花のまにまに 第三射
夕方ごろ、平河と九段の2人は、今後の活動方針についてあらかた詰め終わった。
「そうだ。これから活動を共にするわけですし、椿には挨拶をさせないと」
九段がそう言う。平河がそれに応じ、住所を書いたメモ用紙を机に置いたまま、二人は2階へ向かった。
すると、九段が2階へ、ギシっと音を立てながら足を踏み入れた所で、がたん、と、なにか大きな物音が聞こえてくる。「あいつ……!」と、九段は今まで穏やかだった表情を一変させて、椿の部屋らしき方へと走った。慌てて平河が追いかける。
そうして、部屋の前までたどり着き、勢いそのまま九段が扉を開けると、簡素な3畳ほどの部屋の隅で、小さな引き出しに手をかけてうずくまっている椿の様子が2人の目に飛び込んできた。あまりにイメージと違うその姿に平河があっけに取られているのを無視し、九段がそちらへ歩み寄って、何も言わずに引き出しを開ける。椿はその間、顔をうつむかせたまま、何も言わない。
「椿――」と、九段が柔らかい声で囁く。それに応じるかのように、椿が顔をあげ、九段の方を見る。
その様子を、扉の方から見ていた平河には、九段がこの時どんな表情をしていたのか、判っていなかった。
ぱぁん、という、大きな音が鳴り響く。その音が、九段の繰り出したビンタによるものだと、平河が理解するまで、少し時間がかかった。それによって、平河は九段に対し、得体の知れない恐怖のようなものを感じ始める。
九段が引き出しの中にあった物を取り出して右手に持ち、そのまま椿を怒鳴りつけ始める。
「また俺の部屋から盗み出したな!? こんなところに隠そうとしていたのか。そんな用途に使うようだったら、この家具もまた捨てるぞ!」
それは、何処にもある、誰でも持っているような、普通の携帯端末だった。
「――携帯、与えていないのですか」
ここまでの動きで、平河の、九段に対する不信感は、より一層大きくなっていた。
「ええ。こんな活動をしている以上、私の目の届かない所でSNSの発信なんぞでもされたら、いつ炎上するかわからない。それに、中高生のガキには、まだ、必要ありませんよ」
どこか、彼の本性を表しているかのように、あっけなく、九段はそう吐き捨てた。
「それは。――本質的に、椿さんを、信頼していない、ということでは」
和らいでいた九段の表情が、それを聞いた途端、すっと、険しくなった。しかしそんなことも気に留めず、平河は話を続ける。
「今の時代、中高生は皆、携帯端末やSNSツールを持っているのが普通です。それが、親交を深めるために必要不可欠となりつつある。そんなご時世で、SNSどころか、携帯端末すら与えられなかった子供は、コミュニティから孤立してしまいますよ」
そう言われると、少しの間をおいてから、九段が「いやいや」と言いながら、椿の方を向く。
「孤立なんて、なぁ? ――してないよな」
椿は表情を硬くしたまま、なんの反応も示さない。
「――だいいち、あなたたちの主張は、18歳未満にも表現の自由と思想の自由がある、というのが根幹に在ったではないですか。それなのに、椿さんには自由を認めないでいては――」
平河がヒートアップ気味になり始めたその時「平河さんは――」と、九段が彼の話を遮って、そちらの方を向く。声のトーンが先ほどまでとは違う。
「平河さんは、公職選挙法第137条の2の、本質的な問題点について、まだ、解っていらっしゃらないようだ。おかしな法律を発見したならば、違憲立法審査会の叩き台にその法律を引き摺り出す他、改正する手段は無い。――元官僚のあなたなら、違憲立法審査会が、どのような形で執り行われるのか、知っていますね?」
「……実際にその法律によって、具体的な処罰が下された際、被告側が控訴・上告を行い、最高裁判所で争う局面になって、初めて、付随的に行われるものです」
「その通り。日本国憲法第81条を、アメリカ型の付随的違憲審査制と解釈した考え方ですね。これが今の司法界の通説。実際に、そのような流れで法改正が成された例も幾つかあります」
「ならば――」と、彼が話を続ける。
「公職選挙法第137条の2について、違憲であるという理由で、改正するべきだと『一般人』が望んだ場合、ですよ。『世論を動かし、霞ヶ関と国会が自主的に法改正することを促す』――という、あまりにも非・現実的な手段の他に、どのようなやり方が有り得ると思いますか」
平河は、考えずともこの時点で、彼の言いたいことの大部分が理解できた。
「……実際に、公職選挙法第137条の2に、18歳未満の人間が違反することによって、『具体的な処罰』を発生させ、控訴・上告を行い、最高裁判所にて、違憲律法審査会の開催を要求すること……」
「正解」と、九段が応じ、続ける。
「しかし、18歳未満といえば、まだまだ未来のある世代です。進路に悩んで、大学進学や、就職、等々、これからの人生について、考えながら、皆、行動する。そんな人々が、『意図的に法律を犯す』という、リスキーな行為を自主的に行うとは、あまりにも考えにくい」
そこまで九段が言うと、間髪入れずに、平河が割り込む。
「だから、あなたのような“大人”が子供の糸を引いて、そのような行動を起こさせる他ない……と?」
九段が、しばらく黙りこくる。しかし、その沈黙には、静かな肯定が含まれていた。
「――それでは、結局、子供の意思は無に等しいではないですか! はっきり言って、そんな状況を実現する手段は、マインドコントロールくらいでしょう。あなたは、椿さんに対して――」
「すでに」と、またもヒートアップする平河を制止するように。九段が言葉を挟む。
「すでに、野党第一党と秘密裏に協定を結んでいます。椿に『選挙運動』を行わせるとね。あの場所であなたと接触できたのは、改正課内のモグラから、その党を通じて私に情報提供があったからなのですよ。『例の官僚が、ついぞ斬首されそうだ』と」
その話に驚愕した様子の平河を尻目に、九段が続ける。
「政治家の世界では、結局、自分たちの利益のためにしか動かない連中ばっかりが出世する。我々はすでに、そんな『利益』を味方につけて、水面下で糸を張り巡らせ、活動基盤を磐石なものとしています。今どき、どんな活動家もやっていることですよ。――わかりますか? あなた一人が、私の方針に異議を唱えたところで、何にも、ならない。正直、あなたの証言など、ただのオマケに過ぎないとさえ言える。我々はあなたを、いつでも切り捨てられるのです」
そこまで九段が言い終えたところで、「どうして――」と、平河が話し始める。
「どうして、そこまで出来るのですか。実の娘をがんじがらめにしてまで、どうして、そうまでして、自分の考えのために……」
畏怖と、失望と、不可解の入り混じった震え声で、彼はそう問いかけた。九段がそれに応える。
「――私がやらねば、誰がやる。私は今まで、その精神で生きてきました。だから、私が結婚した時も、当時話題になっていた苗字については、嫁の『九段』を頂いた。旧姓を『富士見』と言います」
そのまま彼が続ける。
「平河さん。この一件こそ、私がやらねば、誰がやるのです。一見ちっぽけに見える問題を、大問題として提起する行為。下手をすれば、誰にも見向きされぬでしょう。それも、実行するリスクはあまりに大きい。しかし、今の日本にとって、この改革は不可避――」
一拍おいてから、箔をつけて言い放つ。
「だから、私がやる。これが、私の行動原理です。単なる思考実験に留めることなど、私にはできなかった」
平河は、そこまで聞いて、もう、九段に対し、失望の他に何の感情も抱いていなかった。彼にもう未練は無い。しかし、彼らから距離をおいてしまう前に、どうしてもひとつだけ、確認しなければならないことがあった。
「――椿さんは、それで良いのかい……?」
少し、しゃがみこむ様にして、そう、彼女に問いかけてみた。
――しかし、椿は何の反応も示さない。
本当に、何の反応も示さなかった。
全く、全然、ただの一言も言わず、表情筋一つ変えない。その裏に、何か意思があるのか、無いのか、それすら平河には読み取れなかった。ただ椿は、九段にビンタされた時と全く同じような悲しげな顔を、ただ、顔に貼り付けて、息をしているのみである。ただ息をするのみである。
「――だったら」と、立ち上がって、平河が言う。
「もう、あなたたちと、話す事はありません」
そう言って、九段たちに背を向けた。
「それが、あなたの意思ならば、仕方がありませんね」
ただ淡々と、九段が返す。
「ええ。もう会うことは無いでしょう。それでは」
その日の夜。寝静まった九段たちの家に、忍び寄る影が5つほどあった。2人を出入り口の封鎖に割き、残り3人で、静かに家の中へ侵入する。そして、一階に誰もいないのを確認すると、二階へ音を立てずに登り、1人を椿の部屋へ向かわせ、もう2人でもって、九段の寝室へ突入した。
この2人のうち片方が持つ財布の中の万札には、まばらに紅がついていた。
バァン。――と、荒々しく扉が開けられた音と、いきなり点灯された灯の眩しさで、九段は目を覚ます。
「あなたには、公職選挙法違反の疑いがかかっている!」
神田にそう叫ばれると、激しい鼓動を抑えながら、九段が反論する。
「なんだと、今は選挙期間中では無いはずだ! なぜこのタイミングで――」
「137条ではない! 公職選挙法第221条5項についての、選挙運動者が金銭若しくは物品の交付を受け、その交付を要求し若しくはその申込みを承諾した疑いだ!」
その台詞を、一度も噛むことなく流暢に言い切ると、神田は令状らしきものを九段に見せつける。
ああ、そうか。我々はずっと彼らに監視されていたのか。――と、九段は初めて悟った。
その時、椿の部屋へ向かっていた神田の仲間が叫ぶ。
「――『早咲きの椿』が居ません!」
「なんだと!?」と、最初に言ったのは、神田ではなく、九段の方だった。神田が「うるさい、ちょっと静かに」と九段を制止する。
「なにか、“置き手紙”とか、そういうものは無いか」
神田がそう聞き返す。聞かれた彼は「何も有りません」と応じたが、九段はその答えを聞く前に、“置き手紙”という単語が耳に入った時点で、ハッと、椿の居場所について見当がついていた。
「あいつだ……あいつの家だ!」
「あいつって?」
「お前ら、どうせそれ絡みで来たんだろうが。平河だよ、ヒラカワ。総務省の」
「元熱血業務戦士か」と神田が割って入る。
「あ、あぁ。ともかく、一階リビングの机の上に、メモ用紙がおいてあるかどうか確認してくれ。あれにヤツの住所を書いていた。それが無くなっていたならば、椿はそこに居るはずだ」
「それは良いが……」と、神田が話を遮り、九段に顔を近づけ、続ける。
「お前、自分の娘っ子が取ッ捕まえられそうだって時に、その態度か」
――そう言われて、九段は何も言い返せない。ただ、黙っているほかなかった。
「そうやって、どこまでも子供を、己の管理下に置いてしまいたいんだな」
その頃椿は、やはり九段の予想通り、平河の自宅を訪れていた。ぴんぽん、と呼び鈴で呼び出された平河が、扉を開ける。
「椿さん!? どうしたんだい」
そう言われてから少しして、椿が口を開く。
「あの後、なにか、嫌な予感がして、外を見たら、駐車場に見慣れないキャンピングカーがあって。それで、人が上がり込んでくる前に、裏口から外へ出て、塀をよじ登って、えっと、から――」
椿の手には、平河の住所が書かれたメモ用紙が握られている。その様子から、事のあらましを平河は大体理解した。
「もう良い、わかった。とりあえず、夜は寒いから、ウチで暖を取って、それから」
「私、行くところがここしか無くて……」と、平河の言葉を遮るように椿が呟いた。
それをきっかけに、平河の胸には、言い知れぬ同情が湧いてくる。
「私、ずっと、人の指示が無いと、何もできないと思ってた。だから、父さんに何も言われないまま、ここまでたどり着くことができて、少し、戸惑っていて……」
そう言うと椿は、視線を平河からそらすように少し下を向いて続けた。
「主体性を持って行動する、って、こんなに怖くて、こんなに辛いんだね。誰にも許してもらえない中で、私自身で責任とリスクを取りながら、暗くて冷たい道の中を歩んで……」
今日、一連の激しい動きに呑まれながら行動した平河にとって、そんな椿の言葉への共感は不可避であった。そのうえ、彼女は先ほどまで親による管理下にあった子供である。その心労はどれほど大きなものだっただろうか。そんなことを考えて、平河の中の熱い感情は、より一層増幅される。
また一拍おいて、椿が続けた。
「やっぱり、“子供”が主体的になるなんて、おかしいことなのかな。大人のいうことを聞いて、自分を殺して生きていかなきゃいけないのかな――」
「そんなことない!」と、半ば彼女の言葉を遮るように平河が叫ぶ。彼の心にあふれた同情と哀は、食い止める力などもう残されていない平河の精神の中で、完全に氾濫を起こしていた。
両手を椿の肩において、やさしさと哀情いっぱいの声で続ける。
「そんなことない、そんなことないよ。大人だろうが、子供だろうが、その思いのまにまに動いて良いんだ。主体的になって良いんだよ。もし、それで、必要以上に苦しむのなら、それは、“季節”がおかしいだけなんだ。君は何にもおかしくなんかないんだ。むしろ、君はすばらしい!!!」
椿が驚きの混ざった顔を上げて、平河の目を見る。
「いいかい、“季節”を作り上げるのはいつだって大人たちだ。どうしようもない、サクラのような連中だよ。そんなやつらは、みっともないと笑ってやれば良いんだ。君が、椿が、椿の季節を作ってやればいいじゃないか。君にはその力がある!!!」
「だから――」と平河が続ける。
「前を、向いてくれよ!!!」
静寂が訪れる。春の夜は、椿が想像していた以上に寒かった。体は冷えきっていて、熱を過敏に感じる。
平河が長い台詞を吐いてから、しばらく2人は微動だにしなかった。――そして、その場へ最初に動きをもたらしたのは、雪解け水のように溢れ出した、椿の涙であった。
すぐに下を向く。自分の目から水滴が落ちて、玄関先のコンクリートを濡らしてゆく様子が、椿には見えた。その落ちてゆく涙を、冷え切った手ですくってみると、思った以上に熱い。
椿は、何か、傷を負った時、その場所から、酷く熱を感じるものだ、と、聞いたことがあった。
今までずっと、その熱が、冷え切った自分の精神に色をつけてくれるような気がしていた。
「……なんだ、こんなもんか」
そう、ぽつりと彼女がつぶやく。よく聞き取れなかった平河が「え、なんだって?」と聞き返していたが、その声は椿に届かない。
「ははは、おかしいや! けど、わるくないかも。それも」
そう言うと、困惑する平河の右腕をおもむろに掴み取って、引っ張る。体制を崩された平河は、そのまま転ばないよう、椿の方へてくてくと足を進めてゆくほかない。それを見て、椿はそのまま手を引き続け、玄関先から道へ出る。
「ねぇ、平河さん」
椿が問いかけた。
「私が、『おかしい』って、思うようなことが、なんにもない、理想郷って、この世にあると思う?」
走りながら、平河が答える。
「残念、だけど、たぶん、そんな都合の良いところは、存在しないよ」
「だよね!!!」
「だから――」と、椿が続ける。
「この世界は、これからの時代は、“わたしたち”が、創っていくんだ!!!」
神田たちの車は、着々と、そちらの方へ向かっていた。その可能性に、早く椿が気付けたのは、幸運だったかもしれない。
そうして2人は、春の、先の見えない暗い道の先へ、どこまでも、進んでゆく。
2人の行方は、まだ、誰にもわからない。
花のまにまに
止め