花のまにまに 第一射
薄暗い、三畳ほどの部屋の隅に、少女が一人、うずくまっている。右手に持ったカッターナイフは、開け放たれた窓から刺す月明かりを反射し、彼女の左手首をちらりと照らす。
しかし、いざ、という所で、ずかずかという大きな足音によって少女の意識は虚ろから現実へ引き戻された。隠さないとーーそう思った時にはもう遅い。扉は大きな音を立て、そして、部屋へ一人の男を招き入れる。
普通の家庭なら「何か悩みでもあるのか」等、いや、そんな温かみのある言葉でなくとも、何かしら一言あっても良い所だ。しかし、彼はただ無言で、頰を叩くのみだった。
衝撃でカッターナイフが落ちる。からん、というその音を合図に、彼女は冷静になってしまう。
「お前は、なんの問題もない、健全な、高校一年生の、九段椿だ……」
そう囁いてくる父の言葉を脳へ垂れ流しながら、きっと自分の血が流れ落ちることは永遠にないのだろう、と少女は悲観した。
しかし、事は思いがけない方向へ動くものである。彼女の予測は、ものの一ヶ月足らずで破れた。
椿の花は枯れ落ち、季節は桜の独壇場となった、そんな頃の話である。
その時、彼女の悲観は解けるのか、今はまだ、誰も知らない。
『公職選挙法第137条の2』この法には、[年齢満18年未満の者は、選挙運動を行うことができない]と記されている。[何人も、年齢満18年未満の者を使用して選挙運動をすることができない。ただし、選挙運動のための労務に使用する場合は、この限りでない]と続く。
要するに、「十分な判断能力を持たず、大人の言葉に大きな影響を受ける18歳未満の者を、大人は広告塔に利用してはならない」という内容であり、「そんな大人たちから守るため、18歳未満の者は選挙運動を行えないこととする」と、そういう見解の元、成り立っている法律だ。
しかし、大人から子供を守るため、子供の行動範囲を縛るとは、論理が飛躍している。日本国憲法第21条『表現の自由』に反する。この『表現の自由』が尊重されない状況は『公共の福祉に反する』場合のみであるが、大人が子供を操っているのであればいざ知らず、子供が自らの意思で、主体的に、選挙運動を行った場合さえ規制せんとするような法律は、明らかに違憲である。
よって、この法、公職選挙法第137条の2は、早急に改正されるべきである――
――そんな主張を展開する、ひとりの16歳の少女が、世論の注目を集めていた。彼女の名は『九段 椿』
彼女は類まれなる演説スキルを持ち、各所で政治的な活動を展開していた。若い彼女は『早咲きの椿』ともてはやされ、着実に、その支持者を増やしている――
総務省法改正課に籍を置く高級官僚の平河も、そんな支持者のうちの1人だった。
「永田課長。公職選挙法第137条改定案の、第13回改稿版になります」
そういうと、書類の入った大きな茶封筒を、デスクに座る課長へ手渡す。それを受け取った永田は、内容に目を通すことなく、封筒をデスクへ安置した。その内容がすでに完璧であることを知っているからだ。
世論の煽りを受け、稀な女性課長を長として、ある種PR的に設置されたこの改正課だが、その実、公職選挙法を改正する気など初めから無かった。
国民が賢くなるということは、政局が不安定になるということであり、それは、既得権益を脅かすことに繋がる。科学面や防衛面、学問などについては国民は賢くあらねばならないが、こと、政治においては、国民の関心は薄いままであった方が、権力者や、一部の官僚にとって都合が良い。「18歳未満の選挙運動を禁ずる」という法は、その観点に立ってみれば非常に割りが良かった。それを承知し、忖度を続ける霞ヶ関の官僚たちは、この法律を改正する気になどならない。
故にこの改正課は、高ぶった世論をある種ガス抜きするための形式的な課にすぎなかった。籍を置く官僚も、そのほとんどが、他の課との掛け持ちで所属しているにすぎない。
永田課長が口を開く。
「平河クン。……聞くまでもないんだろうけど、本当にやるつもり?」
そんな改正課の環境にもかかわらず、九段椿の支持者であった平河だけは、真っ当に法改正へ向け働いていた。本来、法改正の仕事は一人でやるようなものではない。一定人数を擁するチームで取り組む大仕事である。しかし、この職場において、平河に協力しようとする者は一人も現れなかった。永田の根回しと、上への忖度があったからである。にもかかわらず、平河は一人で改正案を作り上げ、提出してきた。
「はい。これは、今の日本に必要な改革です」
最初のうちは永田も、誤字、脱字や、言葉遣い、構文など、重箱の隅をつつくように、あれはいけない、これがいけないと突っぱねてきたが、その度に平河は修正を行い、何度でも改稿版を提出してきた。それを繰り返し、今日で13回目。自分ひとりの力で、これ以上はもう抑えきれない。永田はそう悟っていた。
「あのね……仮に、私がコレを上へ通す許可、出したとしても、総務大臣が了承しない限り、国会どころか閣議にさえ上がることは無い。それでもやる気?」
「はい」
「だったら――」と、永田は自分の胸ポケットから手帳を取り出して開くと、1ページちぎって平河へ差し出した。
「だったら、キミが直接、日比谷総務大臣を説得しなさい。どうせ今日あたりキミが改正案を渡しに来るだろうと思って、大臣にはもう、アポを取ってあるから」
永田で抑えきれなくなってしまったのであれば、もう、大臣クラスから平河の考えを折るほかない。そういう事で、事前に永田と日比谷総務大臣は打ち合わせていた。
数日後、千代田区、北の丸公園の端、水堀にほど近い桜林の中に、一つのベンチがある。面会にこの場所を設定したのは他ならぬ日比谷総務大臣だった。大きな通りからは離れていて人通りは少なく、広葉樹が生い茂る林はある種、閉鎖的である。ここで何をしようが、外へ露見することはない。日比谷はそう考えていた。
しかし、いざ平河を待っている時の日比谷の考えとしては、余計なことは何も言わずに、ただ「そのような改正案が上がっても、私は採用しない」と真正面から釘を刺して話を終えるつもりだった。その方が圧倒的にリスクが少ない。
満開を迎えて少しの桜は、北の丸公園の一角に、桜絨毯を作っていた。その花弁を踏みしめながら、平河が日比谷の前まで歩み寄り、立って、一息つく。平河は確かに、いかにも政治家らしい体相の中年男性の様子を、直前に捉えていた。
すると平河は、ポケットから録音機を取り出し、右手に掲げ、こう言い放つ。
「私達の会話は、以後、すべて録音します。私が『民意に反する』と思う発言があれば、速やかにマスコミ各社・インターネットやその他、ともかくも、世間へ拡散させるものです」
日比谷たちの考えは、平河も承知の上だった。
民意に反するようなことを言えば暴露する、と脅されては、「そのような改正案」などと無下にすることはできないはず。かといって、この法案を否定する正当な理由も無い。よって日比谷は、改正案を受け取ることを拒否できないはずだ。閉鎖的な空間だからといって無理やり身柄を抑えるような手荒な真似は、いくら諸悪の根源、総務大臣だとしても実行しないだろう。――平河はそう考えていた。
「――君は」
日比谷が初めて口を開く。
「君は何か、明確な黒幕が、政界に在って、やれ全てはその既得権益のため謀られている、だとか、その者さえ陥落せしむれば、全ての謀りは解かれる、だとか、そんな風に、勘違いしとるんじゃないかね」
平河は言葉を失った。言われてみれば、たしかにそんな考えが己の中にある。それを今まで自覚していなかった。
風が、桜を散らす。その花びらが降ってくるまで、日比谷は少し間を置いた。どんな時でも冷静であることは重要だ。話のテンポを早くし過ぎないのが彼の流儀だった。
平河は、日比谷の問いに対する答えを考える時間を得た。
「少なくとも、総務省においては、その通りでは」
平河の周り、桜の花弁が舞い降りて、日比谷の前に簾をかける。
「――買い被りすぎだ。私にそんな力は無いよ」
日比谷はそういうと、少し目線を上げるように黄昏て、続ける。
「例え話をしよう。昔、この皇居には、一本の菊の華が咲いていた。そう、たった一本だけが。庭に咲く幾つもの花草林竹をまとめ上げる、特別な華だった。戦前の話だ。だが、今はただ、雑木雑草が個々の養分を得るため奔放に競争を続け、生い茂って、この緑地を形成している」
十分な手入れを受け、満開になった桜の花びらは、永く永く舞い続けている。
「平河くん。今の霞が関は。――いや、今の日本はね、まとまった一つの総体たりえてなどいないのだよ。それぞれの官僚が、勝手気侭にバラバラに、自分のキャリアのため、自分の進める企画を失敗させたくないがため、押しつぶされそうになりながら、ナイフの上でコマを回す様と同じようなくらい不安定に、動いているだけだ」
そう言われて、平河は改正課の同僚たちのことを思い浮かべた。彼らの様子はたしかに、日比谷の言う事と合致していた。
「この舞い続ける桜のように、巨大で、不安定で、押しても引いても何も返ってこない。――霞が関はそんな世界だ。たかだか大臣一人の力で、謀る、だとか、解く、だとか、そんな事が、できるはずもないではないか」
そう言って、しばらく日比谷は沈黙した。花弁の簾が徐々に薄まってゆく。そして、最後の一枚が地に触れるまで、その場に声が飛ぶことはなかった。
録音機はまだ健在、その気になればこの公僕らしからぬ発言の数々を、公の場に晒し出せる。なぜ日比谷がこんな発言を平気で吐けるのか、平河にはわからなかった。しかし、わからないが故に、何か得体の知れない恐怖のような感情を抱きつつあった。それと同時に、日比谷の言う『論』を理解してしまったせいで、改正案を国会へ通す、という目標を、半ば諦めるような感情も芽生え始めていた。
そしてそれらの感情は、日比谷の作った長い静寂のうちに相乗し、平河の精神を追い詰めてゆく。自らの判断能力が鈍っているのを、平河が感じ始めた頃、日比谷が話し始めた。
「――まぁ、そういうわけだ。私は、そのような改正案を受け取ったところで、国会にまで上げる気など毛頭ない。上げたところで意味も無い」
その言葉は、不安定な平河の心情に、一片の憎悪を落とした。
「そうだ。お前の上司――永田くんから、頼まれていた渡し物がある」
そういうと、日比谷は左の胸ポケットに手を伸ばして、小さな茶封筒を取り出してきた。そんな間にも、平河の心に芽生えた憎悪、この得体の知れない男と、その他すべての腐敗した霞が関の高級官僚たちへの憎悪は、いっそう膨れて脳内を支配してゆく。
薄れた判断力で、やっと、日比谷の持つ茶封筒に『退職金』と書かれていることに気がつく。日比谷は、たかだか元官僚の一人くらいが騒いたところで、なんの脅威にもならないと考えていた。日比谷が口を開く。
「言伝だ。『椿の信者のまま一生養分になっていろ』――とか」
「ふざけるな!!!!!」――そう平河は叫んで、掲げていた右手を左斜め下へ振り下ろし、構え、殴るように封筒を払った。録音機が錘の働きをしたのか、瞬間的に大きな力を与えられた茶封筒は破裂し、札束を散らす。そしてそれらはそのまま、平河の右手側へ飛ばされ、やっと速度を落とした。つい先ほどまで桜が散っていた空間を、今度は札が占有するように滞空し、ゆっくりと舞い、落ちて行く。桜絨毯が銀色に染まる。
ストレスを打ち払ってしまった平河は、少しづつ判断能力を取り戻し、情報を整理し始めた。――瞬間、平河は脳から延髄までもが冷え滴るような羞恥に襲われ始める。無い。録音機が無い。たしかに右手に持っていた、今までの会話、全てを記録した録音機が、こんな状況に置かれた平河が持てる、唯一の反撃手段が、録音機が、無い。この手に無い。この右手に存在しない。
何度も右手を開いたり閉じたりして、身体中のポケットを探っているうち、身近にそれが存在しないとわかった平河は、周囲を見回し始める。右側へ4回ほど振り返り直した頃、やっと平賀はそれを見つけた。札と同系色だったせいで、判りにくかったのかもしれない。録音機は、舞い落ちた札が形成した銀色の一角の向こう側、桜色と銀色の境界線あたりの部分に落ちていた。
早く回収しなければ――手を伸ばすようにそちらへ進もうとして、足が追いつかないような体相でつまづき、それでも這うようにして進む。桜の花びらを足で蹴って、散った万札を手で潰し、擦り、撥ねて、ぎこちなく、まるで何かから逃げるかのように録音機を回収せんと進む。
低い視線で、揺れる視界で、途切れ途切れに録音機を確認しつつ這ってゆき、あと万札一枚分も無いかというほどにまで、伸ばした右手が迫った時、黒い何かが、銀色の録音機の上に降ってきたのを、平河は確認した。それが革靴であると理解するまで、時間はかからなかった。顔を上げると、SPさながらといった風体の大男がそこに居た。
大男が下へ右手を伸ばし、踏みつけていた録音機を回収する。立ち上がって唖然としていた平河が、はっと我にかえって周囲を見渡すと、同様の風体をした男がもう2人ほど、日比谷のそばにいるのが確認できた。
「そんな。さっき、力は無いって」
「これでも、なんだよ」
平河は、次にその大男たちが自らに何をしてくるのか、何となく察してしまう。慌てて逃げようとするが、その行く手を、あの録音機を持った男が阻んできた。
そうだ。録音機さえ回収して逃げれば、まだ勝機はある。――そんな考えが頭をよぎった時、すでに平河の両腕は、男の右手を、録音機を持った手を捉えていた。二人が揉み合いはじめる。
日比谷にとって平河のこの行動は、都合が良かった。何も無しに身柄を抑えていれば違法な行いとなってしまうが、向こうから暴力を振るってきた状況であれば、ある程度の正当性を確保できる。政治の世界では、そのような駆け引きが何より大切だった。日比谷がそばにいる2人の男に「待て」と指示を送り、しばらく平河たちの様子を伺う。
平河たちはといえば、大男と、窮鼠と化した平河の力は意外にも拮抗しており、しばらくつかみ合って、押しつ押されつ、といった体相を見せていた。上半身は強い力で押し、押され、その力をうけ流そうと、両足はたびたび踏み場を変える。そんな動きをお堀の近くでしていればどうなるか、つかみ合う二人には予測する余裕が無かった。
平河の両手が、突然、解放される。それと同時に、視界からは大男が消えた。前へ倒れ込みそうになって、あわてて体幹を立て直し、そのまま視線は下を向く。大男が録音機もろともお堀の水へ落ちる様子が見えた。飛沫が飛んできて、反射的に目を閉じる。慌てて目を開けてみると、大男はすでに態勢を立て直していたようだが、その右手に録音機は見えなかった。
「――これで、証拠は無くなったな。さ、話は終わりだ。金を拾って去ね」
日比谷は、もう、これ以上、平河に対して危害を加えようとはしなかった。解雇で転落した社会的地位、暴力を振るった事実、録音機の水没。――これだけ有利な条件が揃えば、平河は驚異たりえない。
「誰が、こんなものを」
平河はけっきょく、退職金を受け取らず、通りの方へ去っていった。
「総務省改正課の平河さんですよね」
北の丸広場の出口あたりで、平河はそう呼び止められた。話しかけてきた彼は「いや――“元”と言うべきでしょうか」と続ける。
振り返ると、三十代に差し掛かった頃くらいに見える、ちょうど子供の一人を抱えていそうな男性が視界に入った。
「見ていたのですか」
「ええ、ちょうどこの辺りに用がありまして」
「あなたは……」と平河は聞き出そうかと思ったが、何となく、彼が誰なのか察しがついたような気がして、言葉に詰まってしまった。するとそれを見て、彼から自己紹介をしてくる。
「九段、といいます。『九段 椿』の、マネージャーをしているものです」
つづけて第二射へ