し不思議だったけど、すぐ近くにはあの人の大きな船があるから、危険はないと判断しているのかもしれない。万一何かがあったって、見ず知らずの私やあの末妹ですら助けてくれるあの人なんだ。仲間だったらもっと見捨てないだろう。そう思うと、何だかこの人が随分と羨ましいような気がした。
それにしてもと、私は航海士さんのことをじっと見上げる。背はそこそこ高いから子供ではないんだろうけれど、大人と言うには声もそこまで低くはないし、顔にも随分と幼さが残っている気がした。人間の歳は今一つ良く分からないけれど、顔立ちだけなら見ようによっては私と同じぐらいにも思える程に。丁度、大人と子供の中間ってところだろう。
改めて上着に視線を移す。酷似しているのは、仲間だから敢えて服装を揃えているのかもしれないし、もしかしたら、あの人が幾らか着古した物を、この航海士さんが貰っているからかもしれない。どちらにせよ、ある程度親しい間柄だっていうことが想像出来て、私は顔を半分だけ冷たい海の中に沈めた。何だかそれは面白くない。そう思った。海の中で私達が身に纏う衣は、人間のものとは素材から違っているのだし、例えあの人の上着を貰っても海中では着られない。そう、頭では理解しているのに、納得し切れない自分がいた。
でも、良く考えたら、この子は私を見ただけであの人に会いに来ていると分かったんだ。もしかしたらあの人がこの子に私の話をしているのかもしれない。ううん、きっとそう。そうでないと、『船長なら、今日は仕事で来れないぜ』なんて言ってくるはずないもの。仲間に私の話をしているんだと考えたら、また顔全体が緩んでしまう。どんな風に話しているんだろう? 想像するだけで幸せな気持ちで満ちていく。我ながら単純だと思ったけれど、この気持ちだけは不思議とどうしても止められない。
「しっかし、物好きな人魚もいたもんだな」
口にしながら向けられた興味を隠さない眼差しが特に不快じゃなかったのはきっと、そこに悪意が微塵もないことが感じられたからだろう。私の気持ちを読んだわけではないと思うけど、からからと笑いながら、航海士さんはまるで子供のような目で私のことを見下ろしてきた。
「大半の人魚は、船長のことおっかながって絶対に近付かないってのに」
嗚呼、やっぱりほとんどの人魚達はあの人を恐れているらしい。それはそうか。なんて納得してしまうのは失礼かもしれないけれど。あれだけ圧倒的な力なんだ。何かの拍子に見せ付けられたら、逃げたくなるのも分かる気がする。私やあの子は命を救われたからその限りではないけれど、見かけただけなら恐怖が勝っても不思議じゃない。それが噂として広まったなら、極力避けようとするに違いなかった。
だけど、私はそうじゃない。他の人魚とは違うんだって、その事実をしっかりと伝えたくて、私は毅然として航海士さんの綺麗な顔を見上げた。
「私や妹の命を助けてくれたのよ? 私があの人を怖がるはずがないわ」
「ふうん……そうかい」
じっと見下ろしてくる大きな瞳に、何だか妙にそわそわしてしまう。澄んだ赤色の双眸はきらきらとしていて、何処かあの末妹を彷彿とさせるけど、同時に無垢で世間知らずなところも多くあるあの子とは対照的に、こちらの考えを全部見透かしてしまうような、そんな力がある気がした。そんなはずがない。出逢ったばかりのこの航海士さんに、私のことが分かるはずないのに。それでも、じっと私を見つめている視線には、何らかの意図があるとしか私には思えなかった。
「……何かしら?」
「いいや? 何でも」
否定されたのに、やっぱりもやもやしてしまう。絶対に何かある。確かな証拠はないけれど、そうだとしか思えない。それでも否定された以上追及することも出来なくて歯痒くなっている私に、彼が再び唇を開いた。
「仲が良いのか? 姉妹皆」
「…………当たり前でしょう?」
お姉様はあの子をはじめとした妹達を叱ることが多いけれど、それだって妹達のことを心配しているからだ。妹達だって同じ。こっそりと言いつけを破ることはするけれど、お姉様自身を危険な目に遭わせるようなことは決してしないし、叱ってくるお姉様を厭うようなこともない。一体どうして彼はそんなことを尋ねてくるのか。疑問を抱きながらも肯定と共に彼を見詰め返したけれど、どうやら私の真意は伝わらなかったか、或いは流されてしまったらしい。
「ふうん?」
笑みを絶やすことはせず、航海士さんは小さく首を傾げた。可愛い仕草ではあるけれど、航海士さんは決して無垢で無知な子供じゃない。その事実が、私の胸に一層の疑念を抱かせる。少しだけ胸の鼓動が速くなったのは、もしかしたら、焦りのせいかもしれなかった。
「それなら、それで良いけどな」
それきり航海士さんは何も言うことはせず、さっき拾ったらしい物を整理し始めた。包みから取り出したのは小瓶だ。中身までは良く見えなかったけれど、色とりどりのそれは月光を受けて綺麗に輝いている。そしてそれを扱う航海士さんもまた、肌や髪に白が多いせいだろう、不思議と輝いて見えた。
もっと知りたい。彼のことを、目にしていたい。まるで魅入られたような感覚で、そんな欲求を漠然と抱かされたけど、その誘惑を寸でのところで振り切って、海に潜り、ネバーランドを後にした。これ以上彼に関わってはいけない。そう直感したからだ。何か、隠しておきたいものまで全部、暴かれてしまうような気がした。それだけは避けなければいけないと、私は全力で泳ぎ去る。
最高速度でぐんぐんと海を進んでいけば、珊瑚のアーチまですぐだ。潜ってしまえば、もうあの海とは別世界。航海士さんの視線だってもう完全に届かない。……そう、分かっているのに、それは正しいはずなのに、何時まで経っても背後からあの赤い視線が向けられ続けている気がして、振り切るように泳ぎ続ける。
あの人よりも、あの航海士さんの方がずっと怖い。そんな気がした。
†
あの人はどうやら花がとても好きらしい。そんな話があの人の口から出たけれど、残念ながら陸に上がることの出来ない私は、海中に咲く花以外は全く見たことがない。「陸にはきっと、たくさんの種類の花が咲いているんでしょうね」……なんて、この前の晩に私が言ったからなんだろう。この人は幾つかの種類の花を束ねて、私に持って来てくれた。渡されたそれに夢中になって何度もお礼を言ったけど、どれだけ言葉を重ねても、この気持ちの全部は絶対に伝え切れない。そう、断言出来る程、私はとても幸せだった。
嗚呼、あの子にまた話してあげることが増えた。きっとまた目を煌めかせるに違いない。自然とそんな想像をして、思わず頬が緩んでしまう。ただ、花束を貰ったなんて言ったら、あの子は絶対に羨ましがるだろうけれど……秘密にしておくべきか否か、思案しながら私は手元の花束を眺めた。綺麗な紙で丁寧に包まれているそれは、几帳面そうなこの人の気遣いがはっきりと伝わってくる気がして、また一つ笑みが零れてしまう。優しい人。そう、改めて感じた。
どれがどの花なのか、初めて見る種類ばかりで私には今一つ分かりかねたけれど、それが却って面白い。興味津々で私はじっくりとそれぞれの花を眺めた。
「これが、ワスレナグサの花かしら?」
「ああ」
私の確認に、あの人がゆっくりと首肯する。僅かに上げられた口角に、短い中でも穏やかさが普段以上に感じられる声。察するに、この人はこの花がとても好きらしい。
「昔、知り合いに貰ってね……それからずっと育てている大事な花だ」
「素敵……」
その知り合いが誰なのかは分からないけれど、花を贈るという行為はもちろん、その花をずっと大事に育てているこの人もとても素敵だと思った。やっぱり、この人は恐い人じゃない。知り得た一面により一層頬が綻んだ。
ワスレナグサ。薄くて明るいブルーの花。控え目に咲いているそれを眺めていれば、不意にある事実に気付く。
「貴方の目と同じ、綺麗な色ね」
一本だけ抜き取って、この人の顔の近くに寄せて二つを見比べる。夜空の下でも、ほとんど丸に近いお月様が二つ浮かんでいる上に、星もたくさん出ているからなんだろう。瞳と花が同じ色をしていることがはっきりと分かった。「有難う」と幾らか控えめな声でお礼を口にしたこの人は、どうやら少し照れくさかったみたいで、ほんの僅かに目を細めながらはにかむように微笑する。初めて見る顔に思わず心臓の辺りが握られたみたいに痛むと同時、何時かと同じようにじわりと熱を持ったけど、そんなことは全く知らないこの人は、視線を私の伸ばした髪へと移す。
「君の髪にも、とても良く似ている」
眩しくなんてないはずなのに、瞳を一層細めて微笑みながらそんなことを言ってくれるものだから、冷たい海に頬を沈めた。この人みたいに笑顔を返す余裕がなかった私には、「有難う」と、たったそれだけを小さく返すのが精一杯だ。顔が熱い。この人は時折こういうところがあるのだから、狡いと言うか、油断出来ないと言うべきか。気恥ずかしくて、こればっかりは末妹にも、そういうところがあるのよ、なんて話すことも出来ないけれど。あの子が知らない一面を私は目の当たりにしていると思えば、やっぱり得意な気分になった。私の方が、よっぽど狡いのかもしれない。お姉様や末妹とは違う、海ではほとんど目立たないこの髪の色だって、あまり好きではなかったけれど、この人の目と同じだと思えば、とても素敵なことに感じた。本当に、子供みたいに単純だ。
ちらとこの人を盗み見る。この人の優しいブルーの瞳は、今は夜空に向けられていた。それにほっとする反面、何だか残念に思えてしまって、やっぱりまだまだ私は幼いんだと落ち込んだ。この人とは違う。この人は、私なんかと比べるまでもなく立派な大人なんだから。ただ、老いの色は少しも見えない――むしろ海賊の長にしては若いようにも感じたのは、顔や肌に皺が全くないからか、或いは、何時だって静かに響くバリトンが、澄んでいて張りのあるものだったからなのか。
もしも、私が人魚じゃなかったら。もっと近くで、その目が見詰めている物を、一緒に見ることが出来るのか。不意に浮かんだ疑問について思考するのは、決してこれが初めてじゃない。だけど、今はそれを考えても仕方ないんだ。まだ、ほんの少しだけ早い。自分にそう言い聞かせて、顔を出す欲に蓋をした。
それでも。
「ねえ、こっちのお花はなあに?」
まだまだ話をしていたいし、少しでもこの人に視線を向けられたくて、私は一際目を惹いた、たくさんの花弁が重なっているらしい咲きかけの花を引き出した。真っ白なそれは、決して色は強くないのに、華やかさと美しさが際立っているように感じる。きっときちんと咲いたなら、とても美しいんだろう。想像するだけで楽しみになるような花だった。
「それは薔薇という花だ。仲間の航海士が育てていてね……良く船に飾っているのだよ」
「航海士さん……」
ちらと浮かんだのは、この前会ったあの男の子の顔だった。確か、そういう役職だと口にしていたような気がする。粗野な口調だったから、こんな可憐な花を育てている姿なんて今一つ想像出来なかったけど、船長であるこの人が言っているんだ。多分間違いじゃないんだろう。彼のことを考えたくなくて、振り払うように私は別の話題を振った。丁度、尋ねてみたいこともある。
「ねえ、貴方はネバーランドのことに詳しいのよね?」
「全てとまでは言えないだろうが、幾らかは」
すんなりと返された言葉は控え目なものではあったけど、きっと謙遜なんだろうと直感で思った。少なくとも、噂話でしかこの国のことをほとんど知らない私達よりも、ずっとずっとこの人は自分の住むこのネバーランドを知り尽くしているだろうから。こくりと息を飲み込んで、花束を持った手で胸元をそっと押さえ付ける。緊張と期待で、頭がくらくらとしたけれど、しっかりしなくちゃと言い聞かせた。私の、願いを叶える為なんだから。
ゆっくり、慎重に開く唇は、何故だか少しだけ震えていた。
「……それじゃあ……」