花のまにまに 第二射
ことを終え、堀の中へ落ちた1人の部下を、もう2人の部下が引き上げている様子を眺めていた日比谷の携帯に、着信が入る。
「私だ。どうした、永田」
そう応えると、なにか焦っているような様子で永田が話し始めた。
『さきほど、公安から情報提供がありまして。それが、大臣の耳にもお入れした方がよい案件でして』
「公安から?」
日比谷の顔に疑問符が浮かぶ。公安という組織が各省庁を通して、何か、情報を提供するようなことは滅多に無いからだ。
「……で、要件は」
『「九段椿のマネージャーと平河が接触した」――と』
「何だと!?」と、間髪入れずに叫んでしまう。
しかし、彼はすぐに冷静になって、状況を整理し始めた。
「――はぁー……」
そして、日比谷は頭の中で、ある仮説を組み立てた。
『ど、どうされましたか?』
日比谷の態度を見て、永田が問いかける。
「いや……その連絡をよこしてきたやつは、役職だとか名前だとか、何か言ってきたか」
『東京公安委員会の神田――だと。そういえば、「僕は東公の神田ですよ」と、しつこいように3度くらい言ってきていましたね。公的なやりとりの中で“僕”だなんて、ちょっと、礼がなっていないですよ』
あいつか。――と、日比谷は、ことのあらましをだいたい把握し、頭を抱えた。
「お前は、ガス抜き的な課長として適していると俺が判断した結果、霞の中から掬い取られたばかりの人間。まだ知らなくて当然だな。神田は、その方面では名が通った人間だ」
『その方面、とは』
「饅頭だよ、毒饅頭。やつはそういうのを好んで懐に入れるタチの人間だ。いいか? その連絡を寄越した時、やつはきっと、お前にこう言いたかったんだろう。『俺たちなら奴を止められる。公安調査庁まで菓子折り持ってツラさげに来い』――と」
電話口からの声が途切れる。だが、永田が電話の向こうで息を飲んでいることくらいは、日比谷にも察しがついた。
「……すぐに折り返しでアポを取り付けて、神田と話し合うんだ。交渉の方針は――」
日比谷は少し、言葉選びのため間をおいた。
「お前の忖度に一任する。終わったら、接待費を300万ほど出してやるから、そのつもりで」
それから少し経って、午後4時ごろ、千代田より少し離れたどこかの住宅街にある一軒家、九段の自宅で、平河たちは話し込んでいた。
2人が皇居で接触した時、平河は、九段が九段椿のマネージャーと知るや、躍起になってことのあらましを説明し始めた。すると九段は「あまり、ここに長居していては先方に感づかれるやもしれません、少し離れたところへ。――そうですね、私の自宅でじっくり、情報を共有しましょう」と平河に提案する。行くあても無く、とりあえず自宅へ帰るしかなかった平河は二つ返事で了承し、ここまでやってきたのだった。九段の予感がまさに的中していると、まだこの二人は知らない。
「なるほど。やはり、改正課の現状はそんなところでしたか……」
平河は、そこからこの時間になるまで、改正課や総務大臣、その他さまざまな事柄についての、持ちうる全情報を九段に話していた。
「録音機も失ってしまい、私一人の力ではもう、どうにもならないかと思っていましたが、『早咲きの椿』の力があれば、もう、向かう所敵なしです。私の証言を、椿さんの活動に活かせませんか」
そう言われると、九段は「そうですね……」と言ってから、少しの間考え込んだ。
「――いいでしょう。その方針でいきましょう。とりあえず、私たちはしばらく活動を共にする必要、すなわち報・連・相を蜜とする必要があります」
そう言うと、ポケットから小さなメモ帳を取り出して、ページを一枚破り、平河へ手渡す。
「こちらに連絡先と、一応、住所の方をお願いできますか?」
「もちろん」と平河は二つ返事で了承し、電話番号やSNSなどの連絡先、そして、住所までもを素早く書き込んだ。仕事上、彼はこのような作業に慣れていた。故に彼は、この工程に、何の疑問も抱かない。
平河がそれらを書き終わり、九段の方へ渡そうとした時、ぴんぽん、と呼び鈴が鳴った。
「はーい」と、椅子に座ったまま九段が応えると、平河の方を見て一言「帰ってきましたよ」と言い、メモをテーブルに置いたまま、玄関の方へ向かう。
2人の予想通り、帰ってきたのは椿であった。いかにも高校生らしい装いで、カバンを右肩にかけたまま、玄関から、平河のいるリビングの方へやってくる。
平河はてっきり、演説をしている時のような、元気で、強い自己を持った『椿』がやってくるのかと思っていた。しかし、彼の目の前に現れた彼女は、決してそんな顔をしていなかった。視線は常に少し下の方を向いていて、口周りを隠すようにマスクをつけ……明らかに、元気では無い。
ああ。春だし、花粉症なのか。――という常識的な彼の予測は、すぐに覆されてしまう。
「ほら、お客さんが来てるぞ」
そう九段が諭すと、椿はパッと、表情を明るくして、顔を上げ、マスクを取る。
「こんにちは!」
その様子は、いつもメディアを通して、椿の『日常』として示されてきたような様子と完全に一致していた。
一連の動きから、平河は強烈な違和感を覚えてしまう。
「あの……マスク、つけていなくて大丈夫なんですか?」
平河のその一言で、全員が少しの間、黙った。しーんとして、まるで誰かが、空気の読めない余計なことを言ったかのように、その場に気まずさが流れる。
「――ああ、椿は、大丈夫ですよ。――だよな?」
そう言われると、椿は一回コクリと頷いて、そのまま2階へ続く階段へ向かい、登ってゆく。どうやらその先に彼女の自室があるらしい。階段を登る途中で彼女は、マスクをつけ直していた。
「やっぱり、花粉症か何かなんじゃ」
椿が見えなくなってから、平賀が九段へそう問いかける。
「たぶん、風邪か何かでしょう。放っておけばすぐに治りますよ。無駄に薬なんかで熱を冷ましたりするから、抗体が弱まって長引く」
「――さ、そんな事より」と、話を半ば強制的に切り上げて、九段はこれからどのように、平河の証言を活動に生かすかの話し合いを再開した。
夕方の霞が関。警察庁、応接室の中で、永田と神田が面会していた。廊下側は分厚い扉と壁で防音がなされており、窓にはアルミ製のブラインドがかかっていて、少し薄暗いような印象を受ける空間。その上座に神田が座って、下座で永田が、彼の話を聞いていた。
「――平素より、僕らのチームは『早咲きの椿』を監視対象として調査していました。今日の正午、彼女の父かつマネージャーをしている人間が皇居へ向かったので、何事かと思いそちらの様子を監視していたら、驚きましたよ。桜の中からいきなり黒服の大男が転がってきて、お堀の中へ、ばっしゃーん!! ――と、落ちたのですから」
オノマトペに合わせて、神田は水しぶきが上がるようなジェスチャーを永田に見せる。ハハハと乾いた笑いを見せる彼女を無視して、そのまま彼は話を続けた。
「あの時、あの桜林の中で何をしていたのか、僕らには皆目見当もつきませんが、その後、その桜林に隣接した通りから一人の官僚が出てきましてね、九段に呼び止められるように接触して、そのまま彼と話し始めたのです。で、調べてみると、おたく様の抱える熱血業務戦士と来た」
そこまで言うと、彼は一呼吸置いて、トーンを少し下げ、体を乗り出して永田の目を見据え、こう言った。
「あれは……“裏切り”ですか?」
「は、お恥ずかしい限りです。私の監督不行き届きで……」と、すかさず永田が頭を下げるように付け加える。
「監督不行き届き、ね……」
そう言うと、乗り出していた体を引いて背もたれにもたれかかり、やはり偉そうな口調で続ける。
「そのユキだかトドだかは正直、僕らにとって、どうでも良いことなのですよ。――さて。僕らのチームは平素より九段たちを監視していたのみならず、彼を封するためのシナリオも想定しながら活動してまいりました。なので僕らは、いざ! と相成らば、彼を沈黙させることが可能です。カバーストーリーを流布し、正当性はあくまで体制側で持って保ち、彼を葛飾小菅へ送り込むことが」
その大胆な物言いから、思わず永田は、息を飲んでしまう。――自分たちは、違法な行いすらやってのける。などということを、包み隠さず言うことが出来る人間が、本当に霞が関にいたなんて。――と、彼女はある種、目の前の無礼な、同い年程度の若者に、恐怖を抱きつつあった。
「しかし、リスクは大きいうえ、大変な仕事になります。ええ、それはもう、大変ですとも。例えるなら――そう、皇居のソメイヨシノをジンダイアケボノへ一新するプロジェクト、あったでしょう。あの時などとは比べものにならぬほど大変な“仕事”になります」
「なれば、ですね……」と、一拍おいてから続ける。
「チームメイトたちの“やりがい”を引き出すためのモノが、必要だと、僕は思うのですよ。もし、あなたが、僕らに動いて欲しいと望むのならば、なにか、その辺りについて、お考えがあるのでは?」
そう言って、背もたれから体を話して前のめりになり、永田に対し微笑みかける。すると、それに応じて彼女も表情筋を持ち上げ、「ええ、それなら、ここに」と言い、持ってきたバッグの中から30cm平方程度の菓子折りを取り出し、神田の目の前で蓋を取り外してみせた。
「これは……ほー。桜饅頭、ですか」
そう言う神田を尻目に、永田が取り外した蓋をひっくり返し、桜饅頭の詰まった本体の脇にそっと置く。蓋の裏側には、小さな和菓子切りが添えられていた。
「ええ。桜“餅”の方が、この季節の和菓子としては一般的ですけれども、そちらですと、みなさんもう“飽きている”と思いますので、あえて、こちらを用意いたしました」
「これを隊員たちに配っていただければ――」と続ける永田の話を前から後ろへと流して、神田は敷き詰められた饅頭の一つの取り外してみた。すると、なにやら銀色をした、しかし銀紙のような光沢は持たない、紙の束が、桜饅頭の下には敷き詰められていた。
「なるほど、毒が入っている、というわけですか」
そう言って、手に取った饅頭を机へ置く。
「ええ。“毒饅頭”です。あなたの御好物でしょう?」
そんなやりとりを交わすと、もう一度、視線を菓子折りの方へ落として、神田はしばらく「1、2、3……」と、なにやらぼそぼそと呟きながら考え込んだ。固唾を飲んで、永田がそれを見守る。神田がなにかを数え終わると今度は、菓子折りの中から札束を取り出して、その枚数を見定めるように眺めた。
「1束50で、6。……300、か」
ぽつり、とそう呟くと、持っていた札束を机に下ろして、また静かに話し始める。
「薄い……ですねぇ……」
永田が少し体をびくつかせてしまう。300万円では足りなかったか!? ――と。そして、次に来る彼の言葉に備えて、歯をくいしばるように精神を締めた。
しかし、神田の続けた言葉は、心配していたようなものではなく――
「僕、色が薄い桜、って、あまり好きじゃぁないんですよ」
突拍子も無いものだった。
へ? と、永田は思わず、間抜けな声を発してしまう。 神田がそんな永田を尻目に、安置された蓋の裏から和菓子切りを右手にとる。
その刃の部分を左手でしごきながら、永田を威圧するように話を続ける。
「昔、ソメイヨシノ、って、あったでしょう。あれの色ぁ良くなかった。世間では、わびさび、だとか、なんだとか言って囃し立てていましたがね、えぇ? やたらうっすいピンク色で。あんなモンはもう、白ですよ、白。空でも眺めていた方がよっぽど綺麗ってなモンです」
「は、はぁ」と、困惑気味に相槌を打つ。そんな永田を置いて行くように、 「それにくらべて」と、神田が話を続ける。左手を和菓子切りから話す。
「今じゃどこの桜もジンダイアケボノにすげ変わって、咲き誇っている。僕は、ああいう色が好みなんですよ。色が濃くて、毒々しいほどに鮮やかだ」
すると、和菓子切りで永田の口先を示唆するように、刃先を前へ向け、続けた。
「――ちょうど今、あなたがつけている口紅のように」
その言葉から、永田は急に寒気を感じて、体を少し震わせてしまう。手で唇を押されたような不快感を、彼女は感じた。そんな感覚が直接的に襲いかかってくる。そんな様子も気に留めず、神田は話を続けた。
「永田さん。あなた、さっきこれを“毒饅頭”と、おっしゃいましたね」
「え、えぇ」
震え気味の声で、とっさにそう答えてしまう。
すると神田は、おもむろに、机に安置していた桜饅頭を手に取ると、ざっと包み紙を取り払って、生地まるだしの状態にした。そして次には、また机から、今度は札束を、まるでピザでも食べるかのように右手で持ち上げると、左手でぎゅっと、押し付ける風にして、桜饅頭を札束へ乗せる。
「毒を食らわば皿まで。――という言い回しも、あるのですよ。ご存知ですか?」
そう言うと、神田は、右手に持った札束桜饅頭を、そのまま、永田の口元へ差し出した。
数分後、応接間にて。一人になった神田は、まばらに紅の付いた札束をしばらく眺め回していた。それが終わると、まるで自分へのボーナスを扱うような手付きで、自らの財布へ納める。
そして、自分の酔いを覚ますように、独り言を言った。
「――よし、仕事の時間だ!」
つづけて第三射へ