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「ねえ、オーレリアお姉様! 昨日の晩、あの方とお話しをしたって本当?」
大急ぎで泳ぎながらやってきた妹からの問いかけに、自分の口元が緩むのを感じた。そんなに笑ってはおかしいことは分かってる。でも、そうせずにはいられない。なるべく自然な微笑みになるように努めつつ、振り返った先にいる、六いる姉妹の中でも一際可憐な容姿をした末の妹を視界に入れた。
「ええ、本当よ」
「凄いわ!」
純粋なこの子は、きっと本気でそう思っているんだろう。感極まって普段よりも高い声を出しながら、妹は胸の前で手を合わせた。大きな瞳が夜空を映し込んだかのように普段よりもきらきらと輝いて見える気がするのは、きっと私の気のせいじゃない。
「ねえ、とっても優しい方だったでしょう? 他のお姉様達が言うみたいに、怖い方ではなかったでしょう?」
「ええ、とても」敢えてゆっくりと首肯して、私もそのことを十二分に理解していることを伝える。「海賊だっていうことが嘘だと思えるぐらい、とても紳士的で、気品に溢れた方だったわ」
「素敵!」
「オーレリア!!」
喜びに満ちたこの子の言葉に被せるように、鋭い声が海を裂いてこの場に届く。その主が誰か、聞き間違えるはずがなかった。六姉妹の中で唯一の私のお姉様なのだから。海の中でも決して見失うことのない真っ直ぐな金色の髪は、まるでお姉様の意思の強さをそのまま主張しているかのよう。いつもだったら、悪戯好きな他の妹達にずっと向けられているはずの意識が私に集中しているのは、きっとこの末妹が一緒にいることが大きい。この子に少しでも悪影響を与えられれば、また何をしでかすかちっとも分からないんだから。私の考えを肯定するかのように、お姉様の燃えるような眼差しが私を真っ直ぐに射抜く。
「聞いたわよ、フックと話をしていたって! どういうことなの!?」
一体何処で耳にしたんだろうと疑問を抱きはしたけれど、それだってほんの些末なことだ。この平和な海域では、魚も人魚も誰もが皆、噂話が何よりも好きなんだから。
フック。そう口にされた名前が耳朶を打つだけで私の気持ちは舞い上がる。思い出すだけで心の底から幸せだった。それを知らないお姉様には、私が平然としていることが憎らしく感じられるんだろう。お姉様は一層目を吊り上げて私のことを睨め付ける。
「もしかして、あの噂のせいじゃないでしょうね!?」
「まあ、噂って、一体どの噂のことかしら?」
お姉様の言っているそれが何を指しているのか、本当は私にもちゃんと分かっていた。だけど敢えて素知らぬ振りで尋ねれば、お姉様は途端にぐっと押し黙る。他の妹達とは正反対に、私は今までずっと聞き分け良くしてきたんだ。まさか私が隠し事をしているなんて夢にも思っていないんだろう。結局「何でもないわ」と誤魔化して、お姉様は改めて私を強く見据えた。
「他の妹達なら兎も角、あなただけは大丈夫だって、私も安心してたのに……!」
それはそうだろう。私は、私だけはいつだってお姉様の言いつけを従順に守ってきたんだ。その私がまさかこんなことをしでかすなんて、自分でも意外な程なのに、お姉様が予想していたはずもない。それでいてお姉様の言動に戸惑いよりも苛立ちの方が大きいのは、長姉として私以外の妹達にそれだけ振り回されているからなのだろうけど。
「小さい頃に言ったでしょう!? フックはネバーランドでも一番怖い男だって! いつかあなたも殺されてしまうわ!」
「あら、あの人が人魚を殺したなんて話、私は聞いたことがないけれど?」
私からの反論に、お姉様はどうやら言葉に窮したらしい。浮かべられた表情から、考えていることが手に取るように伝わってきた。思った通りだ。なんて言ったらきっともっと叱られてしまうだろうけれど、私の本音はそうだった。
お姉様はきっと一人歩きしている噂を耳にしただけで、あの人のことを恐ろしいと決めてかかって警戒しているに違いない。何せお姉様はあの国に行ったことがないと前に断言していたし、絶対にあの人に出くわさないよう終始しているんだから。実際のあの人を知る機会なんて、お姉様にあるはずがなかった。
きちんと話せばすぐに分かることなのに。あの人が人魚を殺すなんてあるはずがないって。そんな酷い人間のはずがないって。だって……だって、あの人は。
「……兎に角! 良い? 未だに人魚の肉には不老長寿の力があるなんていう出鱈目を信じている人間もいるのよ! 近寄るなんて危険だわ! 分かったら、もう二度とフックには……!」
「そんなの平気よ」
まだ話の途中だってことは分かってる。だけど私は、敢えてそれを遮りながら背中を向けて泳ぎ出す。生まれて初めての反抗なのに、私は緊張してしまうどころか、気持ちが浮足立つばかりだ。
「オーレリア!」
いつになく険しさを伴う呼び声が聞こえてくれば、私の口角は一層上がる。いけないこと。そう理解はしているけれど、止められれば止められる程、行きたいと願う気持ちは高まっていく一方だった。
平気だという自信もあったし、お姉様よりも、そしてきっとあの末妹よりも、あの人のことを知っているという事実を思えば、心がまた満たされる。……ほんの少し、あの人にきっと恋心を抱いているんだろう末妹のことを思うと、罪悪感がちくりと胸を刺したけど、それ以上に私の気持ちはあの人に会うことへ向かってしまう。
「心配しないで、お姉様。私、きっと大丈夫だから!」
まだ何かを叫んでいるお姉様の声は聞こえていたけれど、そう大きめの声で言い残し、振り切るように全速力で泳ぎ去る。追って来ないという確信があった。お姉様が私を追えば、きっとあの子も一緒に付いて来てしまう。妹達を、特にあの子を大事にしているお姉様にとって、そんな事態だけは絶対に避けたいはずだから。
東の海を真っ直ぐ進み、五色に光る珊瑚のアーチを潜ったら、そこはもう異なる世界。海面から顔を出せば、空にあるのは無数の星と、青く輝く双子の大きなお月様。その下にある小さな島が、最近の私の目的地。
ネバーランド。――あの人が滞在している、あらゆる夢が叶うという伝説を持つ国だった。
†
あの人が怖い人ではないと思うようになったきっかけは、末妹が起こした騒動だった。あの子は無邪気で可愛くて、どんなに叱られたとしてもへこたれるようなことがない。怒られるのが怖くて言いつけを聞いてばかりの私とはまるで正反対だ。あの日もそう。十五を迎えるまではネバーランドに行くことは危険だからと許されないのに、それを忘れてしまったのか、或いはあの噂に興味を惹かれて、少しぐらいなら平気だと思ってしまったのか。一人であの国を訪れたら、どうやらクラーケンに襲われかけたらしかった。無事だったのは、自力で逃げ切れたからじゃない。青ざめるお姉様に向けて、塞いだ様子を全く見せなかったあの子は、むしろ喜びすらも窺える顔でこんなことを告げたのだ。
『命を救って貰ったの! あの、ネバーランドにいる、海賊の……そう、フック船長に!』
お姉様も、私も、その場にいた他の姉妹達も。流石にその発言にはすっかり度肝を抜かされた。あの子程ではないにせよ、私以外の妹達は皆、少なからずお姉様の言いつけをこっそり破っては怒られるようなことをたびたびしていたけれど、それにしたって今回程の衝撃をお姉様に与えたことは一度もないと断言出来る。だけどすっかり夢中になっているあの子には、そんな事実もきちんと認識出来なくなっているみたいで、今まで私が見た中で一番きらきらとした瞳でもって、私にこう告げてきたのだ。
『ねえ、オーレリアお姉様。私、あの方ともっともっとお話しをしたいわ! きっと仲良しになれると思うの!』
どうして私にそんなことを言ったのか、あのときは良く分からなかったけど、今なら何となく予想は出来る。きっと、私は一番あの子の話に前向きな興味を抱いたんだ。他の姉妹が揃って恐怖に慄いたのとは反対に。それがあの子に伝わったから、話す相手に私を選んだんだろう。或いは、お姉様の次に年長の私なら、お姉様をどうにか説得出来るという期待を寄せたのかもしれない。だけど、残念ながら私はそれをしなかった。出来なかった。末妹はもちろん可愛いし大好きだけど、一度だってお姉様の言い付けを破ったことなんてないし、異を唱えたことだって全くなかったんだから。
結局、改めてあの人の恐ろしさを必死に言い聞かせるお姉様は、あれきり末の妹にあの海へ出ることを禁じた。それだけ恐ろしい相手なんだ。フック船長という人物は、特に、噂話には誰よりも敏感なお姉様にとって。
……なのにどうして、私はあの海へ向かってしまったんだろう。
分かってる。理由は、自分自身では、何となく。だけどそれをまだ受け入れたくはなかったから、丁度十五歳になって許される歳を迎えたから、だから興味を抱いてしまっただけなんだって、自分にすらも気付かない振りを突き通す。皆が寝静まった夜に、危険で、それ以上の魅力を持ったあの海へ辿り着き。
そして、出逢った。
『怪我は無いかね?』
鉤爪で太い網を裂き、携えた剣で幾人かの相手を瞬時に斬って捨てながら。あれは……多分、お姉様が言っていた不老不死の噂を信じた人間達が、私のことを捕まえようとしていたんだろう。突然網で捕らえられたせいで混乱していた私には、後から状況を理解するのが精一杯だったけど、それが恐らくは正解だ。
蝋のように白い肌、波打つ黒髪、細かい細工の施されている炎よりも深い紅の外套と、それとお揃いの色の羽帽子。左手に輝くのは義手の代わりの鉤爪で、整った容姿は却ってその男の恐ろしさを増長させる。……そう、何度も言い聞かされていた。そんな特徴の人間を見たら、必ず逃げるようにとも。
それは間違いかもしれないと、一目ですぐに感じたんだ。
はっきりと心配されている。それも、あのフック船長に。呆然とした心地で、私はあの人を見上げた。
薄い、そして存外明るいブルーの瞳が真っ直ぐに私を見下ろしている。厳しそうと言い切ってしまうのは少し違う。表情にも顔立ちにも、驚く程に険しさのようなものはなかった。多分、礼儀正しく、上品な雰囲気があるからこそ、こちらもきちんとしなければいけないって、緊張が自然と煽られるんだ。
けれど、そんなに怖い人とは思わないのは、私を案じていることが、その眼差しから明確に感じ取れたからなんだろう。
『あ……あの、その……有難う』
『何。礼には及ばないとも』
しどろもどろになりながらもどうにか精一杯のお礼を言えば、その外見に似付かわしい紳士的な口調で言葉が返された。お姉様から話を聞いていた限りではまるで想像もしなかったような穏やかな微笑を向けられて、とても驚いたのと同時、胸の奥から確かな熱が溢れ出したことを覚えてる。怪我なんてしていないはずなのに。原因はちっとも分からずにいたけれど、後で考えた結果、誰かに心配をされたのが随分と久し振りだったから、それが嬉しかったんだと納得をした。
噂話とは全然違う。この人は、とても優しい人間だ。あの末妹が熱に浮かされたような調子で延々とこの人のことを口にしていることにだって、自然と納得してしまう程。
間違っているのかもしれないと思った。だけどもう、知ってしまったら止められない。
『――君が無事で何よりだ』
形式上の言葉である可能性も、完全には否定出来ないけれど。和らいだ目元が、緩やかに弧を描いた唇が、微かに漏れた吐息や纏う雰囲気の全てから、あの人が安堵したような風に受け取れたから。
この人ともっと関わりたい。そう、願ってしまったんだ。