てんしとあくま
人は、この世の全てが、善と悪の2つに大別される、と、思いたがります。世界に散らばるさまざまな宗教には、そのような考え方をもっているものが多い。キリスト教における『天使と悪魔』も、その一つの例ではないでしょうか。
幼児期の子供に基本的な善悪感覚を掴ませる手法として、この善悪二元論はよく用いられます。しかし、果たしてそれは、文明的かつ科学的に合理化されたこの社会を生きる私たちにとって、長く信じ続けて良い価値観なのか……
僕が思うに、人間には一度、自分の善悪感性について見つめ直すタイミングが必要だと思うのです。だいたい、小学校高学年くらいの頃にーー
むかしむかし、あるところに、ちいさなちいさなクニがありました。そのクニは、さいきん大きなあらしにおそわれて、はたけがあれてしまい、たべものがたらなくて、みんながうえていました。
かいぎのばで、王様はたずねます。
「このままでは、『かくめい』がおきかねん。なんとかできないか、おとうとよ。」
おとうとは、王様のてしたではありませんでしたが、王様によくじょげんをしていました。
『かくめい』は、王様のことをきらいになった国民が、王様とそのなかまをころして、あたらしい人に王様になってもらうためにおこすたたかいのことです。
おとうとは言いました。
「へいしたちをはたらかせて、あらしにあらされたはたけをかたづけさせましょう。」
「そうしたら、わしのへいしは、わしを『かくめい』から守ってくれなくなるではないか。だめじゃ、だめじゃ。」
それを聞いていたお妃様が言いました。
「ねぇ、ほうっておきましょうよ。はたけからとれるたべものがすくなくなっているのに、国民がおおいから、たべものがたらなくなってうえるのです。国民のうち、おおすぎるぶんを、ことしうえ死にさせてしまえば、来年からはうえなくなるでしょう?」
すぐにおとうとがはんろんします。
「それでは、国民のいかりはますばかりです。ほんとうに『かくめい』をおこされかねませんよ!」
すると、またはんろんするように、ぎょぎょうだいじんがいいました。
「わたしは川にたずさわるしごとをしとりますから、このクニのすみずみまで、みてまわっております。だいじょうぶ、いまの国民たちに、『かくめい』をおこすげんきなぞ、ありませぬぞよ。」
「それもそうじゃな。」と、王様は、なっとくしてしまいました。
王様は、[ことしはあえてなにもしない]とはっぴょうしました。
ぎょぎょうだいじんの言っていたことがほんとうなのか気になった王様のおとうとは、3人、ごえいのへいしをつれて、町にある教会をのぞきにきました。すると、ぼくしさまが、こんなはなしをしています。
「今、わがクニはせんそうをしてなどいないから、お城にためこんだへいしたちのたべものは、たくさんのこっているはずです。王様は、それをわけあたえるべきです!」
はなしをきいていた国民たちは、くちぐちにいいました。
「その通りだ!」
「教会は“いいやつ”だ、“てんし”のなかまなんだ。」
「なにもしてくれない王様は“わるいやつ”だ、“あくま”のなかまなんだ!」
それをきいていたおとうとは、いてもたってもいられなくなってたちあがると、こう言いました。
「おしろのひょうろうだって、そうたくさんは、のこってはいない! かつかつだ! うえているのはへいしたちもおんなじなんだ。たべものをわけてしまえば、へいしたちもしんでしまう! そもそも、このクニのたべものがすくないのがもんだいなのであってーー」
はなしをぜんぶ聞きおわるまえに、国民たちがおとうとへむかってどなりはじめます。
「うるさい! 教会は“いいやつ”なんだ。“いいやつ”にはんたいするやつは、みんな”わるいやつ”なんだぞ!」
「“わるいやつ”は、“あくま”のなかまだ! こいつも、王様とおんなじだ!!」
それを聞いたおとうとは、「だれがあんな“ぼうくん”とおんなじだって!?」と、言ってやりたくなりました。しかし、それを言い始める前に、国民たちはおとうとへおそいかかってきます。
「“あくま”のなかまは、ころせ!!」
ぼくしさまのおしえには、『“あくま”のなかまは、みつけしだいころすべし』とかかれていました。
おとうとと、かれを守っていた3人のへいしは、ひっしにていこうしました。しかし、1本の剣をもっていても、10本の鎌におそわれては、ひとたまりもありません。ひとり、またひとりとへいしたちはいきたえて、ついにおとうとへむけ、刃先がおそいかかってきます。
「おお、神よ……」
おとうとは、ていこうむなしく、ころされてしまいました。
おとうとが、かんぜんにいきたえると、すべてをみていた牧師様は、そのばに立ったまま、いいはなちます。
「神は、おおさまたちには味方しない。神は、わたしたちの味方なのだ!!」
そのことばで、国民たちには勇気がわいてきました。おれたちならやれる。おれたちなら、『かくめい』をおこせる! そして、あたらしい王様は、この牧師様にやってもらおう! みな、くちぐちにそう言いました。
おとうととへいしをころされた王様は怒って、教会にいた国民をみなごろしにしてやろうと、へいたいをむかわせました。しかし、国民たちがおとなしくころされることはなく、むしろ、へいたいをかえりうちにして、そのまま、おしろへと向かいはじめます。『かくめい』のはじまりです。
その知らせをうけたとき、王様は、お城のなかをはしって、だいじんたちのへやへむかっていました。どうしても、といたださなければならないことがあったからです。
「おい、ぎょぎょうだいじん! おまえが、国民たちは『かくめい』をおこさないというからーーあれ……?」
しかし、そこにぎょぎょうだいじんのすがたはありません。
そのころ、ぎょぎょうだいじんは、教会の中、牧師様のところへきていました。
「牧師様、ただまもどりました。」
「よくやってくれました。けいかく、はじゅんちょうです。」
ぼくしさまはだいじんにあゆみよって、ぽんとかたをたたき、そして、十字架のほうをゆびさします。
「このクニを、神の御洲として供するのです。さぁ、ともに神へ、天使へいのりましょう。」
そういうと、2人は、2人にしか見えない”何か”へむかって、おいのりをはじめました。
よしんば、かの王に絶望のあらんことをーーと。
そのころ、王様のおとうとは、天国から、クニの様子を、ほんもののてんしといっしょにながめていました。
「てんしさま。わたしは、“わるいやつ”だったのでしょうか。」
おとうとがたずねます。すると、てんしは少しこまったようなかおをしてから、こう言いました。
「ほんとうの“あくま”は、“てんし”のふりをするものです。」
わけがわからず、おとうとがききかえします。
「つまり、どういうことなのですか?」
「人間、3人いれば、3通りのかんがえかたを持っています。10人なら10通り、もっとならもっと、もっと。……それを、むりやり2つに分類することなんて、できないものですよ。」
てんしとあくま
この作品は、もともと、学校の絵本ゼミから応募する、とある絵本コンテストへ向けて作った脚本でした。しかし、「子供に読ませるにはテーマが難しすぎる」ということで没になり(そのコンテストの題材が『絵本とのファーストコンタクト』だったので、致し方ない)、学校支給タブレットの中で眠っていたものを、新たに小説として書き起こしたものになります。カギカッコの最後に句読点を入れているのはその名残であり、あえてのことです。不評であれば修正します。